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千福恋物語

神田橋の下がり酒

作者: はががん

お酒を飲みながらお話を聞くイベントでお酒のつまみ的な感じで書いた作品です。

ぜひ飲みながら、読んでください。


神田橋近くの蕎麦屋は、近くの荷揚げ場で働く人足達を相手にいつも賑わっていた。そこで出される酒は下がりさがりざけと呼ばれ上方から船で運ばれこの河岸に荷揚げされる。人足達は酒樽を運びながら、今夜はどの土地の酒をどんなあてで飲もうか、と楽しみにしていた。

「おやじ、今日はどの酒がおすすめだい?」

「へえ、荷揚げ場に届いたばかりの伊丹酒などございますが」

「伊丹酒かぁ、いいね、じゃあそれをカンで頼むぜ」

「あと板わさ、田楽もな」

とまあ、普段はこんな会話があちこちで飛び交っているのだが、今日は連日の大雨で川が増水し船が岸に入ってこられない為、荷揚げ場は休業。そんな訳でいつもは賑やかな時間帯なのだが、今はお客がたったの一人である。

「おじさぁーん、熱いの、熱いのちょーだーい」

「福丸、いくら何でも飲みすぎだよ」

揚がり座敷の衝立の向こうから白く華奢な腕が突き出し、指でつまんだ徳利をひらひらと振っている。蕎麦屋の主人は呆れたようにその徳利を取り上げた。振るものがなくなった指先はそのまま止まった後、すとんと衝立の奥へ引っ込む。

「うーん・・・・」

黒羽織に島田髷姿、江戸辰巳芸者である。座敷では男言葉でタンカを切るような粋で評判の芸者だが、今目の前にいるのは髪が崩れてしまう事も気にせず卓に突っ伏し、鼈甲の櫛や平打ちの銀かんざしも抜け落ちそうになっている。投げ出した腕を這うように伸ばし、何度か卓の上を叩きながらぐい呑みを探す。やっと指先に当たったぐい呑みを転がすように引き寄せ、顔を上げることもなく口の端に当てると、そのままぐいぐい飲みほした。とてもじゃないが、こんな姿をおかあさんに見られたら、怒られるどころの話じゃないだろう。

「どうしたんだい?着替えもしないで仕事帰りだろう。来てから半刻もたっていないのに、一升あけちまってるよ」

「いいのー、この店のお酒は美味しいんだもん。まーだまだ飲むからね」

「あーあ、やめときなよ。まったく一体何があったんだい?」

「それ聞く?おじさん、それ聞く?」

「な、なんだい」

「あのねー、浅間町の辰次の野郎がねー、藤田屋のお嬢さんと所帯持つんだってさぁ」

浅間町の辰次とやらを知らないが、浅間町のという所を聞くと大工か職人だろう。藤田屋というのは今江戸の若い子に人気の小間物屋だから、そこのお嬢様といい仲になるのなら、きっと飾り職だろう。

「いやあ、そうだな。そればっかりはやっぱり仕方がないんじゃないかねぇ」

「分かってるさ。所詮あの野郎と私はただの馴染みの客と芸者の間。お座敷以外で会ったこともない。分かってる・・・・だから、こうやって一人で飲んでるんじゃない」

だんだん潤んで行く声色を押し殺すようにぐい呑みを口に流し込み、飲み干す。空になった器を卓に乱暴に置いて、まただらりと手を投げ出した。

「おじさーん、もう一本!」

「仕方がないね・・・」

芸者が客に本気で恋をしたところで報われないというのは、福丸本人が一番分かっている事だ。主人は大きくため息をつくと酒を取りに奥へ戻って行った。福丸はぼんやりと手の先にあるぐい呑みを眺めた。ぐい呑みは白地に青い柄。白いな、色が白い・・・・・辰次も色が白かったなぁ。色は白かったけど、お酒を口に運ぶときに袖から覗く腕がすごくたくましくて、それが見たくてどんどんお酒を勧めていたんだよね。ちょっと猫背で、話はうまかったけどいつも伏し目がちで、たまにしか目を合わせてくれないのがまた待ち遠しくて・・・・・。なにさ・・・・い ろいろ思い出したら、なんだか腹が立ってきた!

「あー、もうー、辰次のばかやろー!」

その時だった。

「すまんな、辰次じゃなくて」

ゆったりとした声が降ってきたと思うと、大きな影が自分の覆いかぶさった。

(何?)

見上げると、微笑む一人の若い武士が自分の眼の前に座るところだった。

「ちょっと・・・・だ」

「(声を潜めて)ねえさん、名前は?」

「ふ・・・・福丸」

「(普通に)福丸ー。なんだよ、ちょっと来るのが遅かったからって、他の男の名前なんか叫ぶなよ」

あんぐりと口を開け、武士の顔をまじまじと見る・・・・お座敷?馴染みのなじみ?この蕎麦屋の客・・・・どこからどうたぐっても知らない顔だ。

「おやじ、適当に酒とつまみ持ってきてくれ」

「へえ」

主人は奥から返事だけ返した。おじさん、ちょっと!おじさんの知り合い?知り合いなら誰か言ってよ。この人は、誰?

「ちょ、ちょっと・・・・」

武士は言葉を遮るように福丸の腕を押さえた。・・・何?それで誰?

「(声をひそめて)私の名前は伊野千之助という。すまないが、しばらく馴染みの振りをしちゃくれないか?」

「あの・・・」

「誰かに後をつけられているのだ」

確か今日は、かわいさ余って憎さ百倍の浅間町の辰次とお座敷で会って、他の女と所帯を持つという事を知って、そのままこの馴染みの蕎麦屋に飛び込んで、なんでもいいから酒をあおって酔いつぶれて忘れてやる!はずだった・・・はずだったのに。なのに飲み始めてから一時も過ぎないうちにもう酔いが覚めてしまった上、知らないお武家さんの顔をただただ瞬きを繰り返して見つめている。そんな様子に千之助はいたずらっ子のようにニタリと笑った。

「心配するな、ここの酒代は私が持つから」

「そういう事じゃなくて・・・」

「頼む・・・・」

もしかして何かすごく面倒な事に巻き込まれたのでは?この人は何?それで結局誰なの?と聞きたい事は山のように頭に浮かんだが、その切実なまなざしを受けてしまっては、何も言えなくなってしまう。とりあえず、福丸は千之助の目を見ながら小さく頷いた。

「(普通に)で?誰なんだ?辰次ってのは?」

「え、えっと・・・馴染みのお客さんよ、ただの馴染み」

「本当か?」

「嘘言ってどうするのさ。小間物屋のお嬢さんと所帯を持つんだそうだよ。ずっと隠してたんだから、腹も立つってもんさ」

「なんでただの馴染み客が所帯を持つって分かって、腹が立つんだ?」

「私だけに隠してたんだんだよ。私以外の馴染みの旦那さん、お茶屋のおかみさん、妹分芸者まで知ってたのに!」

「ああ、なるほどな」

「お座敷の最中に!世間話みたいに!みんなもう周知の事実で話してるの。福丸ももちろん知ってるでしょ、って具合さ」

「そりゃ、辰次もお前の事が好きだったんだな」

「え?」

「だから伝えられなかったんじゃないか?お前にだけさ。だから、みんなでお前にそういうていで伝えたんだよ、きっと」

不覚にも胸が跳ねてしまった。『辰次がお前の事が好きだったんだな』と言われた事にではなく、『お前』と呼ばれた事に、だ。

「そ、そうなのかな・・・・」

ちょっと落ち着いてきた福丸は、改めて目の前にいる千之助と名乗る武士の様子を眺める余裕ができた。真上に下げられた八間行灯(はちけんあんどん)の灯りでやっと見える程度だが、歳は三十前後、きりりとした太い眉毛に捉えられたら放さない力強い目。髷も月代も綺麗に整えられているから、いい所の家柄で浪人ではなさそう。それに・・・なかなか男前じゃないか。福丸はちょっとからかってみたくなった。

「妬けちゃった?」

すると千之助も、ニタリと笑い返す。

「妬けるね」

『後をつけられている』なんて随分と物騒な事を言う割には、今このお酒の場を楽しんでいるように見えるけど。本当に本当なの?それともやっぱりからかっているだけなの?

「はい、どうぞ」

「ありがとうよ」

酒とつまみを持ってきた主人は、相変わらず千之助が最初からここにいたような振る舞いをしている。やっぱり伊野・・・様はおじさんの知り合いなのかな。何か言うかと期待して、主人の顔を覗き込んでみた。温和な声色とは裏腹に主人の顔つきが幾分鋭くなっている。そして注文の品、何か走り書きをした紙を置いた。千之助は酒を注ぎながら、目線だけでそれを見た。福丸も卵焼きを食べるふりをしながら、紙を見る。

『店の前、防火用水の裏に2人。裏口に3人。囲まれている』

どういう事なの・・・・おじさん?おじさんって!・・・もしかして、おじさんも何か知ってるの?再び奥へ戻ってゆく主人の背中を追いながらますます不安が募って行った。

「(声をひそめて)ねえ、私大丈夫?」

「何がだ?そりゃ福丸は酔っ払って化粧がはげても綺麗だぞ」

「はぁ?」

 何が起きているかぐらい、知りたいじゃない。何よその答え!さすがの福丸も言い返してやろうと息を吸い込んだ。すると今度は手首を掴んで黙らせ、福丸の手を握ると表に返す。それからもう片方の手を伸ばし、手のひらに指を滑らせてきた。今度は何しようってのさ!

『だ・い・じ・ょ・う・ぶ』

『大丈夫』って、言ってる。意味が分かった福丸は吸った息を吐くのも忘れ、千之助を見つめる。千之助は表情を変えないまま、同じように福丸を見つめる。

「まだ飲むだろう?」

「え、ええ・・・・」

また手のひらに伝わってくる。

『わ・た・し・を・し・ん・じ・ろ』

 千之助を見つめる、千之助も福丸を見つめる。

 もう伊野様を信じるしかなさそうね。ここで腹を決めなきゃ辰巳の芸者の名が廃るわ。

「(一気に注がれた酒を飲み干し)はあっ、おいしい!」

「おお、いい飲みっぷりだねぇ。で?どんな奴だったんだよ、その辰次ってのは」

「見た目はー、絵に描いたようなイナセな男。本当、絵から出てきたのかもね、あいつ。遊びは芸の肥やしってよく言ってて、お座敷にもよく来てたの。飲みっぷりは見事だし、金の使い方も粋でねぇ。そりゃあいつに惚れない女は誰もいないわよ。でもね、本当は真面目なのよ、お座敷に足繁く通うのは芸者衆のかんざしや帯どめを見る為だったり、作ったものを試してみたりする為だったの。それを知ったらねぇ、余計情が移っちまったのさ」

「ほう、俺も会ってみたいな」

「そうでしょ!そうなのよ。でね・・・」

気がつけば、福丸は辰次ののろけ話をとりとめもなく話していた。千之助もそれを楽しそうに聞いている。酒も注いだり注がれたり、だし巻き卵も1つを箸で2つに分けて食べあったり、普通に笑いあったり・・・・・。お座敷で飲むのとは違う、本当に知り合いと心置きなく飲んでいるような気分だ。

「千さんは、いい人いないの?」

「いい人がいたら、こんな所でお前と二人で飲んでる訳ないだろ」

「じゃあ、私がいい人?」

「そうだな・・・今のところ、な」

「もう!」

その時、横の壁からコトンという音がした。外から聞こえてる。そうだった、千さんは誰かにあとをつけられているんだった・・・。福丸の言葉が止まり、温まっていたその場の空気がまた空寒い物に変わってしまった。

「はぁ・・・福丸、そろそろ出ようか」

「え?」

千之助は福丸の手を取って立たせながら耳打ちする。

「時間をかけて穏便にやり過ごそうと思っていたんだがな。もう私も我慢の限界だ。かたをつけるから、もうちょっと辛抱してくれ」

「はいよ」

 何があっても千さんを信じる。そう決めたんだから。

引き戸を開けた千之助は霧雨が残る空を見上げ、傘を開いてもう一度福丸の手を取った。福丸は提灯を1つ手に持つ。引き寄せられるまま傘の中に収まると、無言で仙之助を見上げた。千之助は大きく口に弧を描き笑いかけると、福丸の背中に手を回した。そのぬくもりだけで何も不安は感じなかった。

二人は漆黒の夜に足を踏み入れた。

神田橋の近くまで来た時である。四方の物陰から様子を伺っていた数人の武士が二人を取り囲んだ。千之助はゆっくりと回りながらその顔を見渡す。福丸が見えたのは人影で6人。それ以外はどんな人であるかも分からない。自然と千之助の裾を掴む手に力が入る。

「伊野千之助、だな」

「そうだとしたら?」

「お命頂戴!」

お、おいのちちょーだい??普通もっと穏便な話し合いがあって、致し方なくそういう事になるもんじゃないの。

一斉に刀を抜く音がする。

「なるほどな、そう来たか」

 動じる事もなく千之助はゆっくりと橋の上に移動すると、福丸に傘を渡した。

「すぐ済む。そこで見物してろ」

相変わらずの笑顔を福丸に残し、ゆっくりと敵の方へ進む。福丸は懸命に提灯でその背中を照らした。

「お覚悟!」

1人が千之助に飛び掛ると、千之助の右腕が振り抜きざまに相手の胴を直撃した。即座に二人が上から下から切り掛かる。体勢を高くした千之助は下から切り掛かった者を半身でかわし、上から切り掛かった者の剣を受けるとがら空きになった胴を足で蹴った。そして、倒れこんだ所を柄で一突き、抜きざまに反対方向にかわした者の首根っこも刀の腹で打った。

 こんなに暗いはずなのに、前で起きている事がものすごくゆっくりと見えていた。飛び掛るのもそれよりも早く動いて相手を倒す千之助の、手を伸ばすしなやかさ、身をかわす度にヒラリと揺れる袖、次の相手を見据える目の動きまで・・・・福丸は舞を見ているような気分で文字通り見物をしていた。

気が付けば、あっという間に千之助の回りには人が倒れていた。パチンと音を鳴らして、刀を鞘に納める。

「さあって福丸。戻って飲み直そうか」

振り返って、微笑む。そこには電光石火のごとく敵を倒した男の殺気はどこにもない。そのまま自分の方へやってきたので、あわてて傘を差しだすと、千之助は福丸の手に手を重ねて、傘を受け取り、一緒に収まった。

「ねえ」

「ん?」

「一体何をしたの?おいのちちょーだいって・・・・・」

「なあ、いきなり過ぎだったな」

「もしかして、千さんって、身分のあるお方じゃ・・・」

「福丸」

 顔を上げると、千之助は自分を覗き込むようにして見つめていた。それでなんで私も千さん見つめちゃってるんだろう・・・お酒がまわってきたかな。すっかり見慣れたニタリとした笑顔を作り、千之助は福丸の肩に手を回す。

「それは今からゆっくり聞かせてやるよ」

やっぱりこの人男前だ。ところで今日はなんでこんなにお酒飲んだんだっけ・・・。まあいいか。

福丸はそのたくましい腕に埋まるように、千之助の胸に頬を寄せたのであった。


終わり

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