名もなき泊
半島側の山腹に出て、そのまま南下していく。今はもうハタネズミがいないので、気楽な旅だ。それでも用心のために、大岩の上にキャンプする事は続けている。
歩き進めるほどに、再び空気が湿り気を帯びてきた。草原の葉を薄く覆っている砂塵の量も少なくなってきた。
そして赤い潅木が生えるようになり、シラカバやハコヤナギの小さな群落が草原に交じってきて、ようやく安堵の表情を浮かべるキビアルである。
(はあ……森が見えてくると、ほっとするなあ。黒森の民の習性かな、これは)
シラカバの林に入っても、視界は良好なままだった。斜面の下には大草原が広がり始め、清流の流れがいくつか日の光を反射してキラキラ輝いている。空も再び青くなってきたが、太陽の色合いはまだ黄色っぽいままだ。上空にはまだ砂塵が滞留しているのだろう。
その平野部の一角に泊があった。川のほとりに建っている。それを山の斜面から発見したキビアルが、好奇心の光を瞳に宿した。
(お。泊がある。室と苫が一つずつか。キルデさんが言っていたヤツかな)
山から下りて、泊に立ち寄ってみる事にした。
(チャクダ族長の知り合いが居るかも。確かアウルさんって方か。保存食とかあるかな?)
シラカバ林とハコヤナギの潅木群を越えて、平野部に下りたのだが……最初にキビアルの目に映ったのは、草原の中で白骨化した二頭のヒグマだった。立ち寄って検分する。
骨は噛み砕かれておらず、傷もそれほど見られない。キビアルの表情が険しくなった。
(ハタネズミに食われたのか……普段は、ヒグマがハタネズミを狩るんだけどねえ。今回は逆になったんだな)
ヒグマは意外とハタネズミやホッキョクジリスが好物だったりする。
ヒグマの毛皮も残っていたので、手に取ってみる。ハタネズミに齧られて穴だらけだ。
(むむむ……こんなに穴だらけじゃ使えないか。残念)
毛皮それ自体は意外に損傷が少ない。ハタネズミは毛皮を食べずに、そのままヒグマの体内へ突入していったのだろう。まあ確かに、毛や皮よりも筋肉や内臓の方が美味しいものだ。
次に泊に到着して、まずは聞き耳を立ててみる。苫や室には大きな破壊穴は見られないが……ハエの羽ばたき音しか聞こえてこない。猛烈な悪臭も漏れ出ている。糞尿の臭いではなくて死体が腐敗した際の臭いだ。
(ヒグマやクズリの類は居ない……ようだね。それじゃあ、中に入ってみるか)
まずは苫の中へ入ってみたキビアルである。ここは無人で悪臭もない。苫の中にある皮袋を開けて中を改めていくが……すぐにガックリと肩を落とした。
(保存食が全部食べられて無くなっている。おのれハタネズミ)
収穫がないまま苫の外へ出て、嫌々ながらも室に向かう。室は高原の民がつくったもので、分厚い土饅頭型になっている。土と石でできた外壁を見ながら、ぐるりと室を一周する。ヒグマが殴った跡がいくつかあったが、外壁そのものは全く壊れていない。
その頑丈さに感心しながらも、外壁の下縁に沿って開けられている換気用の小さな穴にジト目を向ける。穴からは大量のハエが出入りしていて、猛烈な腐臭も染み出ていた。
(チャクダ族長には世話になったしなあ……仕方がない。中へ入るか)
意を決したキビアルが石斧を取り出して、室の出入り口に立った。木と泥でつくった扉があり、きっちりと扉が閉じている。
しかし、よく見ると、扉には隙間があちらこちらにできていた。人やヒグマは通れないが、ハタネズミであれば余裕で侵入できるサイズである。その隙間からも大量のハエと悪臭が噴き出していた。
軽く両目を閉じるキビアル。
(室の補修を怠ったか……溢れ水の泊だったら、このくらいの隙間は換気の役に立つから放置したんだろうな)
扉はかなり分厚かったが、扉の外枠を石斧で削ってやると<バタン>と扉が奥に向かって倒れた。同時に無数のハエと死臭が中から噴き出してきた。思わず数歩後退する。
(うわ……これは酷いな)
室の中で息をするとハエを吸い込んでしまいそうになるので、外で深呼吸してから突入する。
何度か室の外に出て息を整えつつ、内部の探索をしていくキビアル。彼のアザラシの皮製のブーツには、べっとりと腐った血が付いている。頭のフードにもハエのウジが乗っている。
(目がしみるなあ、もう……)
それでも狩猟民族なので、こういった悪臭やハエウジには慣れているらしい。吐いたり目を回す様子は見られない。
苦労しながらも、何とか探索を終了したようだ。室の中から血まみれの髪の毛の束をいくつか持ち出してくる。それを近くの川で洗って汚れとウジを落とす。ついでにブーツと袖の汚れも洗っている。
(むむむ……臭いが残るなあ。まあ仕方がないか)
室の中には白骨死体がいくつかあった。毛皮の衣服がチャクダ族長たちのものだったので、溺れ谷の泊の者だろう。
肉や内臓はハタネズミによってキレイに食べられていたのだが、血のような液体までは飲んでくれなかった。そのため、室の中は血の海になっていて、それが腐敗して悪臭を放っていたのであった。
ハタネズミは毛皮の衣服と髪の毛だけは食べていなかった。その髪の毛をキビアルが集めている。他に、いくつかの骨製のお守りも回収している。
回収した髪の毛を分類すると、4人分になった。白骨死体の数と同じなので一応安堵する。
(これで、全員分の形見だな)
白骨死体はどれも30代のものだった。その中で最も背の高いのは身長170センチほどか。生前は壮健だったようで骨折の跡は見られない。骨も太くて丈夫なので、健康状態も良好だったのだろう。
キビアルが南の空を見つめる。湿った空気のせいで山がぼやけて見え、上空には雲がいくつも浮かんでいた。北の空とはまるで異なる。
(このままチャクダ族長の泊へ向かいたいけど、洪水の泥沼だろうな。機会を改めるか)
髪の毛の束と骨製のお守りを背負い袋の底の方へ押し込む。薄片と触れないようにしている。
(あ。そうだ。ここの太陽の高さを覚えておかないと)
「夏だけの草原」よりは高くて白っぽいのだが、それでも故郷の溢れ水の泊で見る太陽とは別物だ。高度も低い。
(この太陽の高さと色合いが、俺の北上限界……か。よし、覚えた)