第1話 佐伯有太という男
朝の予鈴が鳴って少しして、僕は教室のドアを開けた。
クラスの何人かがこちらに視線を向け、皆一様に頭に疑問符を浮かべる。
──今誰が、ドアを開けた?と。
もちろん、ドアを開けたのは僕であり、隠れる等といったこともなく、堂々と教室に入り、最前列真ん中にある自分の席に着いた。
だがそれでも、今の開扉に気付いた者たちの視線は、ドア付近に固定され、僕を追うことはない。
席に着いてからも誰も近寄っては来ず、挨拶もされない。
僕はいつものことだと割り切り、勉強道具一式を取り出すと、無我夢中で自主勉を始めた。
チャイムが鳴って一時限目の授業が始まった。
当然、最初は出欠確認から入る。
「木村!」
「はーい!」
「黒田!」
「はい!」
「小松!」
「はぃ」
「佐伯!………は、えぇと」
僕の名前を呼んだ先生は、目の前にある机の端に乗っかっている立て札を確認する。
そこには、こう書かれている。
『佐伯有太 出席中』
「……いるな。はい、次。清水!」
「はい!」
もうお気付きかもしれないけど、僕は絶望的に影が薄い。
たとえ奇跡的に目が合っても気付かれないし、机に道具を出したり、それなりの音を立てても気付かれることはない。
先生は名簿に書いてある名前を読んでいるが、抜かされることもしばしばある。
今の立て札が良い例。
目の前に座っている人物を認識できていないのである。
この立て札は、僕の母親が学校に相談して校長先生が考えてくれたアイデアだったりする。
僕のこの影の薄さは生まれつきで、今までさんざん不便に思ったことや辛かったことがあった。
友達もできないし、もし気付かれたとしても幽霊のような扱いを受けたこともある。
何度、"普通"を欲したことか。
でも、僕はもう青春とかいうのは諦めている。
幸いに模試の成績は良いし、運動神経も悪くはない。
今は、直接人と接する必要のない職業を探している最中である。
僕が引きこもりにもならずに前向きに将来を考えていられるのは、僕の母親のおかげなのだ。
母親でも僕に気付くのには苦労したと思うのだが、女手ひとつで一生懸命育ててくれた。
本当に心の底から感謝していて、絶対に近いうちに恩を返すつもりで、今も僕は必死に勉強をしている。
まぁ、勉強か読書か惰眠を貪るぐらいしかすることもないのだけれど。
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四時限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、50分の休み時間に入る。
僕は、鞄の中から母親に作って貰ったお弁当を取り出すと、それを持って屋上へ向かう。
屋上への扉を開けると、まだ少し肌寒い風が僕の肌を撫でる。
4月中旬──。
校舎を囲むようにして、満開の桜の花びらが風に煽られ吹雪のように上空を舞っている。
それは僕の心を落ち着かせてくれる程に綺麗で、ここからの景色をただ黙って眺めていたいと思わせられる。
僕が屋上からの景色に魅入っていると、死角になっている端から微かな物音がした。
耳を凝らしてみると、荒い吐息が絶えず聞こえてきた。
どうやらこんな場所で、ことに及んでいるらしい。
この場で桜を見ながら昼食を取るつもりだったのに、一気に冷めた。
実はこういうことはよくある。
つい発見しても気付かれることはないけど、僕が不快な気分になるのだ。
こんな所では食事できないと、ドアノブに手を掛けた時だった。
強烈に辺りを眩い光が照らす。
何事だと、あまりの眩しさに目を細めて上空を伺うと、校舎を覆う程の巨大な図形が描かれていた。
自分でも何を言ってるんだと思う。
UFOだ!とか言う方が、まだほんのちょっとだけあり得る。
研究している人とかもいるらしいし。
しかしこれは───。
それはまるで、昔アニメで見た魔術の幾何学模様のようだった。
その図形から目を離せずにいると、信じられないことに今度は自分の体が光始めた。
こんな異常事態の中でも、髪の毛立ったらどうしようとかくだらないことを考えていたが。
その直後、なにか遠くへ引きずられるような感覚を覚え、抗えることなく僕は意識を失ったのだ。
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「ん、んぅ………」
目を覚ますと、そこには辺り一面緑が広がっており、遠くには小川も流れていた。
周りには、僕と同じ制服を着た生徒たちがいて、いくらか先生も混じっている。
ざっと見た所百人かそこらで、学校中の人がいるわけではないらしい。
「おい、咲良。大丈夫か?」
「うぅぅ。……ここ、どこ?」
「わかんねぇ。一体どうなってんだか」
「おい!起きろ、隆平!呑気に寝てる場合じゃねぇぞっ」
「ッ!?そ、草原?」
「さっきまで学校にいたよね。どうなってんの」
近くに倒れていた生徒たちが続々と目を覚まし、今の状況に戸惑っている。
目覚めた者が隣の者を起こすその繰り返しで、数分して恐らく全員が目を覚ました。
そして、今の状況に気付いて、ざわめきはどんどん大きくなって収拾がつかなくなっていく。
何人か先生もいるけど、彼らも生徒たちを落ち着かせるどころではなく、ただ呆然としていた。
逆に僕は思いの外冷静で、今を普通に受け入れていた。
昔からあまり動じたことはなく、この体質のおかげで強靭な精神力が備わったんだろうと、ポジティブに考えている。
そんなことを思いながら、右手で抱えていたお弁当箱を開けて食べていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
(誰にも気付かれない為、この状況で食うな!とかいったツッコミは入らない)
『全員、目を覚ましたようですね。それでは、簡単な説明から始めましょうか』
そう言い終わると同時に、僕らの頭上に突然人が出現した。いや、空中に現れ浮いている時点で人かどうかは怪しいが。
その人物は、清流のような青いきらびやかな髪を腰の辺りまで伸ばし、白いドレスを着ている美女だった。
その顔は異常なくらい整っており、人間味をまったく感じさせない作りをしている。
空中に浮く美女の突然の出現により、辺りはさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返る。
その美女は薄く微笑むと、その艶やかな口を開いた。
『わたくしは女神フランディーテ。異世界へ呼ばれた"アースクエイク人"100人を選別し、こうして皆様をお連れしました』