やけに構ってくる女の子の話
――あなたにあげます。
二つ結びの少女が、夕陽を背にして立っていた。
彼女の目は赤く、頬はぬれぼそっていた。泣いていたのだと、一目でわかった。
たぶん、夢だったと思う。
1 毎日の風景
「敦也、今日遊びに行く?」
名前を呼ばれて、ようやく授業が終わっていたことに気がつく。
顔を上げると一時。昼休みだ。
すぐ横では、男子四人が集まって各々の昼食を机に載せている。いわゆるいつメン。俺もこの中の一人だと思う。
「……今日はいいや。スーパーの特売日だし」
「おおっ、なんて家庭的な理由!」
「敦也はしっかりしてるもんな」
はやし立てる四人から目を逸らして、もう一度腕に顔を埋める。
今ならまだ、眠気のほうが空腹よりも強い。腹の奥で虫が鳴くのを無視して、意識を暗闇へと落とした。
わいわい騒ぐ〝友達”の声に耳を逸らして。
煩わしいと思っても、声には出さなかった。
学校から家までのバス停に、いつも男の子がいる。
小学生で、低学年くらいか。まだ新しいランドセルを抱えて、固くて青いベンチに一人座っている。
朝はいない。だが、放課後になるといつもいる。晴れの日も、雨の日も、雪の日も。さすがに台風の日は知らない。もしかしたら、いるのかもしれない。
少年はバスに乗らない。きゅっと唇を結んで遠くを見る。時刻表すら見やしない。
だから停留所に彼しかいないときは、バスも止まらない。
スーパーの特売日は、生きていく上で最も重要だ。毎週届くチラシを読み込んで、一週間先の献立まで決めて、狙ったものだけを買う。
肉なんかは父さんが帰ってくる日しか買わない。タンパク質は豆腐。豆を食べていれば死なないのは、今日までで証明されている。
卵と小麦粉は主戦力だ。かさ増しのためにこれ以上役立つものはない。
何度も縫い直したマイバッグを抱えて、スーパーを出る。
落ちていく夕陽を見ても、なにも感じなかった。
家賃四万のボロアパート二階に、新庄の表札がある。ガバガバの鍵を回して、軋むドアを開け、カビとほこりの匂いがまん延する部屋に入る。
どれだけ掃除しても、この部屋に積もった年期は落ちそうにない。
冷蔵庫に買った物を入れる。野菜は長持ちするような処理をしてから野菜室へ。肉も冷凍食品も買わないが、冷凍庫には作り置きが大量に保存されている。
一気に食べると減るので、少し解凍して口に入れる。美味しいと食べ過ぎる。味付けは濃くして、すぐ飽きるように。
物心ついてからの習慣だ。なにも感じない。
シャワーを浴びたら、学校の復習をする。
聞き損ねたところはほとんど自分で学ぶ。辛い空腹を無視するために、四時間目はほとんど寝ているからだ。
布団を敷いて、中に入る。枕元のスマホに、今日も連絡がないことを確認する。父さんは帰ってこない。こんなものはいらないと言ったのに、心配だから持っておけと言われた。
連絡がないのなら、意味はないと思う。
眠れなくとも目を閉じる。閉じ続ける。
朝が来るまで、そうしている。
2 早見秋穂
体育館の裏には誰もいない。誰の目にもつかない。
だから時々、昼休みにやってくる。それはなんとなく、周りの声が鬱陶しくて、耳を塞げなかったときや、寝ようとしても眠れないとき。
購買に行くと嘘を吐いて、やってくる。
ほんとうに空腹のときは、渋々菓子パンを買う。カロリーがあれば人は生きていける。
口に入れて、水道水で流し込む。ぼんやり雲を数えて、予鈴が鳴るまでそうしている。
なのに今日は、後から人がやってきた。
「あ、こーんなところにいた。君はかくれんぼが上手なんだね」
知らない女子だった。
ただにこやかに笑って、てくてく近づいてくる。
セミロングの髪が揺れて、甘い匂いがした。やけに落ち着く香りだと思った。なにかに似ている、とも。
「敦也くん、私のこと覚えてる?」
「……いや、誰ですか」
おまけに知り合いだという。俺の名前も知っている。
だけどどうしても、彼女の顔は浮かばない。幼馴染み? いた記憶がない。
「まあいいや。すっごく久しぶりだからね。私は早見秋穂」
手を伸ばして、握手を求めてくる。
不思議と嫌な感じはしなかった。手を伸ばすと、がしっと掴まれた。
「おっきな手だね。さすがは男の子」
確かめるように指を動かし、しまいには手を勝手に広げて手相占いを始めた。
「あー、これはひねくれ者だ。どう? 当たってるでしょ」
「…………」
なんだろう。知らない人なのにものすごくイライラする。
「生命線は長いんだね。安心安心。それから、おっ、ぺんだこ発見。にぎにぎ」
「いつまで触ってるんだよ」
「いいじゃんいいじゃん。減るもんじゃないし」
にぎにぎーと、右手だけでは飽き足らず左手もいじり始めた。
「……あの」
「お礼にお弁当あげるから。ね」
「え?」
「お腹、空いてるでしょ。そんなパンで膨れるわけないもん」
人から物をもらうのには抵抗があったが、目の前で早見は弁当箱を開けた。
醤油だれで焼いた豚の匂いが、食欲を激しく揺さぶる。
「ね? ね?」
「……まあ、ちょっとだけなら」
「やりぃ」
にしっと口元を歪めて、今度は親指の付け根をぷにぷにし始める。かと思えば手のマッサージを始めた。
「合谷って知ってる?」
「うぐっ」
「お客さん、凝ってますねえ」
「痛い、痛いんだけどちょっと、あの、痛いんだけど!」
「だめだよ。ちゃんと休まないとさ。君はどうせ頑張ってばっかりなんだから」
「いやだから痛いって!」
押す力はどんどん強くなり、その後五分ほどマッサージは続いた。
「どう? ねえ、味はどう?」
「だから美味いって……」
一口食べるたびに、早見は感想を求めてきた。俺の隣にぴったり座って、減っていく弁当箱を眺めながら。
正直かなり近い。涼しい季節だから、暑苦しいとは思わないけど。むしろぽかぽかして、カイロみたいな心地よさはあって。
でも、この距離はまずいだろ。
そう思ってスライドすると、やっぱり早見はついてきた。体育館の外側を、端から端に移動しきった。これ以上の逃げ場はない。詰んだ。
とほんと同時に食べ終わった。
「ごちそうさまでした」
「はい。ありがとね」
手を合わせると、すっと弁当箱を早見は取っていった。
「洗って返すよ」
「大丈夫 大丈夫ったら 大丈夫」
「なんで五七五」
「大丈夫なこと山のごとし」
「……そうですか」
「あ、今『面白くな』って思ったでしょ!」
「思った」
「ひどーい。昔は大爆笑だったのに」
「そんなギャグセンスのない時代があったのか俺……ショックだな」
「あの頃はなにを言っても笑い転げてたのになぁ」
どんな時代だよ……。
もしそうだとして、よくそんな前のことを覚えてるもんだ。俺が覚えている一番古い記憶は、五歳のときだから――それより昔か。
「幼馴染みだったのか? 俺たちは」
「んー。まあそんな感じでもいいんじゃないかな」
「なんだよその曖昧な言い方は」
「将来を誓い合う予定だった仲かもしれないよ」
「誓い合ってないんじゃん……」
結婚フラグの立った幼馴染みではないらしい。
じゃあますます誰だよと、聞こうとしたタイミングで予鈴が鳴った。
「明日もここにおいで。そしたら、美味しいランチが食べられるよ」
絶対に来るものかと言いたかった。
食欲には、あらがえそうもなかった。
バス停の男の子はやっぱり今日もそこにいて、また俺はその後ろを通り過ぎる。
誰もがそうするように。何度もそうしてきたように。
次の日、早見は弁当を二つ持ってきた。
「今日はなんとハンバーグですよ敦也くん」
「ハンバーグ……」
「食べたいよね。食べたいよね。じゃあまず――って手を差し出すの早いね! これが学習能力かな!?」
「手ぐらいなら」
「ううん。でも、今日は手じゃなくて頭にしよっかな」
「頭?」
「あと顔周辺」
「えぇ……」
「ハンバーグ」
「ハンバーグです」
逆らえなかった。
早見は俺の頭に手を載せると、髪をつんつんする。
「わぁ。ちょっと硬いね。ちゃんと手入れしてる?」
「必要ない。傷んだら切ればいいから」
わしゃわしゃと頭を撫でられる。
人から触れられるのは好きじゃない。なのに、彼女に触れられるのは嫌じゃなかった。毛繕いのような優しさと、安心があった。
「そしたら伸ばせないじゃん。伸ばしてみようよ。絶対似合うから」
「…………」
「グラタン」
「……考えとくよ」
その後は柔らかくもない頬を伸ばされたり、耳たぶをもちもちされ、最後に頭をぽんぽん叩かれる。
「うん。満足満足。はい、これはお礼」
「もしかしてだけど、俺ってペット扱いされてる?」
「違う違う」
「そのうちお手とかお座りとか言い出さない?」
「言わない言わない」
「そっか。ならいいや」
もらった弁当箱を開けると、大きなハンバーグが顔を出した。上にはケチャップがかかっていて、崩れたハートマーク。
「……なにこれ」
「愛情を込めたら美味しくなるんだって」
「あ、そ」
極力気にしないようにして、箸で分けて口に運ぶ。
「ねえねえ。敦也って好きな子とかいるの?」
むせた。
水で流し込んで、どうにか呼吸を整える。
「ごめんごめん。食べてる途中だもんね」
その間ずっと早見は背中をさすってくれた。温かい手だ。
「いないよ」
短く答え、視線を落とす。
「じゃあ、友達は?」
「…………わからない」
いると言ってもよかった。少なくとも、世間的にはそう呼べる人はいる。
だけど、彼女の前ではそんなふうに言わなくていいと思った。
「わからないって、どうして?」
ハンバーグを噛む。肉汁があふれる。幸せだと思う。
こういう幸福感は、〝友達”と関わっても得られない。
「なんとなく趣味が合ったり、席が近かったり、一緒に遊んだり、そういう相手とは話すし、仲良くしてる。……けど、それはずっとじゃないし、仲の良さには順位があって、そういうのを気にすると、どうしてもわからなくなる」
誰もが言うような友情とか、愛情とか。そういう目に見えない繋がりを、俺は感じたことがない。
気がついた時には一人だったし、一人を辛いとは思わないし、これからも一人なのだと思う。そうあることが、自然だと思う。
「そっか。大変なんだね」
「別に」
「じゃあ、私のぶんもあげるよ」
早見は自分のハンバーグを切って半分にして、こっちの弁当箱に載せてくる。
「え、いや、さすがにこれは」
「いいのいいの。男の子なんだから、たくさん食べないとね」
そう言って彼女は満足そうに笑った。
そんな顔をされたら、断ることはできなかった。
◆
夢を見る。
二つ結びの女の子が立っている夢だ。
その子がどんな顔をしているかは思い出せない。会った記憶も無いのに、思い出せないと感じるのはなぜだろう。
最初、その子は泣いていた。
だけど次第に涙は引いて、やがて彼女は歩き出した。
早見と出会ってから一週間くらいで、その子は夢に現れなくなった。
3 俺が生まれてきたから
父さんが帰ってくるときは、肉を買う。米を炊いてサラダを作って、味噌汁を準備して肉を焼く。食卓を〝普通の家庭”のようにして、向かい合って食べる。
父さんはなにも言わない。俺もなにも言わない。
食器は俺が洗う。父さんは疲れているから、風呂に入ってすぐ眠る。狭い家だから、寝る部屋は一つしかない。俺も隣で眠る。
そういう日はいつもより寝付きが悪くて、やっと眠るのは明け方になる。
目が覚めたとき、家にいるのは一人だ。父さんは仕事に行っている。
そしてまた、いつも通りが始まる。
母さんはいない。母さんがいたことはない。
俺を生んだせいで、母さんは死んだから。
――お前のせいで××は死んだんだ。
五歳のとき、一度だけワガママを言った。遊園地に行きたかった。父さんは疲れていた。疲れ切っていた。
仕事も家事も育児も全部やって、どうしようもなく追い詰められていたのだと思う。今ならわかる。
掠れて聞こえなかったのはたぶん、母さんの名前だ。
母さんの名前を知っている父さんのことを、少しだけ羨ましいと思う。
◆
毎日のように体育館裏に行く俺を、クラスの誰も構わなくなった。
元々そういう関係だったのだと思う。特になにも感じなかった。
昼の時間には別の楽しみができたから。
「じゃーん。今日はチャーハンです」
「すごい。器用。天才料理人」
「いやぁ、それほどのものでは……って、おだてて早く食べようとしてるな」
「もちろん」
「効くけど! 効果てきめんだけど!」
やっぱりうれしー! と早見はきゃっきゃ笑う。いつ見ても元気だ。常にこのテンションなのだろうか。だとしたらちょっとやだな……。
「まったくもう、敦也ってば女の子を誑かすのが上手いんだから」
「誑かしてはないと思う。そこは抗議する」
くだらない冗談を言い合って、笑う。
この時間だけは、自分が誰かと繋がっているような気がした。
一緒に帰ろうと言われたのは、その日だった。
適当に断ろうとしたが、「じゃあ、近くの橋でね」と押し切られてしまった。なんで校門前じゃないんだよ。
彼女の指定した橋は、下校ルートの避けては通れない場所にある。
先に来ていた早見は、こっちを見ると手を振って近づいてきた。
「遅いぞー」
「早いんだよ」
「早見だけに?」
「3点」
「きびしいっ!」
0点にしなかっただけ慈悲があると思ってほしい。
早見は不満げに唇を尖らせるが、すぐに破顔する。
「まあいいや。敦也は笑ってるし」
「笑ってる?」
顔に手を当てる。自分じゃよくわからない。
並んで歩いていると、木から赤や黄色の葉が落ちてくる。
「綺麗だね。紅葉」
「うん。そうだな」
早見は宙に手を伸ばして、銀杏の葉をつかみ取る。それを自慢げに見せてきて、
「あげる」
「いらない」
「じゃああげない」
なんなんだ。
よくわからないやり取りだった。遊ぶ早見の相手をしながら、いつものバス停近くへやってくる。
男の子は、今日もそこに座っていた。
ぎゅっとランドセルを抱いて、赤いジャンパーを羽織って。じっと遠くを見つめている。いつか来るはずのバスを待つように。
「あの子。どうしていつもあそこにいると思う?」
囁くように、早見が言った。
「さあ。でも、いつもいるよね。バスにも乗らないのに」
「うん」
早見は目を細めて、小さく唇を噛んでいた。
「君は知ってるの?」
「どうしてそう思うの?」
「それは、……悲しそうな顔をするから」
「知らないよ。でも、悲しそうな人を見ると悲しくなるでしょ」
そういう感覚は俺にはなかった。
あの少年は俺にとって、電話ボックスのようなものだ。急にいなくなったら驚くけど、いずれそのことは忘れる。
そういうものなんだね、と他人事のように言った。早見は頷いた。
それから、俺の左手を握ってきた。握手ではなかった。指を絡めて、縋るように手を繋いでくる。
鼓動は早くならない。それでも、この手を振りほどこうとは思わない。
「一つ、ワガママを聞いてくれない?」
別れ際に早見は切り出した。
「なに?」
「今度、一緒に遊園地に行ってほしいの。チケットは二枚あるけど、一緒に行く人がいなくて」
「…………」
「お願い。一生に一度」
「それ、何度でも繰り返されるやつじゃん」
「繰り返さないっ!」
ため息が出てしまった。呆れとか、そういうのではない。
「いつ?」
「次の日曜日!」
「その日って、雨じゃなかったっけ」
「ギリギリ降らないはず。天気予報によれば」
「わかったよ。じゃあ、日曜日」
遊園地という響きを恐れていた時期がある。
小学校の遠足で行ったとき、体調が悪くなってバスで寝ていたくらいに。
だけどそれも、時間が経つにつれてどうでもよくなった。時間だけが、いつも癒やしをくれる。
痛くなければ怪我ではない。
悲しくなければ、辛くなければ、孤独でなければ、俺は不幸ではない。
だからそれでいい。
そのくらいが、ちょうどいい。
◆
夢はいつか醒める。
幸福はいつか終わる。
だからその瞬間は、当たり前のように唐突に訪れた。
「敦也ってもしかして、独り言すごいタイプ?」
「は?」
「いや、は? じゃなくて。昨日の帰りだよ」
最近はすっかり関わりの減った〝友達”が、周りに配慮して告げてくる。
「お前、ずうっと一人で喋ってたじゃん。なに? 落語の練習?」
「昨日は早見と……」
二人で帰っていた。
「誰? ちょっと見てたけど、敦也は一人だったじゃん」
冗談よせよと肩を叩かれる。
意味がわからなかった。
だけど頭の奥で、声が響く。こんなときに、父さんの声が。
――お前のせいで――――…………
その名前を、俺は確かに聞いていた。
4 あなたが生まれたから
十歳になる頃には、いろいろなことがわかるようになっていた。特に人の悪意や、怒りに敏感で、暗い意味を持つ言葉は今と同じくらい知っていた。
母さんは高校生のうちに俺を身ごもった。元々身体の強い人ではなく、まだ若いこともあり周囲からは堕ろせと言われたそうだ。
だが、それを振り切って母さんは俺を産んだ。父さんと結婚して、高校を辞めて、今の狭いアパートで少しの間暮らして。
俺を産んで、まもなく死んだ。
父さんに恨まれるのは当然だと思う。俺が悪くなくとも、他に感情のぶつけ先はないだろう。だから、仕方がない。
父さんはいつも忙しい。忙しいのはきっと、お金がないからだ。
だから俺は、限界まで節約する。できるだけ安い進学先に行って、大学は奨学金で通う。
足を引っ張りたくない。
口にするものや、手にしたもの。すべてが父さんの苦労の上にあると思うと、それだけで息苦しい。
生きていることは罪だと思う。
償い方を知りたかった。あるはずもないのに。
◆
もこもこのコートとベレー帽を被って、早見はやってきた。初めて見る私服はオシャレで、黒のジャンパーとデニムでは隣に並ぶのが恥ずかしい。
とはいえここは地元にある小さな遊園地。日曜日にいるのは家族連ればかりで、高校生はほとんどいない。緊張感は、ゲートをくぐる前に和らいだ。
「遊園地は初めて?」
「……たぶん」
「そっか。じゃあ、楽しみ方を教えてあげよう」
自信満々に早見は俺の手を引いて、券を買い、ジェットコースターに並んだ。列は短く、すぐに順番が回ってくる。
「叫ぶと楽しいよ」
「そんなバカな」
コースターはゆっくりと高度を上げ、頂点から一気に加速する。
「――ぐげっ」
「きゃぁああああああ」
楽しそうに悲鳴を上げる少女の横で、カエルの断末魔のような音を出す俺。なんだこの差は。コーナーでついたのか?
あっという間に一周回り、ふらふらの状態で脱出する。
「ね。楽しかったでしょ」
「…………」
「楽しくなかった? 楽しかったよね」
「じゃあもうそれでいいや」
彼女が楽しいなら、他のことはなんでもいい。
「次は空中サイクリング!」
「高いところ好きなのはバカ」
「うっさい! いくよ」
もはや遠慮のなくなった早見は、俺の手を掴んでさっさと歩く。
その後を俺も嫌々ついていく。
「漕いで漕いで! ちょっと怖くて足動かなくなっちゃった!」
「乗ろうって言ったのそっちじゃん……」
「言ったけど! 無理!」
「えぇ……」
理不尽で、うるさくて、ワガママで、自由で。
「きゃー。敦也ってば頼りになるぅ」
肩を叩いたり、頭を撫でたり、なんか上からのボディタッチが多くて。
「わたあめ食べる? フランクフルトのがいい?」
「俺は子供か?」
「いらないの?」
「いるけども」
すぐ俺に食べ物を渡してくるし。それを満足そうに見てくるし。
「こっち、一口食べていいよ」
自分のぶんも分けてくれるし。
「歩くの疲れた。敦也、おんぶ」
「自分で歩いて」
「ケチ」
注文が無茶苦茶だし。カップルでもやらんわ。
「じゃあ次はこっちね。そしたらあっちで、そっちでどっちでドン!」
「わけわからん」
ネタがいまいち面白くないし。
鬱陶しくて、面倒で、突き放してしまいたくなって。だけど、できなくて。
観覧車に乗って、コーヒーカップに乗って、メリーゴーランドに乗って、百円入れたら動くパンダにまたがって……。
そうこうしているうちに、だんだんと空が暗くなってきた。予報よりも早く天気が崩れそうで、園内からは人が引いていく。
ぽつりと、鼻先を雨粒が掠めた。
空を仰ぎながら、早見がこぼす。
「今日もあの子、バス停にいるのかな」
ぽつぽつと、水滴がアスファルトを叩く。黒い染みが川になって、足下を流れる。
こびりついた夢を洗い流すように、雨は強く、強く降りしきる。
「きっともう帰ってるよ。だから俺たちも帰ろう。それで明日もいつも通りに……」
早見は悲しそうに笑っていた。あの日、バス停向けたのと同じ笑顔で。
「なんで、……なんでそんな顔するんだよ…………」
「ごめんね」
ずっとちゃんと見ないできた。彼女の笑顔。なんとなく視界の端で、どんなふうに笑っているかを確認して、直視しないできた。
悲しそうに、寂しそうに笑うその顔は、鏡越しの俺によく似ていた。
新庄秋穂
それが、俺の母さんの名前だ。
理由は知らない。原理にも興味がない。当然のように、根拠もない。
ドキドキしないのも、落ち着くのも、懐かしいのも全部、そうとわかれば納得がいく。しっくりきてしまう。
彼女は今ここにいる。それだけが大切だ。それ以外はどうでもいい。
「……いいじゃん。知らないやつのことなんて。なんでそんなこと言うんだよ」
あの子供がどんなことを思って、どんな悲しみを抱いていても関係ない。
「明日は俺が弁当作るよ。練習したんだ。味は劣るけどさ、食べられなくはないから。……父さんはさ、なにも言わないんだ。なにを食べても、ずっと同じ顔なんだ……だから」
手を伸ばして、肩を掴んだ。
初めて自分から触れる母さんの肩は細くて、簡単に壊れそうだった。
高校生の間に俺を宿した。今の俺とほとんど同じ年齢で、彼女は既に母親だった。若くて、未成熟で、多大な負担をかけて命を削って、俺を産んだ。
その事実を突きつけられて、どうしようもなくなって、力が抜けてしまった。
我慢できなくなって、ずっと胸に抱えていた言葉が溢れる。
「ごめんなさい。産まれてきてごめんなさい」
俺よりもずっと小さくて、細くて、軽くて、温かい母さんを、俺が壊してしまった。
その先に続くはずだった人生を奪って、どうしようもない俺が産まれた。入れ替わるにしたってもうちょっといいトレードがあったはずだ。これじゃあまりにも割に合わない。
「大きくなったね」
小さな手が頬に触れた。
「背伸びしても、立ってたら頭撫でられないや。産まれたときは両手ですっぽり収まったのに」
くぐもった声だった。顔を上げると、母さんは泣いていた。
「ごめんね。ちゃんとしたお母さんになれなくて。寂しかったよね」
「――別に」
寂しくなんてなかった。そんな感情は、ずっと昔に忘れたから。
痛くなんてなかった。血はとうの昔に固まっていたから。
「ありがとうね。産まれてきてくれて」
だけど、
優しさは耐えられなかった。
「やりたいことは沢山あったんだ。たくさん料理してあげたかった。いっぱい食べさせてあげたかった。お母さんのぶんも食べていいよって言いたかった」
視界が歪む。声が震える。
「……それ、やったじゃん」
「うん。できてよかった。でもね、汚れた服を洗ったり、おねしょの記録をつけたり、初恋のお話を聞いたり、宿題を手伝ったり、悪いことをしたら叱ったり、頭を撫でたり、背が追い抜かれて喜んだり、反抗期に喧嘩したり、いっぱいいっぱい想像したんだよ。知ってる?」
「知らない。……けど、今からやればいいじゃん。そんなにやりたいことがあるなら、ずっとここにいればいい」
「ううん。もういいの」
満足した笑顔だった。
「敦也が生きててくれたから、それで十分」
「そんなわけないだろ。生きてるだけで十分なんて、そんなの……」
俺よりも小さくて、俺と同じくらいの年齢で、それでも彼女は母親だった。その目は柔らかく、俺に触れる手は優しくて温かい。
この人のことを、心の底から愛おしいと思う。だけどきっと、それ以上に俺は愛されている。
かなわないと思った。
どれだけ屁理屈を並べても、この人の目からは逃げられない。こんなに温かいものを俺は知らない。
「あなたと生きられないことを、悲しいと思う。だけどそれ以上に、あなたが今日を生きていることが誇らしい」
手が伸びてきて、抱きしめられる。
いつの間にか雨は止んでいて、空からは白い雪が舞い落ちる。
涙と同じ温度の、温かい雪だった。
「ねえ敦也。最後のお願い。聞いてくれる?」
そんなことを言われたら、頷くしかない。
だけど最後に言わせてください。
俺は、あなたのことが――
◆
雪やこんこ あられやこんこ
降っても降っても まだ降り止まぬ
犬は喜び庭駆け回り
猫はこたつで丸くなる
◆
一体いつから、どのくらい夢を見ていたのだろう。
目が覚めると一面の雪景色で、遊園地の入り口にあるベンチで横たわっていた。
周りには誰もいない。静まりかえった遊園地は、眠っているようだった。
後頭部に残った柔らかな温もりは、もう隣はない。
だけど確かに胸の中にあって、鼓膜には優しい歌声が残っている。
愛しい人がくれた、ほんの一瞬の思い出たち。
俺は今から、これを忘れなくちゃならない。
5 はじめまして
その停留所にバスが止まるのは、彼以外の人間がいるときか、降りる客がいるときだけだ。
彼がいるだけでは、バスは止まらない。
彼はバスに乗らないから。
その少年は、雪が降ってもそこにいた。ランドセルを抱いて、来るバスをじっと見て、これから来るバスをじっと待ち続ける。そんなことを、ずっと続けている。
――あの子に次の番を回してあげて。
母さんは最後にそう言った。
俺は、魔法にかかっていたのだ。
もう二度と会えない人と再会するための魔法。それは聖火のように次がれ、悲しい誰かへ受け渡される。
代償として失うのは、記憶。
自分が与えられた記憶を手放すことで、次の誰かに希望を届けることができる。
ふたつ結びの女の子は泣いていた。
大切な人を忘れることに悲しんで、それでも俺に順番を回してくれた。
彼女は今、どうしているのだろうか。彼女のことも忘れるのだろうか。
どっちでも構わない。大切なものは胸の奥にある。
料金を払って、ステップを降りる。ベンチの前に立っても、男の子はこっちを向かなかった。
それでも俺は話しかける。
「君はさ、誰に会いたいの?」
返事はなかった。知らない人から話しかけられたから、当然だ。
だけど俺も下がれない。時刻表の隣に立って、じっと待つ。
じっと座る男の子の横で、ポケットに手を入れて待つ。
雪が積もって、多くの車が流れて、白い息が凍ってしまいそうなほど冷えてきて。
ようやく男の子は、ぽつりと呟いた。
「……ママ」
「そっか」
胸が痛んだ。
こんなに近くに、同じ痛みを抱える人がいて、そんなことに気がつかないでいた。
「じゃあ、会わせてあげるよ」
「…………本当に?」
「うん。だけどその時間はほんの一瞬だから、大事にするんだよ。約束できるかい」
「――する!」
生気のなかった瞳に、初めて光が宿った。
涙が出てきて、それでも笑ってみせた。二つ結びの女の子がそうしてくれたように。俺もちゃんと、次に渡そう。
魔法は残酷だ。
誰にでも平等に与え、誰からも平等に奪う。
いつか目の前の少年も、俺と同じ場所に立つのだろう。
どうかその時までに、彼が答えを得られますように。
「じゃあ、これを君に渡そう」
代償に俺の記憶を。引き換えに幸福な夢を。
頭の中で強く思い描いても、母さんの姿が掠れていく。交わした言葉が薄れていく。
だけど最後まで、あの人は笑っていた。
◆
スーパーで安売りの白菜を買って帰る。でかいのを買えば、二週間はこれでしのげるから。冬の主戦力はいつだってこいつだ。
遅い時間になってしまったけど、そういえば俺はなんで外に出たんだっけ。
ポケットを漁ると、遊園地のチケットが出てきた。使用済み。どこかで落ちていたゴミを拾ったのだろうか。
仕方がない。あとでゴミ箱に捨てるとしよう。
ボロアパートの階段を登って、中に入る。電気がついていた。
驚いて固まっていると、台所からのっそりと人影。父さんが顔を出す。
「……ああ。敦也か」
どこか躊躇いがちに俺の名前を口にして、「こっちに来なさい」と手招きしてくる。
なにかあったのだろうか。あまりいい予感はしない。
部屋に入って正座をする。なぜか父さんも正座だったから、つられて。
「秋穂……母さんのことは、覚えてるか?」
聞いたことのない名前だった。だけどどこか懐かしくて、頷きそうになる。それでも、決定的なものはなくて、首は横に振った。
「そうだよな。お前には、ずっと話してなかった……すまない」
「なんで急に。変だよ父さん」
長い間見ないでいた父親は、ずいぶん小さくなって見えた。想像よりずっと弱々しく、痩せていて、なのに表情はどこか優しい。
「叱られたんだ。秋穂に」
だめだ。早く病院に連れて行かないといけない。俺がちゃんとしないと。
俺が――
「これ、敦也との写真がな。一枚だけあったんだ」
目の前に差し出されたのは、一人の女性と、その腕に抱かれた真っ赤な子供。両腕にすっぽり収まって、目を閉じて泣いている。
女の人の顔は、鏡越しの俺によく似ていた。満足そうに笑っていた。
とてもこれから死ぬ人には見えなかった。
こんなとき、どんな言葉を使えばいいんだろう。わからなくて、自然に頭を下げていた。挨拶するみたいに。そこに誰かがいるみたいに。
「……はじめまして」
顔も名前も覚えていない人の温もりを辿るように、手を伸ばして、写真を持った。
はじめまして。
それから、もっと大事なことがあるんだ。
理由はわからない。だけど俺は、どうしても伝えたいことがある。
「会ったことも記憶もないけど……それでも、あなたのことが大好きです」
◆
本当に会いたい人は、探しても見つからない。
探したところで、誰が会いたい人なのかもわからない。
だけどその人は確かにいて、教室や、駅の雑踏、帰り道から見るグラウンドに探している。
時は流れ、高校を卒業しても。
大学のキャンパスに、サークル会館の中に、食堂に、違う街の駅の雑踏に。
誰かを求めて、視線を彷徨わせる。
ありがとうを伝えたい人がいる。
その人と話したいことがある。聞いてみたいことがある。
ずっと昔、俺は独りぼっちで生きていた。自分が嫌いで、憎くて、ただあるときからその感情は弱まっていった。
そのきっかけに、誰かがいたような気がして。
その人のことを、ずっと探している。
「はじめまして。……では、ないかもしれませんね」
声を掛けられて、立ち止まった。
川沿いの道。風が吹いて、桜が舞う。
俺が探していた人もまた、俺を探していたのかもしれない。
信じられないものを見るような、戸惑いと喜びがないまぜになった目だった。
彼女のことを、俺は知っている。
俺のことを、彼女は知っている。
「はじめましてで、いいんじゃないかな」
長い人生だ。苦しい世界だ。
だから、
これくらいの奇跡なら、起こってもいいんじゃないかと思う。