表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

やけに構ってくる女の子の話

作者: 城野白

 ――あなたにあげます。

 二つ結びの少女が、夕陽を背にして立っていた。


 彼女の目は赤く、頬はぬれぼそっていた。泣いていたのだと、一目でわかった。

 たぶん、夢だったと思う。




1 毎日の風景




「敦也、今日遊びに行く?」


 名前を呼ばれて、ようやく授業が終わっていたことに気がつく。

 顔を上げると一時。昼休みだ。


 すぐ横では、男子四人が集まって各々の昼食を机に載せている。いわゆるいつメン。俺もこの中の一人だと思う。


「……今日はいいや。スーパーの特売日だし」

「おおっ、なんて家庭的な理由!」

「敦也はしっかりしてるもんな」


 はやし立てる四人から目を逸らして、もう一度腕に顔を埋める。

 今ならまだ、眠気のほうが空腹よりも強い。腹の奥で虫が鳴くのを無視して、意識を暗闇へと落とした。


 わいわい騒ぐ〝友達”の声に耳を逸らして。

 煩わしいと思っても、声には出さなかった。






 学校から家までのバス停に、いつも男の子がいる。

 小学生で、低学年くらいか。まだ新しいランドセルを抱えて、固くて青いベンチに一人座っている。

 朝はいない。だが、放課後になるといつもいる。晴れの日も、雨の日も、雪の日も。さすがに台風の日は知らない。もしかしたら、いるのかもしれない。


 少年はバスに乗らない。きゅっと唇を結んで遠くを見る。時刻表すら見やしない。

 だから停留所に彼しかいないときは、バスも止まらない。






 スーパーの特売日は、生きていく上で最も重要だ。毎週届くチラシを読み込んで、一週間先の献立まで決めて、狙ったものだけを買う。


 肉なんかは父さんが帰ってくる日しか買わない。タンパク質は豆腐。豆を食べていれば死なないのは、今日までで証明されている。

 卵と小麦粉は主戦力だ。かさ増しのためにこれ以上役立つものはない。


 何度も縫い直したマイバッグを抱えて、スーパーを出る。

 落ちていく夕陽を見ても、なにも感じなかった。






 家賃四万のボロアパート二階に、新庄の表札がある。ガバガバの鍵を回して、軋むドアを開け、カビとほこりの匂いがまん延する部屋に入る。

 どれだけ掃除しても、この部屋に積もった年期は落ちそうにない。


 冷蔵庫に買った物を入れる。野菜は長持ちするような処理をしてから野菜室へ。肉も冷凍食品も買わないが、冷凍庫には作り置きが大量に保存されている。

 一気に食べると減るので、少し解凍して口に入れる。美味しいと食べ過ぎる。味付けは濃くして、すぐ飽きるように。


 物心ついてからの習慣だ。なにも感じない。






 シャワーを浴びたら、学校の復習をする。

 聞き損ねたところはほとんど自分で学ぶ。辛い空腹を無視するために、四時間目はほとんど寝ているからだ。


 布団を敷いて、中に入る。枕元のスマホに、今日も連絡がないことを確認する。父さんは帰ってこない。こんなものはいらないと言ったのに、心配だから持っておけと言われた。

 連絡がないのなら、意味はないと思う。






 眠れなくとも目を閉じる。閉じ続ける。

 朝が来るまで、そうしている。





2 早見秋穂




 体育館の裏には誰もいない。誰の目にもつかない。

 だから時々、昼休みにやってくる。それはなんとなく、周りの声が鬱陶しくて、耳を塞げなかったときや、寝ようとしても眠れないとき。


 購買に行くと嘘を吐いて、やってくる。

 ほんとうに空腹のときは、渋々菓子パンを買う。カロリーがあれば人は生きていける。


 口に入れて、水道水で流し込む。ぼんやり雲を数えて、予鈴が鳴るまでそうしている。

 なのに今日は、後から人がやってきた。


「あ、こーんなところにいた。君はかくれんぼが上手なんだね」


 知らない女子だった。

 ただにこやかに笑って、てくてく近づいてくる。


 セミロングの髪が揺れて、甘い匂いがした。やけに落ち着く香りだと思った。なにかに似ている、とも。


「敦也くん、私のこと覚えてる?」

「……いや、誰ですか」


 おまけに知り合いだという。俺の名前も知っている。

 だけどどうしても、彼女の顔は浮かばない。幼馴染み? いた記憶がない。


「まあいいや。すっごく久しぶりだからね。私は早見秋穂」


 手を伸ばして、握手を求めてくる。

 不思議と嫌な感じはしなかった。手を伸ばすと、がしっと掴まれた。


「おっきな手だね。さすがは男の子」


 確かめるように指を動かし、しまいには手を勝手に広げて手相占いを始めた。


「あー、これはひねくれ者だ。どう? 当たってるでしょ」

「…………」


 なんだろう。知らない人なのにものすごくイライラする。


「生命線は長いんだね。安心安心。それから、おっ、ぺんだこ発見。にぎにぎ」

「いつまで触ってるんだよ」


「いいじゃんいいじゃん。減るもんじゃないし」


 にぎにぎーと、右手だけでは飽き足らず左手もいじり始めた。


「……あの」

「お礼にお弁当あげるから。ね」


「え?」

「お腹、空いてるでしょ。そんなパンで膨れるわけないもん」


 人から物をもらうのには抵抗があったが、目の前で早見は弁当箱を開けた。

 醤油だれで焼いた豚の匂いが、食欲を激しく揺さぶる。


「ね? ね?」

「……まあ、ちょっとだけなら」


「やりぃ」


 にしっと口元を歪めて、今度は親指の付け根をぷにぷにし始める。かと思えば手のマッサージを始めた。


合谷ごうこくって知ってる?」

「うぐっ」


「お客さん、凝ってますねえ」

「痛い、痛いんだけどちょっと、あの、痛いんだけど!」


「だめだよ。ちゃんと休まないとさ。君はどうせ頑張ってばっかりなんだから」

「いやだから痛いって!」


 押す力はどんどん強くなり、その後五分ほどマッサージは続いた。






「どう? ねえ、味はどう?」

「だから美味いって……」


 一口食べるたびに、早見は感想を求めてきた。俺の隣にぴったり座って、減っていく弁当箱を眺めながら。

 正直かなり近い。涼しい季節だから、暑苦しいとは思わないけど。むしろぽかぽかして、カイロみたいな心地よさはあって。


 でも、この距離はまずいだろ。

 そう思ってスライドすると、やっぱり早見はついてきた。体育館の外側を、端から端に移動しきった。これ以上の逃げ場はない。詰んだ。


 とほんと同時に食べ終わった。


「ごちそうさまでした」

「はい。ありがとね」


 手を合わせると、すっと弁当箱を早見は取っていった。


「洗って返すよ」

「大丈夫 大丈夫ったら 大丈夫」


「なんで五七五」

「大丈夫なこと山のごとし」


「……そうですか」

「あ、今『面白くな』って思ったでしょ!」


「思った」

「ひどーい。昔は大爆笑だったのに」


「そんなギャグセンスのない時代があったのか俺……ショックだな」

「あの頃はなにを言っても笑い転げてたのになぁ」


 どんな時代だよ……。

 もしそうだとして、よくそんな前のことを覚えてるもんだ。俺が覚えている一番古い記憶は、五歳のときだから――それより昔か。


「幼馴染みだったのか? 俺たちは」

「んー。まあそんな感じでもいいんじゃないかな」


「なんだよその曖昧な言い方は」

「将来を誓い合う予定だった仲かもしれないよ」


「誓い合ってないんじゃん……」


 結婚フラグの立った幼馴染みではないらしい。

 じゃあますます誰だよと、聞こうとしたタイミングで予鈴が鳴った。


「明日もここにおいで。そしたら、美味しいランチが食べられるよ」


 絶対に来るものかと言いたかった。

 食欲には、あらがえそうもなかった。







 バス停の男の子はやっぱり今日もそこにいて、また俺はその後ろを通り過ぎる。

 誰もがそうするように。何度もそうしてきたように。







 次の日、早見は弁当を二つ持ってきた。


「今日はなんとハンバーグですよ敦也くん」

「ハンバーグ……」


「食べたいよね。食べたいよね。じゃあまず――って手を差し出すの早いね! これが学習能力かな!?」

「手ぐらいなら」


「ううん。でも、今日は手じゃなくて頭にしよっかな」

「頭?」


「あと顔周辺」

「えぇ……」


「ハンバーグ」

「ハンバーグです」


 逆らえなかった。

 早見は俺の頭に手を載せると、髪をつんつんする。


「わぁ。ちょっと硬いね。ちゃんと手入れしてる?」

「必要ない。傷んだら切ればいいから」


 わしゃわしゃと頭を撫でられる。

 人から触れられるのは好きじゃない。なのに、彼女に触れられるのは嫌じゃなかった。毛繕いのような優しさと、安心があった。


「そしたら伸ばせないじゃん。伸ばしてみようよ。絶対似合うから」

「…………」


「グラタン」

「……考えとくよ」


 その後は柔らかくもない頬を伸ばされたり、耳たぶをもちもちされ、最後に頭をぽんぽん叩かれる。


「うん。満足満足。はい、これはお礼」

「もしかしてだけど、俺ってペット扱いされてる?」


「違う違う」

「そのうちお手とかお座りとか言い出さない?」


「言わない言わない」

「そっか。ならいいや」


 もらった弁当箱を開けると、大きなハンバーグが顔を出した。上にはケチャップがかかっていて、崩れたハートマーク。


「……なにこれ」

「愛情を込めたら美味しくなるんだって」


「あ、そ」


 極力気にしないようにして、箸で分けて口に運ぶ。


「ねえねえ。敦也って好きな子とかいるの?」


 むせた。

 水で流し込んで、どうにか呼吸を整える。


「ごめんごめん。食べてる途中だもんね」


 その間ずっと早見は背中をさすってくれた。温かい手だ。


「いないよ」


 短く答え、視線を落とす。


「じゃあ、友達は?」

「…………わからない」


 いると言ってもよかった。少なくとも、世間的にはそう呼べる人はいる。

 だけど、彼女の前ではそんなふうに言わなくていいと思った。


「わからないって、どうして?」


 ハンバーグを噛む。肉汁があふれる。幸せだと思う。

 こういう幸福感は、〝友達”と関わっても得られない。


「なんとなく趣味が合ったり、席が近かったり、一緒に遊んだり、そういう相手とは話すし、仲良くしてる。……けど、それはずっとじゃないし、仲の良さには順位があって、そういうのを気にすると、どうしてもわからなくなる」


 誰もが言うような友情とか、愛情とか。そういう目に見えない繋がりを、俺は感じたことがない。

 気がついた時には一人だったし、一人を辛いとは思わないし、これからも一人なのだと思う。そうあることが、自然だと思う。


「そっか。大変なんだね」

「別に」


「じゃあ、私のぶんもあげるよ」


 早見は自分のハンバーグを切って半分にして、こっちの弁当箱に載せてくる。


「え、いや、さすがにこれは」

「いいのいいの。男の子なんだから、たくさん食べないとね」


 そう言って彼女は満足そうに笑った。

 そんな顔をされたら、断ることはできなかった。









 夢を見る。

 二つ結びの女の子が立っている夢だ。

 その子がどんな顔をしているかは思い出せない。会った記憶も無いのに、思い出せないと感じるのはなぜだろう。


 最初、その子は泣いていた。

 だけど次第に涙は引いて、やがて彼女は歩き出した。




 早見と出会ってから一週間くらいで、その子は夢に現れなくなった。






3 俺が生まれてきたから





 父さんが帰ってくるときは、肉を買う。米を炊いてサラダを作って、味噌汁を準備して肉を焼く。食卓を〝普通の家庭”のようにして、向かい合って食べる。

 父さんはなにも言わない。俺もなにも言わない。


 食器は俺が洗う。父さんは疲れているから、風呂に入ってすぐ眠る。狭い家だから、寝る部屋は一つしかない。俺も隣で眠る。

 そういう日はいつもより寝付きが悪くて、やっと眠るのは明け方になる。


 目が覚めたとき、家にいるのは一人だ。父さんは仕事に行っている。

 そしてまた、いつも通りが始まる。


 母さんはいない。母さんがいたことはない。

 俺を生んだせいで、母さんは死んだから。


 ――お前のせいで××は死んだんだ。


 五歳のとき、一度だけワガママを言った。遊園地に行きたかった。父さんは疲れていた。疲れ切っていた。

 仕事も家事も育児も全部やって、どうしようもなく追い詰められていたのだと思う。今ならわかる。


 掠れて聞こえなかったのはたぶん、母さんの名前だ。

 母さんの名前を知っている父さんのことを、少しだけ羨ましいと思う。










 毎日のように体育館裏に行く俺を、クラスの誰も構わなくなった。

 元々そういう関係だったのだと思う。特になにも感じなかった。


 昼の時間には別の楽しみができたから。


「じゃーん。今日はチャーハンです」

「すごい。器用。天才料理人」


「いやぁ、それほどのものでは……って、おだてて早く食べようとしてるな」

「もちろん」


「効くけど! 効果てきめんだけど!」


 やっぱりうれしー! と早見はきゃっきゃ笑う。いつ見ても元気だ。常にこのテンションなのだろうか。だとしたらちょっとやだな……。


「まったくもう、敦也ってば女の子を誑かすのが上手いんだから」

「誑かしてはないと思う。そこは抗議する」


 くだらない冗談を言い合って、笑う。

 この時間だけは、自分が誰かと繋がっているような気がした。






 一緒に帰ろうと言われたのは、その日だった。

 適当に断ろうとしたが、「じゃあ、近くの橋でね」と押し切られてしまった。なんで校門前じゃないんだよ。


 彼女の指定した橋は、下校ルートの避けては通れない場所にある。

 先に来ていた早見は、こっちを見ると手を振って近づいてきた。


「遅いぞー」

「早いんだよ」


「早見だけに?」

「3点」


「きびしいっ!」


 0点にしなかっただけ慈悲があると思ってほしい。

 早見は不満げに唇を尖らせるが、すぐに破顔する。


「まあいいや。敦也は笑ってるし」

「笑ってる?」


 顔に手を当てる。自分じゃよくわからない。

 並んで歩いていると、木から赤や黄色の葉が落ちてくる。


「綺麗だね。紅葉」

「うん。そうだな」


 早見は宙に手を伸ばして、銀杏の葉をつかみ取る。それを自慢げに見せてきて、


「あげる」

「いらない」


「じゃああげない」


 なんなんだ。

 よくわからないやり取りだった。遊ぶ早見の相手をしながら、いつものバス停近くへやってくる。


 男の子は、今日もそこに座っていた。

 ぎゅっとランドセルを抱いて、赤いジャンパーを羽織って。じっと遠くを見つめている。いつか来るはずのバスを待つように。


「あの子。どうしていつもあそこにいると思う?」


 囁くように、早見が言った。


「さあ。でも、いつもいるよね。バスにも乗らないのに」

「うん」


 早見は目を細めて、小さく唇を噛んでいた。


「君は知ってるの?」

「どうしてそう思うの?」


「それは、……悲しそうな顔をするから」

「知らないよ。でも、悲しそうな人を見ると悲しくなるでしょ」


 そういう感覚は俺にはなかった。

 あの少年は俺にとって、電話ボックスのようなものだ。急にいなくなったら驚くけど、いずれそのことは忘れる。


 そういうものなんだね、と他人事のように言った。早見は頷いた。

 それから、俺の左手を握ってきた。握手ではなかった。指を絡めて、縋るように手を繋いでくる。


 鼓動は早くならない。それでも、この手を振りほどこうとは思わない。


「一つ、ワガママを聞いてくれない?」


 別れ際に早見は切り出した。


「なに?」

「今度、一緒に遊園地に行ってほしいの。チケットは二枚あるけど、一緒に行く人がいなくて」


「…………」

「お願い。一生に一度」


「それ、何度でも繰り返されるやつじゃん」

「繰り返さないっ!」


 ため息が出てしまった。呆れとか、そういうのではない。


「いつ?」

「次の日曜日!」


「その日って、雨じゃなかったっけ」

「ギリギリ降らないはず。天気予報によれば」


「わかったよ。じゃあ、日曜日」


 遊園地という響きを恐れていた時期がある。

 小学校の遠足で行ったとき、体調が悪くなってバスで寝ていたくらいに。


 だけどそれも、時間が経つにつれてどうでもよくなった。時間だけが、いつも癒やしをくれる。

 痛くなければ怪我ではない。

 悲しくなければ、辛くなければ、孤独でなければ、俺は不幸ではない。


 だからそれでいい。

 そのくらいが、ちょうどいい。









 夢はいつか醒める。

 幸福はいつか終わる。

 だからその瞬間は、当たり前のように唐突に訪れた。


「敦也ってもしかして、独り言すごいタイプ?」

「は?」


「いや、は? じゃなくて。昨日の帰りだよ」


 最近はすっかり関わりの減った〝友達”が、周りに配慮して告げてくる。


「お前、ずうっと一人で喋ってたじゃん。なに? 落語の練習?」

「昨日は早見と……」


 二人で帰っていた。


「誰? ちょっと見てたけど、敦也は一人だったじゃん」


 冗談よせよと肩を叩かれる。

 意味がわからなかった。


 だけど頭の奥で、声が響く。こんなときに、父さんの声が。


 ――お前のせいで――――…………


 その名前を、俺は確かに聞いていた。






4 あなたが生まれたから





 十歳になる頃には、いろいろなことがわかるようになっていた。特に人の悪意や、怒りに敏感で、暗い意味を持つ言葉は今と同じくらい知っていた。

 母さんは高校生のうちに俺を身ごもった。元々身体の強い人ではなく、まだ若いこともあり周囲からは堕ろせと言われたそうだ。


 だが、それを振り切って母さんは俺を産んだ。父さんと結婚して、高校を辞めて、今の狭いアパートで少しの間暮らして。

 俺を産んで、まもなく死んだ。


 父さんに恨まれるのは当然だと思う。俺が悪くなくとも、他に感情のぶつけ先はないだろう。だから、仕方がない。

 父さんはいつも忙しい。忙しいのはきっと、お金がないからだ。


 だから俺は、限界まで節約する。できるだけ安い進学先に行って、大学は奨学金で通う。

 足を引っ張りたくない。

 口にするものや、手にしたもの。すべてが父さんの苦労の上にあると思うと、それだけで息苦しい。


 生きていることは罪だと思う。

 償い方を知りたかった。あるはずもないのに。









 もこもこのコートとベレー帽を被って、早見はやってきた。初めて見る私服はオシャレで、黒のジャンパーとデニムでは隣に並ぶのが恥ずかしい。

 とはいえここは地元にある小さな遊園地。日曜日にいるのは家族連ればかりで、高校生はほとんどいない。緊張感は、ゲートをくぐる前に和らいだ。


「遊園地は初めて?」

「……たぶん」


「そっか。じゃあ、楽しみ方を教えてあげよう」


 自信満々に早見は俺の手を引いて、券を買い、ジェットコースターに並んだ。列は短く、すぐに順番が回ってくる。


「叫ぶと楽しいよ」

「そんなバカな」


 コースターはゆっくりと高度を上げ、頂点から一気に加速する。


「――ぐげっ」

「きゃぁああああああ」


 楽しそうに悲鳴を上げる少女の横で、カエルの断末魔のような音を出す俺。なんだこの差は。コーナーでついたのか?

 あっという間に一周回り、ふらふらの状態で脱出する。


「ね。楽しかったでしょ」

「…………」


「楽しくなかった? 楽しかったよね」

「じゃあもうそれでいいや」


 彼女が楽しいなら、他のことはなんでもいい。


「次は空中サイクリング!」

「高いところ好きなのはバカ」


「うっさい! いくよ」


 もはや遠慮のなくなった早見は、俺の手を掴んでさっさと歩く。

 その後を俺も嫌々ついていく。


「漕いで漕いで! ちょっと怖くて足動かなくなっちゃった!」

「乗ろうって言ったのそっちじゃん……」


「言ったけど! 無理!」

「えぇ……」


 理不尽で、うるさくて、ワガママで、自由で。


「きゃー。敦也ってば頼りになるぅ」


 肩を叩いたり、頭を撫でたり、なんか上からのボディタッチが多くて。


「わたあめ食べる? フランクフルトのがいい?」

「俺は子供か?」


「いらないの?」

「いるけども」


 すぐ俺に食べ物を渡してくるし。それを満足そうに見てくるし。


「こっち、一口食べていいよ」


 自分のぶんも分けてくれるし。


「歩くの疲れた。敦也、おんぶ」

「自分で歩いて」


「ケチ」


 注文が無茶苦茶だし。カップルでもやらんわ。


「じゃあ次はこっちね。そしたらあっちで、そっちでどっちでドン!」

「わけわからん」


 ネタがいまいち面白くないし。

 鬱陶しくて、面倒で、突き放してしまいたくなって。だけど、できなくて。


 観覧車に乗って、コーヒーカップに乗って、メリーゴーランドに乗って、百円入れたら動くパンダにまたがって……。







 そうこうしているうちに、だんだんと空が暗くなってきた。予報よりも早く天気が崩れそうで、園内からは人が引いていく。

 ぽつりと、鼻先を雨粒が掠めた。


 空を仰ぎながら、早見がこぼす。


「今日もあの子、バス停にいるのかな」


 ぽつぽつと、水滴がアスファルトを叩く。黒い染みが川になって、足下を流れる。

 こびりついた夢を洗い流すように、雨は強く、強く降りしきる。


「きっともう帰ってるよ。だから俺たちも帰ろう。それで明日もいつも通りに……」


 早見は悲しそうに笑っていた。あの日、バス停向けたのと同じ笑顔で。


「なんで、……なんでそんな顔するんだよ…………」

「ごめんね」


 ずっとちゃんと見ないできた。彼女の笑顔。なんとなく視界の端で、どんなふうに笑っているかを確認して、直視しないできた。

 悲しそうに、寂しそうに笑うその顔は、鏡越しの俺によく似ていた。


 新庄秋穂


 それが、俺の母さんの名前だ。

 理由は知らない。原理にも興味がない。当然のように、根拠もない。


 ドキドキしないのも、落ち着くのも、懐かしいのも全部、そうとわかれば納得がいく。しっくりきてしまう。

 彼女は今ここにいる。それだけが大切だ。それ以外はどうでもいい。


「……いいじゃん。知らないやつのことなんて。なんでそんなこと言うんだよ」


 あの子供がどんなことを思って、どんな悲しみを抱いていても関係ない。


「明日は俺が弁当作るよ。練習したんだ。味は劣るけどさ、食べられなくはないから。……父さんはさ、なにも言わないんだ。なにを食べても、ずっと同じ顔なんだ……だから」


 手を伸ばして、肩を掴んだ。

 初めて自分から触れる母さんの肩は細くて、簡単に壊れそうだった。


 高校生の間に俺を宿した。今の俺とほとんど同じ年齢で、彼女は既に母親だった。若くて、未成熟で、多大な負担をかけて命を削って、俺を産んだ。

 その事実を突きつけられて、どうしようもなくなって、力が抜けてしまった。


 我慢できなくなって、ずっと胸に抱えていた言葉が溢れる。


「ごめんなさい。産まれてきてごめんなさい」


 俺よりもずっと小さくて、細くて、軽くて、温かい母さんを、俺が壊してしまった。

 その先に続くはずだった人生を奪って、どうしようもない俺が産まれた。入れ替わるにしたってもうちょっといいトレードがあったはずだ。これじゃあまりにも割に合わない。


「大きくなったね」


 小さな手が頬に触れた。


「背伸びしても、立ってたら頭撫でられないや。産まれたときは両手ですっぽり収まったのに」


 くぐもった声だった。顔を上げると、母さんは泣いていた。


「ごめんね。ちゃんとしたお母さんになれなくて。寂しかったよね」

「――別に」


 寂しくなんてなかった。そんな感情は、ずっと昔に忘れたから。

 痛くなんてなかった。血はとうの昔に固まっていたから。


「ありがとうね。産まれてきてくれて」


 だけど、

 優しさは耐えられなかった。


「やりたいことは沢山あったんだ。たくさん料理してあげたかった。いっぱい食べさせてあげたかった。お母さんのぶんも食べていいよって言いたかった」


 視界が歪む。声が震える。


「……それ、やったじゃん」

「うん。できてよかった。でもね、汚れた服を洗ったり、おねしょの記録をつけたり、初恋のお話を聞いたり、宿題を手伝ったり、悪いことをしたら叱ったり、頭を撫でたり、背が追い抜かれて喜んだり、反抗期に喧嘩したり、いっぱいいっぱい想像したんだよ。知ってる?」


「知らない。……けど、今からやればいいじゃん。そんなにやりたいことがあるなら、ずっとここにいればいい」

「ううん。もういいの」


 満足した笑顔だった。


「敦也が生きててくれたから、それで十分」

「そんなわけないだろ。生きてるだけで十分なんて、そんなの……」


 俺よりも小さくて、俺と同じくらいの年齢で、それでも彼女は母親だった。その目は柔らかく、俺に触れる手は優しくて温かい。

 この人のことを、心の底から愛おしいと思う。だけどきっと、それ以上に俺は愛されている。


 かなわないと思った。

 どれだけ屁理屈を並べても、この人の目からは逃げられない。こんなに温かいものを俺は知らない。


「あなたと生きられないことを、悲しいと思う。だけどそれ以上に、あなたが今日を生きていることが誇らしい」


 手が伸びてきて、抱きしめられる。

 いつの間にか雨は止んでいて、空からは白い雪が舞い落ちる。


 涙と同じ温度の、温かい雪だった。


「ねえ敦也。最後のお願い。聞いてくれる?」


 そんなことを言われたら、頷くしかない。

 だけど最後に言わせてください。


 俺は、あなたのことが――









 雪やこんこ あられやこんこ

 降っても降っても まだ降り止まぬ

 犬は喜び庭駆け回り

 猫はこたつで丸くなる









 一体いつから、どのくらい夢を見ていたのだろう。

 目が覚めると一面の雪景色で、遊園地の入り口にあるベンチで横たわっていた。


 周りには誰もいない。静まりかえった遊園地は、眠っているようだった。

 後頭部に残った柔らかな温もりは、もう隣はない。


 だけど確かに胸の中にあって、鼓膜には優しい歌声が残っている。

 愛しい人がくれた、ほんの一瞬の思い出たち。

 俺は今から、これを忘れなくちゃならない。






5 はじめまして





 その停留所にバスが止まるのは、彼以外の人間がいるときか、降りる客がいるときだけだ。

 彼がいるだけでは、バスは止まらない。


 彼はバスに乗らないから。

 その少年は、雪が降ってもそこにいた。ランドセルを抱いて、来るバスをじっと見て、これから来るバスをじっと待ち続ける。そんなことを、ずっと続けている。


 ――あの子に次の番を回してあげて。


 母さんは最後にそう言った。


 俺は、魔法にかかっていたのだ。

 もう二度と会えない人と再会するための魔法。それは聖火のように次がれ、悲しい誰かへ受け渡される。


 代償として失うのは、記憶。

 自分が与えられた記憶を手放すことで、次の誰かに希望を届けることができる。


 ふたつ結びの女の子は泣いていた。

 大切な人を忘れることに悲しんで、それでも俺に順番を回してくれた。


 彼女は今、どうしているのだろうか。彼女のことも忘れるのだろうか。

 どっちでも構わない。大切なものは胸の奥にある。


 料金を払って、ステップを降りる。ベンチの前に立っても、男の子はこっちを向かなかった。

 それでも俺は話しかける。


「君はさ、誰に会いたいの?」


 返事はなかった。知らない人から話しかけられたから、当然だ。

 だけど俺も下がれない。時刻表の隣に立って、じっと待つ。

 じっと座る男の子の横で、ポケットに手を入れて待つ。


 雪が積もって、多くの車が流れて、白い息が凍ってしまいそうなほど冷えてきて。

 ようやく男の子は、ぽつりと呟いた。


「……ママ」

「そっか」


 胸が痛んだ。

 こんなに近くに、同じ痛みを抱える人がいて、そんなことに気がつかないでいた。


「じゃあ、会わせてあげるよ」

「…………本当に?」


「うん。だけどその時間はほんの一瞬だから、大事にするんだよ。約束できるかい」

「――する!」


 生気のなかった瞳に、初めて光が宿った。

 涙が出てきて、それでも笑ってみせた。二つ結びの女の子がそうしてくれたように。俺もちゃんと、次に渡そう。


 魔法は残酷だ。

 誰にでも平等に与え、誰からも平等に奪う。


 いつか目の前の少年も、俺と同じ場所に立つのだろう。

 どうかその時までに、彼が答えを得られますように。


「じゃあ、これを君に渡そう」


 代償に俺の記憶を。引き換えに幸福な夢を。



 頭の中で強く思い描いても、母さんの姿が掠れていく。交わした言葉が薄れていく。

 だけど最後まで、あの人は笑っていた。









 スーパーで安売りの白菜を買って帰る。でかいのを買えば、二週間はこれでしのげるから。冬の主戦力はいつだってこいつだ。

 遅い時間になってしまったけど、そういえば俺はなんで外に出たんだっけ。


 ポケットを漁ると、遊園地のチケットが出てきた。使用済み。どこかで落ちていたゴミを拾ったのだろうか。

 仕方がない。あとでゴミ箱に捨てるとしよう。


 ボロアパートの階段を登って、中に入る。電気がついていた。

 驚いて固まっていると、台所からのっそりと人影。父さんが顔を出す。


「……ああ。敦也か」


 どこか躊躇いがちに俺の名前を口にして、「こっちに来なさい」と手招きしてくる。

 なにかあったのだろうか。あまりいい予感はしない。


 部屋に入って正座をする。なぜか父さんも正座だったから、つられて。


「秋穂……母さんのことは、覚えてるか?」


 聞いたことのない名前だった。だけどどこか懐かしくて、頷きそうになる。それでも、決定的なものはなくて、首は横に振った。


「そうだよな。お前には、ずっと話してなかった……すまない」

「なんで急に。変だよ父さん」


 長い間見ないでいた父親は、ずいぶん小さくなって見えた。想像よりずっと弱々しく、痩せていて、なのに表情はどこか優しい。


「叱られたんだ。秋穂に」


 だめだ。早く病院に連れて行かないといけない。俺がちゃんとしないと。

 俺が――


「これ、敦也との写真がな。一枚だけあったんだ」


 目の前に差し出されたのは、一人の女性と、その腕に抱かれた真っ赤な子供。両腕にすっぽり収まって、目を閉じて泣いている。

 女の人の顔は、鏡越しの俺によく似ていた。満足そうに笑っていた。


 とてもこれから死ぬ人には見えなかった。


 こんなとき、どんな言葉を使えばいいんだろう。わからなくて、自然に頭を下げていた。挨拶するみたいに。そこに誰かがいるみたいに。


「……はじめまして」


 顔も名前も覚えていない人の温もりを辿るように、手を伸ばして、写真を持った。

 はじめまして。


 それから、もっと大事なことがあるんだ。

 理由はわからない。だけど俺は、どうしても伝えたいことがある。


「会ったことも記憶もないけど……それでも、あなたのことが大好きです」





















 本当に会いたい人は、探しても見つからない。

 探したところで、誰が会いたい人なのかもわからない。

 だけどその人は確かにいて、教室や、駅の雑踏、帰り道から見るグラウンドに探している。


 時は流れ、高校を卒業しても。

 大学のキャンパスに、サークル会館の中に、食堂に、違う街の駅の雑踏に。

 誰かを求めて、視線を彷徨わせる。


 ありがとうを伝えたい人がいる。

 その人と話したいことがある。聞いてみたいことがある。


 ずっと昔、俺は独りぼっちで生きていた。自分が嫌いで、憎くて、ただあるときからその感情は弱まっていった。

 そのきっかけに、誰かがいたような気がして。

 その人のことを、ずっと探している。





「はじめまして。……では、ないかもしれませんね」


 声を掛けられて、立ち止まった。

 川沿いの道。風が吹いて、桜が舞う。


 俺が探していた人もまた、俺を探していたのかもしれない。

 信じられないものを見るような、戸惑いと喜びがないまぜになった目だった。


 彼女のことを、俺は知っている。

 俺のことを、彼女は知っている。


「はじめましてで、いいんじゃないかな」


 長い人生だ。苦しい世界だ。


 だから、

 これくらいの奇跡なら、起こってもいいんじゃないかと思う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] これは… ずるいなあ… こんな風に泣かせに来るなんて。 与えられたものは、奪われてしまう。それなのに、差し引き0じゃないんだ。記憶は失われても、そこに何かが残って、会いたかった人の想いのか…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ