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氷の暴風と

 平原にはハタネズミの姿があったが、凶暴ではなくなっていた。普通の状態に戻っている。ほっとして、平野部の草の海を南下していく。

(これで安眠もできそうだ。ヒグマの姿や足跡も全く見かけないし、気楽な旅だな)

 山の斜面沿いに歩くと、やはり疲れるものだ。


 しかし気楽な旅も長くは続かなかった。空が白い雲で覆われていき、それが強風を伴って降下してきたのだ。あっという間に平原が雲の中に入って、視界が利かなくなる。日中だった事もあって周囲が真っ白だ。

 陸上に降り立った雲は、実は東の山脈で発生した霧だったのだが、キビアルには知る由もない。


 真っ白な霧の中で立ち往生していると、強風と共に雨混じりの雪が吹きつけてきた。気温が急速に下がっていく。霧はさらに濃くなっていき、今や視界は1メートルほどしか利かない。

(参ったな……方角が分からなくなったぞ)

 やむを得ず、川に沿って南下していく。この川は海に流れ込んでいるので、確実に南へ行けるのだが……

(ヒグマに遭遇しませんようにっ)


 川沿いにはクレバスも開いているため、併せて警戒していく。川沿いは永久凍土層が広がっているのだが、夏の間に溶けたりするとクレバスになる。


 石斧を手にしてヒグマを警戒しながら、足元を確かめつつ歩いていく。そのため、歩行速度が落ちてすっかり霧に巻かれてしまった。視界がさらに悪化していく。

(何てこったい。でもまあ、山腹沿いじゃなくて平野部だから、まだマシかな)


 そんなグチを漏らしながら川沿いに南下していったのだが、ふと気が付くと足元の草が凍りついている事に気が付いた。シャリシャリと氷が砕ける音がする。

 同時にキビアルの衣服も凍り始めてきた。息が真っ白になり、空中で凍ってサラサラと落ちていく。顔面が蒼白になる。

(や……やばい。何か分からないけど危険だっ)


 真っ白い霧の向こう、北の上空から風切り音がしてきた。強風がさらに強くなっていき、体感温度が転がり落ちるように下がっていく。体温が吹き飛ばされるような感覚に慌てるキビアル。

(ヤバイ、ヤバイヤバイッ)

 足元を探って潜り込めそうなクレバスを探す。さすがに人間がすっぽり入るような大きさの裂け目は、なかなか見つからない。足首が入るサイズばかりだ。

 キビアルの若ハゲ頭が、フードの中でピリピリし始めた。冷気がフード越しに当たってきている。まつ毛も凍り始めた。


 しばらく探して、ようやく一つの裂け目を見つけた。手早く内部を確認して、毒ガスがなく、熊なども潜んでいないと判断して飛び込む。その間にも周囲の草が次々に凍結していく。

 クレバスは浅くて、キビアルが膝を曲げてやっと潜む事ができた。どうやら、つい最近できたばかりのようだ。


 背負い袋を脇に置いて、ほっと一息つく。クレバスの口付近の草と苔も急速に凍結していき、温度差でクレバス内の空気が上昇気流を起こした。白い蒸気に途中で変わって、外に流れ出していく。

(冗談じゃないくらいの寒波だな……まだ冬じゃないんですけど)


 クレバスの外は真っ白な霧しか見えないのだが、風切り音が急速に大きくなってきて暴風になった。ゴウゴウという轟音がクレバス内の空気を震わせる。岩か石も飛び交っているようで、ゴン、ドンという鈍い音もしている。

 ひええ……と顔面蒼白で背中を丸めているキビアル。その彼の脳裏にキルデの言葉が浮かんだ。

(あー……もしかして、これが「氷の暴風」ってヤツかな)


 とにかくも、今クレバスの外に出ると間違いなく凍死する。小さくため息をつく。クレバスの中では普通に白い息になるだけだった。フード越しに若ハゲ頭が冷えてきたので、クレバスの周辺にある枯草をつかみ取ってフードの上に乗せた。


 足元をよく見ると、氷が張っている。地下水か雨水が溜まって凍結したのだろう。足を乗せて体重をかけてみるが、氷が厚いおかげで割れない。

(仕方がないな。嵐が収まるまで、ここで待機だ)

 干し肉や、獣脂は充分にあるので食糧とロウソク暖房は問題ない。飲料水は紐つきの皮袋をクレバスの外に出して、吹き荒れている暴風に含まれている雪を採集する事にした。近くに川があるのだが、今は凍結していて水汲みはできない。



 数日後、氷の暴風が収まった。

 風切り音は前日の夜からなくなっていて、静かな夜だったのでこうなると期待していたようだ。クレバスの中からピョコリと頭を出して周囲をうかがう。ちょうどハタネズミが巣穴から頭を出して、周囲を警戒する姿にそっくりである。

 まだ日の出前の薄明るい中なのだが、真っ白い霧も消えていて視界が利く。そんなキビアルの目が点になった。

「おお……氷漬けになってる」


 クレバスの外へ出てみると一面の銀世界が広がっていた。ほぼ無風である。しかし前日までは強風だったせいなのか、雪はほとんど積もっていない。気温はかなり低く、吐く息が白くなった後で空中で凍結して、サラサラと小さな音を立てて地面に落ちていく。

 草原は緑色のままで凍結していた。地面も凍結していて、霜柱がそこらじゅうに発生している。霜柱の氷の先でアザラシの皮製のブーツ底が切れる恐れがあるため、周囲に生えている潅木の樹皮を使って靴底を補強しておく。簡易な草履だ。


 その作業をしていると日の出になったようだ。空が急速に青く変わっていく。残念ながらキビアルが居る場所から東には万年雪を抱いた山脈があるので、日の出は見えない。

 キビアルが周囲の警戒を終えてから背負い袋を担いだ。衣服が凍結して固くなっているのに気が付いて、ラジオ体操みたいな運動をしている。

(さて。南へ行くか)


 数歩ほど歩き出して、不意に足を止める。フード越しに頭をかいた。

(そうだった……石を拾って記憶しておこう)


 北の大地を旅するので、再び氷の暴風に遭遇する恐れがある。その際には最寄りのクレバスがどこにあるのか……という位置情報が必要だ。

 道中のクレバスの位置を記憶する事にして、それ用の専用石を選ぶ事にするキビアルであった。クレバスは川沿いに多いので、石は川原石にしている。持ち運びを考えて、小指の爪ほどの小さな小石だが。

 その白くて丸い小石を専用の小さな皮袋の中へ入れる。クレバスの周囲の地形を同時に記憶していく。

(よし。これで記憶の紐づけができた。氷の暴風が起きなければ、それに越した事はないけどね)


 しばらく歩いていると、平原にも日が差してきた。凍結している緑色の草の葉が光を反射してまぶしい。フードを目深に被る。それでも少しマシになった程度だが。

(すごくキラキラしてキレイな風景なんだけどねえ……こんなに寒いと人は住めないなあ)


 しかし、このキラキラも太陽が南の空に差し掛かる頃には全て溶けていた。この辺りの草も解凍されたのだが、普通に生きている。

 動物の姿はまだ見かけない。ハタネズミの大移動の後なので、まだ草原に戻ってきていないのだろう。代わりに南からのワタリガラスや鴨の群れが上空に見えている。


 地面の霜柱も融け始めていて、歩く際に生じるザクザク音が小さくなってきた。少しずつ歩きやすくなってくる。しかし、それは同時に地面に空いているクレバスの縁が崩れやすくなるという事でもある。注意を払いながら南へ歩いていくキビアルだ。

 息はまだ白いままだが、空中で凍って地面に落ちる事はなくなった。今は普通に空中で消えていく。

(氷の暴風の話を聞いていて良かった。しかし、これが冬に起きていたら死んでいたかも知れないなあ)



 今は平原を歩いているため、行きにかかった日数の半分ほどで海岸に戻ってきた。既に流氷は消えていて、青黒い海原が小さく白波を立てている。氷の暴風はここまで吹かなかったようだ。運が悪いキビアルである。

 既に多くの渡り鳥が南から到着していて、カモメやウミガラスの白と黒の大群が上空を乱舞していた。かなり騒々しい。海岸にはトドやアザラシ、オットセイの群れがいて波に洗われている。こちらも結構うるさい。


 久しぶりに風鳴り以外の生き物の声を聞いて、少し嬉しくなるキビアルだったが……すぐに騒々しさに閉口してしまっている。

(う……うるさいなあ。溢れ水の泊に居た頃は気にしていなかったんだけど、こんなに賑やかだったのね)


 海岸を南西に見ながら、南東へ進路を変える。ここから先は、再び未知の土地だ。南東に向かって伸びている山脈は、延々と壁のようになってそびえ立っている。狭い平原を東の山脈と西の海とで挟んでいる地形である。

(むむむ……危うい回廊だなあ。山からの洪水とか、高潮の脅威があるぞ。なるほど、キルデさんが避けた理由がよく分かるよ)

 洪水に巻き込まれたら、一気に海にまで流されてしまいそうだ。そうなってしまうと、低体温症になって魚の餌になるしかない。


 キビアルも山からの洪水を警戒して、平原を歩く事は止めた。面倒でも山の斜面伝いに南下していく。

(はあ……斜面ばかり歩いている気がする)


 この平原だが、山が海に迫っている場所では当然ながら途絶える。岬になっている場所では特にそうだ。そして、そんな場所は崖になっていて岩だらけで歩きにくい。さらにこういった海が間近に迫っている岬には、アザラシ、トドなどの海獣が多いものだ。


 マンモスや馬、野牛の群が来ると、さすがに海獣たちは海へ避難していくのだが……キビアルを見ただけでは頑として動こうとしない。

 トナカイの群れが万年雪を抱く高山に向かって南下していくのを見送り、フード越しに頭をかく。

(参ったなあ。俺の服装だと山越えは無理なんだよ。仕方がない、刺激して怒らせないように慎重に進もう)


 しかし、結局ボス格のトドに追いかけられてしまったキビアルであった。ボスともなると大きさはピックアップトラックくらいにもなる。しかも巨大な白い牙を二本むき出して襲い掛かってくるので、もう逃げまくるしかない。

 トリカブト毒付きの打根を投げようかとも考えたが……止めた。ヒグマですら即死していない毒だ。さらに巨大なトドに対してはもっと時間がかかる。

(逃げだ、逃げ、逃げっ)

 幸い岬の下だったので、大きな岩だらけの地形だった。逃げるには好都合だ。トドの足は短い。


 そんなこんなで苦労しながら海岸沿いを南下していったのだが、ちゃっかりとアザラシ狩りは成功している。こちらは輪罠を仕掛けておいて、餌の魚でおびき寄せるという方法だ。

 アザラシの皮は浮袋に使えるため、胴体部分への攻撃はしない。輪罠で逃げられなくしておいて、石斧で頭を殴って殺すという手順になる。


 手早く解体して、裏返しにした筒状の皮を小便を使って洗う。そうしてから背負い袋の上に被せて干す。

 肉や内臓は部位ごとに切り分けて海水で洗ってから個別の皮袋に入れて、さらに海水を注ぎ入れる。簡易な肉の漬物だ。血は別の皮袋に注いで保管している。


 荷物が増えて重くなったが上機嫌のキビアルである。特に獣脂が増えたのが嬉しい様子だ。

(ロウソクの心配がなくなったな。これで暖をとりやすくなる)

 クレバスの中では一日中灯していたので、かなり消費していたのであった。



 さらに南下していくと、幅数百メートルほどの草の回廊が見えてきた。やはりここも東は崖で西は海だ。困った事に、この狭い草原にはマンモスや馬、野牛の群れが草を食んで休憩していた。海獣は海へ避難しているようだ。

 回廊の入り口で腕組みをして呻く。

「むむむ……これは困ったぞ」


 野牛は意外と凶暴なので、うかつには近づけない。マンモスとなると、それ以上に危険だ。

 実際ヒグマが一頭ウロウロしていたのだが、マンモスの逆鱗に触れて踏み潰されてしまった。今ではただのミンチと毛皮だ。

 それを見て、肩を落とすキビアルである。崖に手をかけて、視線を崖の上に向けた。崖の高さは20メートルほどで、それほど切り立ってはいない。海鳥の巣もなかった。この傾斜ではキツネやイタチが登ってくるのだろう。

(仕方がないな……崖を登るか)


 できるだけ登りやすそうなルートを探してから、崖にしがみついたのだが……荷物を背負ってのロッククライミングは大変だ。何度も引き返して、より登りやすいルートを探していく。

 眼下の草原ではマンモスや野牛、馬の群れがのんびりと草を食んでいるので、ちょっと癪に障っている表情になっている。

(まったくもう……もっと広い場所で食事しろよな)


 崖を登るにつれて視界が利くようになってきて、実はこの草原が最も広い事に気がついた。ちょうど岬の窪みだったようだ。ジト目ながらも納得しているキビアル。

(むむむ……なるほど)


 その時、地鳴りがしたかと思うと崖が揺れた。激しい横揺れが襲い掛かり、悲鳴を上げて崖にしがみつく。周囲や崖の上から、いくつもの大岩が転げ落ちてきた。それらを必死でかわしていく。

(な、なんだ、なんだ? 地震か?)


 足元の岩もはがれ落ちてしまったので、慌てて崖をカサカサとよじ登っていくキビアル。ほとんどフナムシみたいな動きである。

(ヤバイ、ヤバイ。ここに残ると落ちる)


 ゴウゴウと地鳴りが続く中、何とか崖の上によじ登った。海岸沿いなので、崖の上の草原には雪はそれほど積もっていない。見上げたキビアルの目に、万年雪を抱いた真っ白い山々が映る。

 その沢が崩落して雪崩が発生していく。幸い、ここは岬になるため雪崩の直撃は受けないようだ。ほっとする。

(かなり大きな地震だな。故郷でもこんな揺れなんか経験した事ないぞ)


 雪崩はいくつも発生していたが、どれもキビアルが立つ崖の上には及ばなかった。それでも轟音と爆風に似た雪混じりの突風を感じているが。

(トナカイの後を追いかけなくて正解だった。本当に危険なんだな、この道)


 地震の揺れはじきに収まり、いつもの海風の音と、鳥獣の喧噪に戻った。崖の上から海岸を見下ろして、幅数百メートルの草原を見つめる。落石に巻き込まれて潰された野牛が数頭ほど見える。

 それ以外は特に被害を受けていないようだった。

(まあ、崖から離れていれば無事だよね……)


 目を転じて南を見ると、雪崩が海岸まで達していた。草原が大量の雪で埋まっている。呻くキビアル。

(むむむ……道が雪で塞がってるぞ。雪が締め固まるまでは通行不可か)

 今の雪の状態は大量の空気を中に含んでいるため、雪版の底なし沼になっている。空気がある程度抜けないと、歩いて渡る事は難しい。カンジキの材料は残念ながらこの崖には生えていなかった。


 どこかキャンプ場所を探さないといけないなあ……と周辺をキョロキョロしていたキビアルが、南の沖合を見て硬直した。白い波が一直線になって、こちらへ迫ってきている。

「げ。津波かっ」

 キルデの情報では、津波の高さは十数メートル以下という事だった。ここの崖の高さはそれ以上ある。

(それでも、念のために登った方が良いよね!)


 慌てて山の斜面に取りついて登っていく。やはりここも大して雪が積もっていない。そのためサクサクと登る事ができたのだったが、実際は10歩も登れなかった。その前に津波が到着したためである。のろまなキビアルではこの程度が精一杯だ。


<ドドオオン!>と爆音にも似た津波の激突音が轟き、地面が揺れた。

「うひゃっ」

 背中に音圧を感じて、斜面にしがみつく。


 数秒ほど後から、波しぶきが飛んできた。大した量ではなかったのだが、それでも頭から塩水を被っている。

「うへえ……すぐに乾かさないと凍死してしまう」

 最寄りの岩陰に飛び込んで、衣服を脱いだ。それを力いっぱい振り回して脱水する。ブーツの中にも少し浸水していたので、脱いでこれも振り回し脱水した。

 傍から見ると、ほぼ全裸のハゲが何か振り回しているという酔狂な光景である。


 この毛皮は水を弾くように獣脂を塗ってあるため、布製の服と比べると速乾性に優れている。それでも振り回した程度では生乾きにしかならないのだが……背に腹は代えられない。すぐに着込んで一息つく。

「はひ~……寒い寒い」


 崖の下ではゴウゴウと渦の音が鳴り響いていたのだが、その音が次第に小さくなってきた。周囲を確認して、落石や崖縁の崩落に注意しながら海岸を見下ろしてみた。キビアルの表情が曇っていく。

(何もいない……か)

 先ほどまで草を食んでいたマンモスや野牛、馬の群れは一頭残らず消えていた。草原も波に洗われたせいで、かなりちぎれている。


 しかし海上を見ると、マンモスや馬が泳いでいる姿があった。数は1割を切っているが、全滅ではなさそうだ。感心するキビアルである。

(大したものだなあ。人だったら溺れて沈んでいるよ)

 さらに、オットセイやアザラシも波間に浮かんでいる。こちらは慣れた様子で能天気な鳴き声を出して、マンモスへちょっかいを出していた。海では立場が逆転しているようだ。


 キビアルが南へ視線を向け、安堵と困惑の入り混じった表情を浮かべた。津波のせいで、雪崩が消滅していた。今なら、海岸沿いに南下できる。

(何というか……津波に感謝しないといけないのか? これって)


 とりあえずは様子見をする事にしたキビアルであった。津波が再び来るかも知れない。それと雪崩も。


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