再び北へ
翌日、南下していくキルデたちと別れたキビアルは、針葉樹森の斜面を北へ向かった。キルデたちが言った通り、洪水の痕跡はほとんど見られない。熱波はここまで来なかったのだろう。
小さな沢を越えて、水を補給したキビアルが東の空を見上げた。沢には洪水の痕跡はない。
(そろそろ海岸沿いの低地に下りても大丈夫かな)
オホーツク沿岸に南北に広がる低地に下りてみたが、予想通り地面は泥沼ではなかった。ほっとしつつも、目を輝かせるキビアル。氷の暴風に追われて高原から降りてきた獣の群れが、あちらこちらに見える。マンモスの群れもいて、早速ヒグマを蹴散らして追いかけ回し、踏み潰して憂さ晴らしをしている。
そのミンチ状にされたヒグマだったモノを遠くから眺め、マンモスの群れから遠ざかるキビアルだ。
(うは……やっぱりマンモスは強いなあ。あんなのを狩って暮らしてるのか高原の民ってば)
キルデから聞いていたハタネズミの動向についても調べてみるが……特にこれといった異常行動は見られなかった。巣穴から数匹のハタネズミを輪罠で引きずり出して、その反応を見たキビアルが小首をかしげる。
(ふむ……いつものハタネズミだけどなあ。せっかくだから、解体しておくか)
マンモスの群れが去っていくと、入れ替わりにキツネが熊ミンチを漁りにやって来ていた。しかし、それもオオカミの群れに追い払われてしまっている。上空には何種類もの鳥が群れをつくって旋回していて、おこぼれを狙っている。
腰までの草の海をヤブ漕ぎしながら、北へ歩いていくキビアルが小さくため息をついた。キク科やマメ科といった葉が丸い種類の草ばかりで、イネ科の草は見当たらない。しかし草の茎が木質化している上にトゲが生えている種類が多いので、衣服が傷だらけになる。
(低地は歩きやすいけど、獣も多いんだよね。襲われないように気をつけようっと)
数日ほど草の海を北上していくと、ちょっとした丘を見つけた。
(……泊があるかな?)
キルデが言うには、この辺りの泊は全て無人だという事だったが……好奇心には勝てない。
そのキビアルの足が止まった。表情も険しくなっている。
(ヒグマの足跡がある。それも数頭分か……)
早速、背負い袋の中から打根と投擲器を取り出して、打根の石刃の窪みにトリカブト団子を擦りつける。さらに石斧も背負い袋からすぐに抜けるようにした。
(足跡は新しくないから、泊の中には居ない。でもまあ警戒はしておかないとね)
キビアルの推測通り、泊にヒグマの姿はなかった。
しかし、3つある室は全て外壁を破壊されていて、室の内部が見えている。ヒグマによって壁を殴り壊されたのだろう。破壊を免れた土壁にもヒグマの爪痕が多数刻まれている。
(やれやれ……派手に壊してくれたなあ。これじゃあ使えないじゃないか、まったくもう)
半壊しているドーム型の室の中に入ってみると、やはり保存食はなかった。それどころか、人骨がいくつも散乱している。
その頭蓋骨を拾い上げて検分する。気温が低いせいなのか、それほど悪臭は感じられない。
(むむむ……ヒグマに襲われて、ハタネズミに齧られたのか。この泊で氷の暴風をやり過ごそうと考えたんだろうなあ)
他の人骨も改めて観察する。どれも噛み砕かれていて、骨髄が食べられていた。
(これは……人肉の味を覚えたかな。丁寧に骨髄を食べている)
この泊に留まるとヒグマの襲撃を受ける恐れがあるので、急いで出立するキビアルであった。
海岸沿いに北上を続けていくと、他にも丘の上の泊の廃墟がいくつかあった。どれもヒグマに破壊されていて、同じように人骨が散乱していた。保存食も当然のように残っていない。
(食べ方が泊によって違うなあ。別のヒグマに襲われたという事か。ヤバイな。人食い熊だらけって事じゃないか)
そのヒグマもマンモスの戯れで踏み潰されて、ミンチ混じりの毛皮になっていたのを、草の海の一角で何度か見かけたのだったが。
(やっぱりマンモス強いなあ……)
さらに数日歩くと、低い丘の上に新たな泊を見つけた。キビアルの目がキラリと輝く。囲炉裏の煙が室の天井から細く出ていたのだ。
(お。やっと住人がいる泊を見つけたぞ。キルデさんが言っていた越冬限界地の辺りだな)
相変わらずの草の海なのだが、丘のふもとにはトリカブトとヨモギがまとまって生えていた。植えたのだろう。それらの草は全く摘み取られておらず、利用されていない事が明白だ。
(という事は、ここに住んでいるのは高原の民じゃないな。俺と同じ黒森の民かな?)
キビアルの予想通り、黒森の民だった。泊から人の話し声がかすかに届く。それを聞いて安堵するキビアルだが、同時に感心している。室から出てきた男たちに挨拶してから自己紹介を済ませた。
「溢れ水の泊から来たキビアルです。驚きました。こんな北にまで黒森の民が移住しているとは」
男たちのリーダー格の中年の男が友好的な態度で微笑んだ。実年齢は40代後半だろう。身長は160センチほどで小太り体型である。この時代では珍しい体型だ。
「おお。アンタも黒森の民かね。高原の民が、この泊を奪い返しに来るかと警戒していたんだよ。ワシはチャクダ。族長をやっておる」
この泊は「溺れ谷の泊」と命名しているらしい。もちろん高原の民から許可は得ていない。
居住用の室の他に、雪を貯蔵した雪室も併設されていた。ただ、この辺りまでは「氷の暴風」は及んでいないので、雪室の雪は少量だったが。
キビアルはここでは旅人なので慣習に則って、背負い袋の中の保存食を全てチャクダ族長に差し出した。嬉しそうな表情を浮かべる族長と泊の住人たちである。
住人はほぼ女子供と老人で、成人男性は少ない。チャクダ族長が早速干し肉をパクつきながら、解説してくれた。
「この草原は豊かでね。罠猟だけで充分に腹を満たす事ができるんだよ。しかし、若い連中はそれだと不満みたいでね。若い衆のリーダーをやってるアウルが彼らを引き連れて、狩りをしに北へ遠征しているんだ」
キビアルが静かにうなずく。今はフードを頭から外しているのだが、早くも泊の娘たちが遠ざかっていくのを実感している。
「俺も似たようなものですよ。親から嫁を探して来いって言われて、泊から追い出されましたし」
チャクダがキビアルの若ハゲ頭を眺めながら、腕組みして苦笑した。
「残念ながら、この泊の娘たちは全員結婚済みだ。10年くらい待てばチャンスが出てくるが」
キビアルが頭をペチペチ叩いて、軽く肩をすくめる。
「そんなに待てませんよ。ちょいと北の果てまで行く用事があるんです。明日にでも北へ出立しようと思います。ああ、そうだ。途中で高原の民と会いました。特に気にしていない様子です。ですが、ここよりも北では越冬は厳しいと言っていましたよ」
チャクダが少し安堵の表情を浮かべながら、新たな干し肉を口に入れた。
「そうかい。気にしていないのなら、好都合だな。この泊での越冬はまだ未経験だから、充分な準備をする事にするさ」
その後、泊の男たちと力比べや、的に打根を投げて当てる遊びなどをして過ごしたのであった。その際に、北の大地の情報を集めてみたのだが……彼らも新参者なので詳しくは知らなかった。「夏だけの草原」や「黄昏の大地」という名称も聞いた事がないと言う。
(まあ、そんなものだよね。彼らの若い連中が北へ旅に出ているから、彼らに会って聞いてみるかな。アウルって人に聞いてみよう)
泊の近くにはヨモギとトリカブトの群落があったので、それぞれを摘んでハタネズミの獣脂を混ぜて団子にしていく。ヨモギ団子の場合は素手でも構わないのだが、トリカブト団子の場合は手の切り傷から毒が体内に侵入する恐れがある。そのため薄い皮越しで作業している。
作り方と効能をチャクダたちにも教えていると、物見が真っ青な顔をして泊に駆け込んできた。
「ヒグマが襲来してきたぞ!」
緊張するキビアルだったが、チャクダたちは意外と落ち着いている。
「そうか。では防護柵を展開するのだ!」
チャクダ族長の号令の下に、泊の住人たちが室や苫の中からマンモスの牙でできた防護柵を引っ張り出してきた。かなりの量だ。それらを迅速に室の周囲に配置していく。
マンモスの牙は、オス成獣で長さ3メートル以上、成獣メスでも1メートル以上ある。それらを上手に縦割りして、鋭利な象牙の槍を量産している。それらで室を囲んで槍衾状態にしていく。
マンモスの牙は弾性に富んでいて、しかも変形しにくい特徴がある。ただ、急激に乾くとひび割れるので、獣脂を表面に塗って乾燥を防いでいる。
この低地は溺死した獣が上流から流されてくる場所でもある。そのため、川の中州や河口にマンモスの骨が集積していたりする。ただその場合は、黒っぽい骨になるが。ここの槍衾も大半は黒っぽいものだ。
キビアルもこの槍衾の設置を手伝ったのだが、チャクダがドヤ顔で説明してくれた。
「実はこの象牙槍、元々この泊にあったんだよ。高原の民が考えついたんだろうな。おかげで、こうして余裕をもってヒグマに対処できる」
感心するキビアルである。他の泊では見なかったものだ。高原の民にも様々な派閥があるのだろうか。
「良いですね。ちょいと一手間かけて強化してみましょうか」
槍衾の設置が終わった区画に、作ったばかりのトリカブト団子を槍先に擦りつけていくキビアルだ。泊の住人も全員が石斧や打根を用意して武装しているので、その刃先にも擦りつけていく。
「猛毒ですので、絶対に素手で触らないでくださいね」
黒森の民は、どちらかというとマンモスよりもトナカイや馬を罠で狩る民族である。これらの獣はマンモスよりも俊敏なので、打根を投擲してもなかなか命中しない。そもそも射程距離に入る前に逃げられてしまう。アザラシ狩りでは撲殺がメインだ。
1万年ほど経って裁縫技術が向上し、弓が発明されると状況が一変するが。
間もなくすると、数頭のヒグマが鼻息荒くして襲来した。どちらもオスの成獣だ。体重はどれも300キロ級で、結構肥えている。
それらヒグマの目つきを見て、キビアルが即座に理解した。
(あー……こいつら人肉の味を知ってるな。殲滅するしかないか)
ヒグマ群は象牙槍のバリケードに足止めされて、室の回りを駆けまわっていく。しかし突入口が見つからず、イライラした様子で吼え始めた。
ヒグマの動きがゆっくりになったので、泊の住人たちが一斉に打根を投射し始めた。特にチャクダ族長の指示も必要ない様子で、かなり慣れた動きだ。投射もかなり正確で、ヒグマの頭に次々に突き刺さっていく。目を狙っているのだろう。
キビアルも打根を投射しながら、チャクダ族長たちに感心している。
(慣れているなあ……まあ、南にある泊が全滅してるからヒグマ対策くらいしてるよね)
しかし、さすが300キロ級のヒグマ群である。猛毒の打根を何本も頭に食らっているのだが、元気そのものだ。槍衾にも熊パンチを繰り出している。しかし、さすがに熊の毛皮よりも象牙の方が遥かに固いので、熊手がズタズタに切れてしまうだけだったが。
(だけど……体当たりされると、さすがに槍衾も壊れるだろうけどね)
そんな事を思っていると、ついに槍衾の一角が破壊されてしまった。象牙の槍が何本も殴り飛ばされて空中を舞うのを見て、ようやくチャクダが号令を下す。
「侵入させるな! 石斧の投擲始め!」
たちまちヒグマの頭に数本の石斧が叩き込まれて、鮮血が飛び散った。さすがに打根とは違い、質量が倍以上あるので破壊力が違う。
キビアルも手持ちの石斧を投げつけたのだが、すぐに背負い袋の底にしまい込んでいた薄片を取り出した。
(うわ……また真っ赤な粉が吹いてるよ。時間が無いから、このまま使うか)
それに皮紐を結びつけて、グルグル振り回し始めた。
皮紐の長さは3メートルほどか。少し経過すると鋭い風切り音が響き始め、その高速回転のせいで薄片を目視できなくなってきた。
泊に突入してきたヒグマは最初の一頭目は力尽きて死んだが、続いて侵入してきた二頭目は満身創痍ながらもバリケードを突破した。体中に打根と石斧が突き刺さっているので、壮絶な姿だ。
女子供と老人の間から悲鳴が上がる。
チャクダ族長が命令を下した。彼はもう手持ちの武器が尽きている。
「槍部隊、突撃せよ!」
「おうっ!」
雄叫びが上がって、象牙槍を脇に抱えた老人たちが数人、一斉にヒグマに突撃した。象牙槍が見事にヒグマの首元に揃って突き刺さり、ヒグマと人間との押し合いが始まった。
そこへキビアルが薄片を振り回しながら駆け込んだ。
「加勢します!」
鋭い風切り音がしたかと思うと、ヒグマの左顔面に<ガスン!>と鈍い音が響いた。ヒグマの左目がザックリ切り裂かれ、左耳も半分ほど切り飛ばされる。
脳漿を含んだ鮮血が噴き出した。ヒグマが尻もちをつき、すぐに逃げ出していく。同時に薄片が頭から抜け落ちて地面に落ちた。カラランという金属音がする。他にも打根や石斧が、ヒグマの体から抜け落ちて草原に落ちていった。
それが切っ掛けになったのか、他のヒグマも戦意を喪失して逃げ始めた。草深い草原なので、巨大なヒグマといってもすぐに目視できなくなる。
それでも草がガサガサと動いていくので、逃げていく方向は分かる。
(北かよ……おいおい)
思わずジト目になるキビアルであった。
薄片をチャクダ族長たちに見られてしまったので、仕方なくこれまでの経緯を話すキビアル。薄片はヒグマの血糊でベタベタしているが、赤い粉はほとんど取れていた。ヒグマの傷口に付いたのだろう。
洗うのが面倒なのか、適当に土や雑草を使って汚れをぬぐい取る。まさにゴミ扱いである。
「……という事がありまして。毒がある石かも知れないので、誰も住んでいない場所へ捨てに行く途中なんですよ」
毒と聞いて、チャクダ族長たちも薄片には触れないでいた。興味はある様子だが。
「そうかね。毒があるとすれば、狩りでは使えないだろうな。誤ってワシらが毒を含んだ肉を食べてしまって、毒にあたる恐れがある」
高原の民であればトリカブトを使っていても普通に肉を食べるのだが……黒森の民は基本的に罠猟なので毒を使わない。
とりあえず、再び物見がバリケードの外に出て、ヒグマが残っているかどうか哨戒する事になった。安全が確認できるまでは、この槍衾の撤去ができない。
チャクダ族長が象牙槍をコツコツ叩きながら、キビアルに説明してくれた。
「泊には子供が多いのでね。遊んでいる最中に槍先に触れてケガをする事があるんだよ。今は槍先に毒が塗られているから、なおさらだな。普段は撤去しておくんだ」
この溺れ谷の泊だが、大きなドーム型の室といくつかの苫がある。
泊は低い丘の上にあり、周囲に広がっている草の海を眺める事ができる。草の丈がかなりあるので、低地に泊を設けると視界が利かないためだ。大食いのマンモスの群れが棲んでいるので、草の量は相当に多い。
泊から少し歩くと川に出るのだが、この川は俗に言う「暴れ川」だ。春先の増水時期になると決まって洪水を起こす。チャクダ族長たちは移住してきて日が浅いので、洪水はそれほど経験していないらしい。
「だけど、この泊が洪水に囲まれて陸の孤島になった事は、もう何度もあるんだよ。なので「溺れ谷の泊」って呼ぶ事にしたんだ」
チャクダ族長の説明に素直にうなずくキビアルであった。
「なるほどー。草ばかりで森が少ないのは、そういう理由なんですね。ですが、俺たち黒森の民は洪水には慣れてますし。俺の故郷の泊でも洪水がよく起きますね」
キビアルの故郷でも同様なのだが、洪水で溺死した獣が結構な数で流されてくる。泊を設けるには適した場所だったりするのだ。
さて、この泊に建てられている室だが、これは元々、高原の民が設けたものだ。彼らも溺死した獣を拾って暮らしていたのだろう。氷の暴風が襲い来るまでは。
(マンモス猟って危険だしね。安全に食糧が手に入るなら、それに越した事はないよね)
キビアルが室の外壁に手を当ててコンコン叩いている。
室はここでも盛土した上に建てられていた。換気を考えているのだろう。土饅頭のようなドーム型で、川に面した方向に出入り口がある。
盛土の縁は板状の石やマンモスの大きな骨などを当てて補強している。板石や骨の間にも小石がギッシリと詰まっている。これが室の基礎になる。
基礎の上にはマンモスの牙を柱というか梁にして、丈夫な潅木の枝やトナカイの角などを密に絡みつかせていく。マンモスの牙の長さは成獣のオスで3メートルにも達するため使いやすいのだろう。これらを使ってドーム型の骨組みを組み立てる。ドームの高さは1メートル余りなので、中で背伸びする事は無理だが。
骨組みの上にはマンモスの毛皮を被せていく。その毛皮の上に分厚く土を乗せる。どちらも断熱目的のためだ。なので、見た目は本当に「土饅頭」である。土饅頭の上にはヒグマの頭蓋骨などを乗せて、厄除けにしたりする。
窓はないので、室の内部は真っ暗だ。ただ、換気用に土饅頭の下辺にいくつか穴を開けている。
ドーム型なので床面は楕円形だ。囲炉裏は中央に1つ設けている。獣脂ロウソクは3、4ヶ所あるので、それなりに内部は明るい。燃焼で生じる二酸化炭素ガスは空気よりも重いので、穴から自然排出される。しかしそれでも室の中の濃度は高めになって、酸素濃度が低めになるので、若干は息苦しいのだが。
その後は、骨格沿いにドームの内側から土を盛って台や物入れなどを作っていく。基本的には5人から10人がこういった室に住む。
苫の場合はさらに単純なつくりになる。周辺の潅木や、川に流れてきた流木を組み合わせて骨格にし、その上にマンモスの毛皮を被せるだけだ。黒森の民の場合は、マンモスではなくてトナカイや馬の毛皮になる。
西部劇などでよく見かける、とんがり帽子型のテントではない。どちらかと言うと、雨よけシートを被せた建築資材置き場に見た目が似ている。
チャクダ族長と雑談をしていると、物見が戻ってきた。
「族長。ヒグマどもは遠くへ逃げ去ってますぜ。もう安全です」
ほっとした空気が泊の住人から流れた。キビアルも安堵してから、太陽の高さを見る。ヒグマ騒動で今は午後になっていて、空の色が徐々に黄色くなり始めていた。
「良かったですね。では俺は明日の朝に出立する事にしますよ」
しかし、その日の夜に洪水が押し寄せてきた。
ドロドロドロ……ザザザザ……と地鳴りと流水の音が西の方角から聞こえてきたかと思うと、草の海が泥水に飲み込まれていく。
朝になって視界が利くようになると、泊がある低い丘の周囲は一面の泥水で覆われていた。ガックリするキビアルである。
「むむむ……これじゃあ、出立は無理か」
しかしチャクダ族長たちは意外に平静だ。干し肉を口に放り込んで、キビアルと一緒に泥水の流れを見下ろしている。
「溺れ谷の泊だからなあ。こういう洪水が時々起きるんだよ。でも水は浅いから、数日もすれば水が引いて出歩く事ができるようになる。それまでゆっくりしていけ」
確かに泥水の水深は1メートル弱だ。背の高い草も流されずに、水面に葉を出している。ただ、氷水に近い水温なので、低体温症で死んた獣が泥水に流されているのがチラホラ見えた。
早速チャクダ族長の指揮の下で、溺死した獣の回収作業が始まる。紐がついた打根を投擲器で投げて獲物に食い込ませ、引き寄せるという手順だ。
小型の獣が多く、イタチや野ウサギ、キツネが主に回収されている。泊の子供らが歓声を上げて紐を引いている姿を見て頬を緩めたキビアルだったが、ちょっとした違和感に気づいて水面を見る。
(ハタネズミの姿が多いな……豊かな草原だとしても、ちょっと多すぎかも)
泥水の流れに時々、ハタネズミの集団溺死体が流されていくのが見える。数は数十匹、時には百匹ほどもある。ハタネズミは土中に巣穴を掘って集団で生活するのだが、それにしても多い。
(俺の故郷の溢れ水の泊でも、多くて十数匹なんだけどな……そういえば、ここよりも南って泥沼ばかりか。南から逃げてきたのか……?)
少しの間、思案するキビアルであったが……嫌な予感に背筋が震えた。
(まさか、北の大地ってネズミだらけになってるとか……?)
洪水は西の山、高原から発生して、東の低地へ流れ込んでいる。水の流れに逆らえば高原へ脱出できるのだろうが……そんなネズミは少ないだろう。西と南から迫る洪水に追い立てられて、東と北へ逃げていくうちに大集団になっている可能性は……
(ある……だろうなあ。やだなあ、もう)
泊がある丘に漂着した溺死ハタネズミの群れを、子供らが喜々として回収している。それを不安そうな表情で見守るキビアルであった。