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プラスティック・アイ

作者: AK



◇ ◇ ◇


 キツネさまは目を細め、こがねいろの耳をパタパタふって、心の底を見透かしたようなすごくいじわるな笑みを浮かべた。実際そのとおり。キツネさまにはだいたいのことはお見通しなのだ。からかうときのいつもの口調で、キツネさまはいった。つまりおぬしには、そのとびきりの浴衣を着飾った姿を、見せてやりたい「誰か」がいる。そういうわけじゃな?

 キツネさまの言葉に、チナミは顔を真っ赤にして口をつぐむ。目が泳ぐ。汗がにじむ。

 ひと気のない林の中にふたりの少女がすわっている。古びた祠を背に、盛りあがった樹の根方へならんで腰をおろしている。木漏れ日は届かず、地面はわずかに湿っている。終始鳴りやまない重層的なせみの声に、ふたりの声はかき消されている。誰にも届かない。交わされる言葉は、だからふたりだけのものだ。

 それでもチナミはうろたえる。言葉を見失う。たいせつに隠していた秘密を、ほかの誰かに知られてしまうことを恐れるかのように。言葉にすることで、それが無条件に空気中へと拡散されてしまう。そんなことを恐れるかのように。チナミはキツネさまの裾をつかむと、哀願するようなうるんだ目で訴えた。なにかいいたい。でも感情は足を引っ張るだけで言葉を作らない。キツネさまは小気味よくわらった。

 よいよい、だいたい想像はつく。キツネさまは中指の第二関節でチナミの額を小突きながらいう。おぬしの好きな相手なぞ、おぬしがわざわざ声に出さずともよーくわかっとる。隠しても無駄じゃ。それはもうじわじわと滲んでおる。ともあれ、要はそいつに見せてやりたいんじゃろう? 自慢の晴れ着姿を、なんとしてもおぬしの恋い焦がれるヤナギめに見せてやりたい。そういうことなんじゃろう?

 なんで名前をいっちゃうの!?

 チナミは立ち上がって絶叫する。顔がもう一段階赤くなる。キツネさまはいかにも楽しげにわらう。その甲高いわらい声の向こう、せみの声の隙間をぬって、神楽の練習の音が遠く聞こえる。

 いきりたつチナミをなだめつつ、そしてそんな楽器の音に耳を反応させつつ、キツネさまは悪だくみの相談のように低いささやき声でいった。まあつまり、勝負のときは来週、というわけじゃな。

 チナミはしばしまごつきながらも、ふるえる両手を組み合わせ、そしてちいさくうなずいた。

 夏祭りは一週間後に控えていた。

 けして広くはない境内に、その日ばかりはたくさんの人間があつまって大騒ぎをする。もともとは数百年前の疫病に端を発する祭事だが、それを知るものはもう少ない。屋台が出て、山車も引っ張りだされ、河原から打ち上げられる花火がフィナーレを飾る。取り立てて特別ななにかがあるわけでもないが、晴れやかな出来事の少ないこの町の貴重なイベントのひとつだ。

 大人たちにとっても、子どもたちにとっても。

 知っておるか。つり目がちの目を細めてキツネさまは人の悪い笑みをうかべる。この夏祭りには毎年たくさんの恋人が生まれるのじゃ。実に多くの人間たちがここでアイを告白する。狙い目は境内の裏か、打ち上げ花火の最中じゃな。成功率は悪くないのではないか? 毎年何組ものつがいがこれを機に成立しておる。ま、そのほとんどが半年もしないうちに別れるわけじゃが。

 その最後の言葉に、チナミの表情がこわばった。

 表情の変化をとらえ、キツネさまは覗きこむようにチナミを見あげる。探るように、確認するように、言葉を加える。どうしたチナミよ、おぬしは臆病で引っ込み思案なわらわなので、告白などという大それたことはできないだろうから、関係ないと思うが、な?

 小刻みに揺らいでいたチナミの視線が、ふいに力をもってキツネさまを見返す。その鮮やかな反転にキツネさまはちいさく驚く。ううん、告白するよ。チナミはいつになく力のこもった声でいう。わたしは来週の夏祭り、ヤナギくんに告白する。

 一体全体どうしたのじゃ。困惑げな表情を浮かべて、でも内心はしっかりと面白がって、キツネさまはたずねる。おかしなことじゃ、まるでいつものチナミらしくないぞ。

 チナミはおおきな深呼吸を二度したあと、いくぶんひくい声で静かにしゃべり始める。二学期が始まる前、ヤナギは別の県に引っ越してしまう。親の仕事の関係、だって。急に決まったんだって。淡々と感情を抑えて話すその声音に、もうずいぶん気持ちの整理のために時間を使ったということが見て取れた。最近あまり遊びに来なかったのは、そのためだったのかとキツネさまは納得する。だからね。チナミは不思議なほどさっぱりとした声でいう。だから会えなくなる前に、自分の気持ちを、ヤナギくんにちゃんと伝えたいと思う。伝えることができたら、それだけでいいんだ。

 近くのせみが鳴くのをやめる。キツネさまは慈しむような目でチナミをひとしきり眺めた、そのあとで口の端をゆがめ、結構、といった。結構結構。想いを伝える、よいことじゃ。すばらしい。うむ。その勇気を賞賛するべきじゃろう。わしとて邪魔したり揶揄したりするつもりなど毛頭ない。その舞台にここを使ってもらえることは控えめにいってたいへん喜ばしい。陰ながらこの場所を守りつづけてきた甲斐があるというものじゃ。

 しかしじゃ、とキツネさまは続けた。おぬしの話を聞いておるとどうにも腑に落ちん。気もちを伝える、それは結構。じゃがその場がここでなければならない理由はなにかあるのか? 来週でなければならない理由はなにかあるのか? 夏祭りを待たずとも、いますぐデンワで伝えてもいい。便利な時代じゃな。そうでなくとも、家を訪ねて直接話してもいい。出かけるところを見計らって話しかけてもいい。なんでもいい、方法はいくらでもある。チナミよ、なぜそれをしようとしないのじゃ?

 再び顔を赤くしてうつむくチナミ。切れ切れの、不明瞭な言葉は形をなさない。指先がまた小刻みにふるえ始める。

 キツネさまは演技的におおきくため息をついて見せ、そんなんじゃどーせふられるわな、と低くつぶやいた。

 本物の痛みが生じたみたいにチナミの顔がゆがむ。鋭い感情が走る。何か反論しようと口を開くが、結局なにも言葉にならない。涙がもう少しで瞳からこぼれ落ちそうになる。気の毒なほどの振幅で肩がふるえる。うちのめされている。

 そんなチナミの肩をキツネさまはやさしく抱きしめる。そして問いただす。チナミよ、おぬしは想いを伝えるだけでほんとうに満足なのか?

 確かめるようなながい時間のあと、静かに首を振るチナミ。

 ヤナギめにとびきりの浴衣姿を見せたいのは、少しでも勝算を上げたいから。そうじゃろう?

 うなずくチナミ。

 これでもう会えなくなるなんて絶対に嫌だ。そうじゃろう?

 うなずく。

 すなおでよろしい。キツネさまは満足げに微笑むと、立ち上がり軽快に大樹を駆け上った。せみが数匹びっくりして飛び去った。枝にまたがったキツネさまは高らかにわらった。恋するチナミよ、よかろう、夏祭りにヤナギめに告白をすることを認めよう。だが振られることは許さんぞ。精一杯おめかしをしておくことじゃ。とびっきりの浴衣を身にまとってな。告白をするためのお膳立てはわしがぞんぶんにしてやろう。任せるがいい。

 じゃがもちろん、見返りはきっちりもらうことになるがのう?



◆ ◆ ◆


 ふいに右手を差し出して彼女はいった。ね、プラスティックに見えるでしょ? 色白でなめらかなその肌は合成樹脂めいているといえなくもない。触れてみるともっとよくわかる、と彼女はいった。でも僕は断った。運転中だから。彼女はなおもしばらく右手の位置をキープしていたが、やがて音もなく引っ込めた。

 また沈黙が戻った。奇妙に張り詰めた空気は相変わらずだ。前方の車両に追いついて車は止まる。蕾雨はなにもいいださなかった。日は沈み、青くまだほの明るい夕闇のなかに赤いテールランプの光が列をなす。それが先のほうから順番に消え、再び車が前進をはじめたところで彼女はまた口を開いた。

 体がね。声はまどろんでいるように低くなめらかに響く。どんどんプラスティックに変化しているみたいなんだ。少しずつ、着実に。

 僕はただひたすら意図がつかめず、返す言葉を見つけられない。

 でもときどき思うんだ。自分の指先を眺めながら彼女は続ける。それはそれで悪くないかもって。ひんやりして、かたちも崩れなくて。わたしが心配しているほど、それは悪くはないんじゃないかって、思い始めてる。プラスティックのからだというやつは。

 なにかいわなくては。焦燥感に駆られた僕は、ふと頭をよぎったささやかな知識に逃げ込む。プラスティックのもともとの意味は、可塑性、つまりかたちを変えられることにある。金型があって、そこに原料を注ぎ込めば、そのかたちにおさまるということだね。だからかたちが崩れないというのは語源的にはただしくない。もちろん製品としての合成樹脂のこと、プラスティック製品ということであれば、かたちが変わらないというのはその通りではあるんだけど。

 僕の言葉を最後まで聞き、彼女は嘲笑的なかわいたわらい声とともに短くこたえた。さすが先生は、森羅万象いろんなことをよく知ってらっしゃる。

 僕は口をつぐんだ。

 居心地の悪い沈黙のあと、彼女はその空気をさらに冷やすことをいった。クラスの連中にね。プラスティックってあだ名をつけられてるんだ。僕の視線に構わず彼女はつづける。わたしには人間味がないんだって。だから他人の感情も理解できないし、表情もかたい。もちろん面と向かっていわれることはないけど、でも、陰口というのは伝わるものだから。

 くだらない。僕は即座にいった。彼女は酷薄な笑みをうかべたが口は開かなかった。僕は間を置いてから言葉をつづけた。くだらない連中の悪口なんて無視すればいい。影響されることなんてない。君に人間味がないなんてデタラメだ。確かに表情はかたいけど、でもそれは、感情がないということじゃない。僕はよく知っているよ。君はどんな意味合いにおいても、プラスティックみたいなんかじゃない。

 ほんと? からかうような口調で彼女はたずねる。へえ、ふうん、わたしにはちゃんと人間味がある?

 もちろん、僕は力をこめてこたえる。

 人間味があれば。いたずらっぽいわらい声を交えて彼女はさらにたずねる。わたしにも小説が書けるかな?

 小説? 予想外の言葉にうろたえて僕は言葉をにごす。いや、どうだろう。よくわからないけど、別にそれは関係ないんじゃないかな? 小説を書いても、書かなくても、それはなにも意味しないと思うけど。でも、どうして? 彼女は楽しげにわらって、そしてそれ以上はなにも追及しなかった。

 また、前の車に追いついて停車した。停車する車の列ははるか先までつづいている。

 時計を見る。渋滞はまだしばらく抜けられそうになかった。七時には間に合わないだろう。

 間に合わないかもしれない。僕がおそるおそるそうつぶやくと、予想に反してどこか楽しげにさえ聞こえる声で彼女はつぶやく。わたしたちは、拒まれているのかもね。

 拒まれている。僕はその言葉を繰り返す。そしてたずねる。誰に?

 神さまに、と蕾雨はこたえる。静かに、でもどこか根の張った印象の声で。僕はなにもいわなかった。

 比重の重い沈黙がまた車内にしのびこむ。僕らはふたりとも的確な言葉を取り出せずにいる。聞きたいことはたくさんあったし、それはまた聞くべきことでもあるはずだった。新しい学校はどう? うまくやっていけてる? 友だちはできた? 担任の先生はいい人? 嫌なことがあったら、ちゃんと相談できている? でも僕は踏み出せなかった。何もかもを地続きのままにしておきたかった。昼過ぎに唐突に僕の部屋へ訪ねてきた彼女を、僕はどこか予期していたようでもあった。

 夏祭りにいきたい。玄関の前に立つ彼女はまず最初にそういった。「久しぶり」のひと言もなかった。なつかしい、命じるような口調でつづきをいった。だから車を出して。

 了承して車の鍵を取りに部屋へ引き返すとき、僕はほんとうにこの一年間の空白をなかったもののように錯覚していた。まるでこれがあの夏の日のつづきででもあるみたいに。もちろん、目の前の彼女に変化はあった。背が伸びて少し痩せた。顔立ちはやや大人らしくなった。挑むような目の鋭さはずいぶん落ち着いた。それはこの一年間が確かに存在した証だった。僕がいないところで彼女は成長した。その変化から僕は、恣意的に目を背けているだけだった。

 そしてもうひとつ、違いがあった。過去の彼女にはなかったもの。彼女に似つかわしくないその鮮やかな姿に、僕は最初から目を引きつけられていたはずだった。それなのに僕は、そのことさえなかったことのように保留していることに、いまさら気づいた。

 いい忘れてたけど。粘性のある空気を突き破るように、僕は決意して口を開く。その浴衣、すごくキレイだね。花火の柄? とてもよく似合ってるよ。

 ゆっくりと車が動きだす。ありがとう、と少し遅れて彼女はいった。視線は窓の向こうを向いていた。内向的な、硬質な声で低くつづける。とびきりの浴衣だから、たとえお世辞であっても、そういってもらえて、嬉しいよ。



◇ ◇ ◇


 ざわめきは木々を通してここにも届く。境内での祭事はすべて終わって、七時開始の打ち上げ花火を待つ人の群れが参道を満たしている。子どもたちの甲高いわめき声、屋台の熱せられた鉄板が甘辛いソースを焦がす音、砂利を踏む膨大な数の靴音、笛の音、酔った笑い声、ロケット花火の発射音、百を超える話し声、それらが一体となった圧力は、林の奥のひと気のない祠の前であっても人知れず作用している。

 浴衣を着飾った少女がふたりならんでいる。ひとりはうずくまって下を向き、もうひとりは呆れたように腕を組んでその姿を見下ろしている。

 なんどもいうがここを出ない限りはヤナギには会えないぞ。腕を組む少女が険しい顔で警告する。ここは誰でも来られる場所ではない。やつをここに連れてくることはできん。だからここにいてもなにも始まらん。

 わかってる。青い顔をしたチナミはかろうじて声を出す。わかってるよ、でももう少しだけ、もう少しだけ待って。こんなに人がたくさんいる場所に出てくるのは、ひ、久しぶりだったから。なんだか体がふるえちゃって、動けなくて。

 情けない。友だちもできんわけだ。大仰なため息をついてみせてから、少女は手を差し出す。ほれ。手をつなげ。しっかりと握ってやる。そうすれば不安も少しはまぎれるだろう。

 チナミはうなずいて、ふるえる指先をおそるおそる伸ばす。その手を握りしめる強い力を感じた瞬間、ぐいと引っ張られて立ち上がる。よろめいて間近にせまった少女の顔は不機嫌そうで、でもその表情に似つかわしくないことをいってチナミを励ました。さすがとびきりの浴衣というだけのことはある、よく似合っている。自信を持っていいぞ。

 でも、派手すぎないかな?

 本物の花火に負けるわけにはいかないだろう? 少女は背後の空を振り返って肩をすくめた。このあとチナミは、夜空の花火よりももっとはっきりと、ヤナギの印象に残らなければならない。

 顔を赤らめるチナミに、少女はささやく。さあ、ゆくぞ。誘導してやるから、目を閉じていればいい。ゆっくりと足を前に進めるだけでいい。自分の足が地面を踏みしめる音だけを聞け。雑音に気を取られるな。迷妄にとらわれるな。自分がなにをしたいのかだけを考えろ。見たくないもののことは考えるな。そう、そうだ。ゆっくりと前に進む、それでいい。恐れることなどなにもない。失敗したらなどと考えるな。大丈夫、チナミは祝福されているのだから。

 大丈夫、わたしは祝福されているのだから。

 そして名前を呼ぶ声が聞こえる。チナミは振り返る。心臓は違う仕方で鼓動を早める。やっぱりそうだ、偶然だな。覚えのある声、ずっと心の中で繰り返していた声が、自分に向けられている。

 のどがカラカラで声なんて出ないと思っていたのに、とっさの返事はつかえることなくチナミの口を出る。ヤナギくん、こんばんは。ヤナギくんもお祭りに来てたんだ?

 目の前の少年はああ、と返事をして腕を掻いた。雑踏の中、当惑げに視線をそらせ、そしてまたチナミを見つめる。友だちと来たんだけど、はぐれた。伊澤もひとりか?

 チナミは周囲を見渡すが彼女の姿はない。指先はなににも触れてはいない。静かに納得して、困った笑顔をヤナギに向ける。わたしも友だちと来たんだけど、はぐれちゃったみたい。でも別にいいんだ。あとは花火だけ見て帰ればいいし。

 じゃあいっしょに見ていかないか、とヤナギはいった。いい場所を知ってるんだ。よかったら案内するよ。その言葉をチナミは、かすかな既視感をともなって聞いた。だから過度な動揺はしなくてすんだ。ひと呼吸おいて、意識的な微笑みを浮かべてチナミはいった。うん、ありがとう、ついていくよ。

 ヤナギは歩き出す。その後ろをチナミは追う。

 大丈夫、わたしはちゃんといえる。心の中でチナミは繰り返す。この足がとまったらいう。ちゃんと気もちをつたえる。もう何べんも練習してきた文言を一字一句そらんじる。それですべては完了する。大丈夫、わたしはちゃんといえる。足がとまったらちゃんという。大丈夫、わたしは祝福されているのだから。

 無意識にヤナギのシャツの裾をつかんでいた。違和感に気づいて振り返るヤナギと、目が合う。どうかした? 中立的なヤナギの表情に、チナミの頭は一瞬で真っ白になる。な、な、なにが? 自分がヤナギの裾をつかんでいることに、ようやく気づく。あわてて離す。ふたりとも足はとまっている。

 なにかいいたいことでもあった?

 ヤナギは穏やかに微笑む。この表情だ、とチナミは思う。わたしが大好きなのは、この表情だ。

 なんでもないよ、とチナミはこたえる。少し困ったようにわらって、言葉をつづける。ただちょっと、人ごみに目がまわって。ふらっとしちゃったみたい。

 大丈夫か? ヤナギは眉をひそめてそうたずねる。大したことないよ、と取り繕うチナミに手を差し出し、ぎこちなくではあれヤナギはつたえる。よかったら、手をつなごう。人ごみがしんどいなら、目をつむってもいい。おれがちゃんと誘導するから。

 でも。チナミの顔はもう赤い。わたし、てのひらすごい汗かいてるよ。

 まあ、おれもだ。そういってヤナギは苦笑する。ほら。見てみろよ。触れてみるともっとよくわかる。

 ありがとう、そうこたえてチナミは差し出された手を握る。不思議と周囲の雑音の音量が一段階、静まったように錯覚する。引っ張られる強さにほっとする。厚さのあるてのひらの熱にほっとする。さっきより近くなったヤナギの存在にほっとする。わたしは祝福されている。

 でも。

 ヤナギくん。先をいくその背中に声をかける。再び立ちどまるヤナギ。再び出会う視線。少しだけ目を細めてヤナギはたずねる。どうかした? 心臓が鼓動を早める。大丈夫、ちゃんといえる。いえる、いえる、いわなければ。チナミは口を開く。そして遅れて声が出る。ヤナギくんは、あとどれだけ、いつまで、この町にいるの?

 ヤナギは視線をそらす。そしてなにかを考える短い時間のあと、チナミのほうを向いて口を開く、その瞬間、離れた場所でふいに歓声が沸き上がる。つづいて野太い口笛のような発射音のあと、湿った空気の破裂するにぶい音が上空に轟いた。七時。色とりどりの火が整然と球を描く。始まっちゃったか。そうつぶやいて、ヤナギは握りしめる手の力をさらに強める。いこう。話はそれからだ。

 引っ張られる。駆け足に近いけれど、でも無理な速度ではない。連続して花火の打ち上げられる甲高い音が夜の空気を貫き、爆発する。そのたびに拍手や叫び声があちこちで起こる。数多くの新鮮な視線が鮮やかな夜空へ向けられる。みんなが熱狂する。大声で騒ぐ。でもチナミの視線は、相変わらずヤナギの背中に固定されている。みんなの関心の埒外にふたりは向かう。誰もふたりの姿に目を向けない。

 もう、人ごみなんて関係ない。

 やがてふたりは林の中へ入り、なだらかな傾斜をのぼる。まわりには誰もいない。喧騒も遠い。あそこだよ、とヤナギはいう。昔の石段の名残だろうか、いびつではあるが四角く切り取られた石の塊がみっつ、勾配にならんでいる。その場所から振り返ると、空を閉ざしていた樹々の梢の葉叢が開け、大きく漆黒の夜空を覗かせている。

 そしてそこへ大ぶりの華が咲く。

 次々と破裂音を響かせて開くたくさんの花火が見える。赤に、青に、黄に、緑に。間近に大きく、空気の震えもここには届く。

 いい場所だろ。石段に腰を下ろすよう身振りで促して、ヤナギは誇らしげにいう。ここのほうが河原に近いんだ。視界は開けてないけど、花火を見るには十分だ。人ごみが苦手でも、ここならじっくり見られる。

 うん、とチナミはつぶやく。握った手はまだ、つながれたまま。

 もっと早くいおうと思ってたんだけど。あいたほうの手で腕を掻きながら、ヤナギは訥々としゃべり始める。引っ越し、実はしなくてよくなったんだ。

 振り返るチナミ。ヤナギの表情は、恥ずかしげに強張っている。

 親父の転勤が短く切り上げられることになって。ヤナギはどこか腹を立てたように口早にいう。三年以上ってのが、急に半年になって、そのあとはまた、ここへ戻ることになって。だったら単身赴任でいいやって、まあそれはそれでいいんだけど、でもさ、あんなにお別れ会とか最後の挨拶とかいろいろあったのに、普通にまた二学期から同じ学校に戻るんだよ。わらえるだろ。

 それって。チナミはまだ自分が聞いたことが信じられない面持ちでたずねる。二学期からもまたヤナギくんと会えるってこと?

 重い爆裂音が空気を震撼させ、連続的なしだれ柳の山吹色が無尽蔵に夜空を飾る。昼間のような明るさの中で音が消え、ヤナギの唇の動きだけが目の前に提示される。そして苦笑する表情。それだけでチナミには十分つたわる。体の奥がじんわりと熱を持ち、浮遊感に縛られる。

 握りしめる手に力がこもる。

 火薬の咆哮はまだつづく。音と光は夜の闇に抵抗する。耳を突く爆発は隙間なく塗りつぶされいつまでも鳴りやまない。そして轟音の中に形を変えた静寂があらわれる。あらゆる物音がひとつに溶け合い、声はその中で無力になる。チナミは口を開く。精一杯声を張り上げる。用意していた文言を一字一句丁寧になぞる。視線は夜空を向いている。おそらくはヤナギも。色とりどりの火を眺め、その消滅と新たな発生を確かめながら、チナミは光に吸い込まれる言葉をただ一心につむぐ。

 やがてあっけないほど、光も音も急速に消える。最後の破裂音のあと落下する光の粒は貪欲な闇に飲み込まれ、そしてすべては消滅する。目の前にはもう、茫漠な無音の闇がたたずむだけだった。遠くで喝采が沸き起こる。昼のように明るませていた光は、いまはどこにもない。

 なあ。取り戻された暗闇の中でヤナギがたずねる。伊澤、さっきなにかいった? 音がうるさくてよく聞こえなかったんだけど。

 うん。チナミはこたえて、そして困った顔でわらう。でも、別にいいんだ、聞こえなかったならそれで。だって、二学期になってもまた会えるんでしょ?

 だからいまじゃなくていい、とチナミはこたえる。吸い込む空気の中にかすかな硝煙の匂いを嗅ぎ取る。あの光と轟音が確かに存在したことをもう一度思い出して、チナミは静かにいう。また会えるなら、いまじゃなくてもいいんだ。いまじゃなくても。



◆ ◆ ◆


 花火の音が遠く、鈍く、ここまで届く。

 車は相変わらず動かない。花火は上がっているはずだが建物に阻まれて夜空にはわずかな痕跡も確かめられない。連続的に繰り出される炸裂音だけが空虚に僕らの耳を震わせる。

 始まっちゃったね。彼女はささやくようにいう。その声音にはほとんど感情らしきものがこもっていなかった。淡々と、ただ事実のみをつたえている。

 間に合わなくてごめん、と僕はいった。彼女はちいさくわらった。先生のせいじゃないよ。まっすぐに手を伸ばし、透明ななにかを支えるようなポーズをとってつづきをいった。わたしがいけないんだ。わたしが拒まれているから。プラスティックで出来たわたしには、夏祭りも、花火も、みんな、すぎたるものだったんだよ。

 だから君はプラスティックじゃない。僕は感情的に反発する。声を出したあと、そのトーンの強さに自分でも驚いたがなにか言葉を足して語調をやわらげることはしなかった。彼女もすこし驚いたふうだった。でもすぐにまた冷笑的な表情を取り戻して静かにいった。それはね、先生。もっとわたしのことをちゃんと見ないからだよ。わたしの本質を知れば、知るほど、わたしの体がプラスティックでできていることを、理解できるようになる。

 そして彼女は小物入れの中から携帯電話を取り出して、指で画面を操作し始めた。彼女が携帯電話をもっていることは意外だったし、いままでの長い道のりの中でも、一度も取り出すことはなかったはずだ。どことなく落ち着かない気分でいる僕に、彼女は目を合わせてわらいかける。先生、目だよ。わたしの目をもっとよく見てよ。わたしの目が一番、プラスティックみたいだっていわれるんだよ。

 目? 僕はあわてて視線をそらす。そしてつぶやく。別に、そうは思えない。

 ちゃんと見ないから。

 ちゃんと見てるよ。僕はまた自然と語気を強め、そしてすこしだけ間を置いてから言葉を続ける。ちゃんと見ている。だから知っている。君の目はねこの目に似ているんだ。プラスティックなんかじゃない。

 ねこの目? 彼女は面白そうに繰り返す。わたしの目は、ねこの目に似ている?

 言葉に詰まって、僕はただちいさくうなずく。彼女のわらい声が届く。先生がわたしのこと、どんなふうに見てたのか、なんとなくわかる気がするね。

 車列が前へと動き出す。ゆっくりと、前進と一時的な停止を繰り返しながらも風景がすこしずつ塗り変わる。見慣れた建物が視界から消え、はるか奥にあった案内標識が手前に引き寄せられる。やがて、前方の老朽化した雑居ビルの影から半かけの花火が唐突に顔を見せる。半円が拡大して闇夜に散る。すこし遅れて音が届く。

 でもそれは一年前のわたしだよ。姿を見せた花火にはまるで言及せず、彼女は話題を戻す。わたしの目がねこに似ていたとしても、それはここにいた一年前のことだよ。いまはもう違う。先生はまだわたしの目をじっと覗き込んでいない。昔のわたしの姿を思い浮かべているだけ。思い出の中のわたしを見ているだけなんだ。先生がいま見ているのは、わたしじゃない、「ねこの目の女の子」なんだよ。

 反論を試みようと視線を向ける僕の眼前に、彼女は携帯電話の画面を突き出す。

 車の流れがふたたびとまる。僕は差し出された携帯電話を手に取り、画面を見る。映し出されているのはニュースサイトふうのウェブページ。画面上部の記事タイトルに目を通す。「またも中国、驚愕の食品偽造の実態! 密輸されたプラスティック米102袋が押収される!」

 面白いよね。窓の向こうを見つめながら他人事のように蕾雨はいう。デンプンを整形するためにプラスティックを混ぜてるんだって。びっくりだ。まさに可塑性というやつだね。なかなか精巧みたいで、ぱっと見区別はつかないらしいよ。もちろん体にいいはずがない。こんなものを食べてたら、体がプラスティックになっちゃうのも、無理はないよね。でも。

 レイユゥ! 僕は大きな声を上げ、繰り出される彼女の言葉を遮る。言葉はとまったが相変わらず蕾雨は外を見つめたままだった。短い沈黙が下りた。不快感を押し殺して、僕はいう。レイユゥ、君は、本気でこんなくだらない記事を信じているわけじゃないんだろう? こんな記事がまるでデタラメだってことくらい、君にはわかっているんだろう? それが君流の皮肉であろうとなんだろうと、そんないい方で君が虚偽に加担するのは、僕は受け入れられない。お願いだからやめてくれ。

 虚偽かどうかなんて関係ない、と蕾雨は素早くつぶやく。ちいさく息をつき、言葉をつづける。大事なのは、それを信じたいひとたちがいるということ。ねえ先生、それが多数派であればあっという間に浸透して、事実になる。真実は追い出される。問題なのは、わたしが多数派に入り込めなかったこと。排除される側にしかなれなかったこと。それだけのことなんだ。ねえ先生、わたし別に強くはないんだよ。そのことを先生はよく忘れる。わたしになにか期待をするのは間違ってる。排除され、拒まれて、祝福されず、どこにも居場所がなくて孤立する。それがわたしなんだよ。

 僕がなにか口を開こうとした瞬間、蕾雨はさらに致命的なひと言を加える。先生、わたし来月大連に引っ越すんだよ。だから先生とは今日でお別れなんだ。

 突然の知らせに、言葉を失い彼女の横顔をただ見つめる。そんな僕に対し、蕾雨は口の端に冷たい笑みさえ浮かべて淡々としゃべりつづける。親の仕事の関係、ってやつだね。急に決まって、夏休みが終わらないうちにもう出発。準備なんて全然できないよ、わたしは日本語しかしゃべれないのにね。你好、謝謝? それくらい。ああ、でも、食糧事情については予習できてるよ。プラスティック米に気をつけろ。でもまあ、プラスティックの体には関係ないか。

 レイユゥ!

 だからわたしをもっとよく見て。蕾雨は身を乗り出してすぐ間近まで顔を寄せる。先生、わたしをちゃんと見て。いまのわたしをちゃんと見て。わたしの目は本当にねこの目に似ているの? いまもそうなの? 想像の中だけじゃなく、ちゃんと目の前のわたしのことを見て。プラスティックに似てないかどうか、自分の目で確かめて。わたしが欲しいのはなぐさめなんかじゃなくて、真実なんだ。先生がわたしに提示してくれる真実なんだよ。

 蕾雨の顔はすぐ間近にあった。いい終わると口をつぐみ、まっすぐに僕の横顔を見つめていた。僕は長く息を吐いた。肺の中のものを、すべて外へ出してしまうように。そしてゆっくりと顔を向ける。摩滅された花火の音が遠く連続的に響き始めた。僕は短く息を吸い、まるで深淵でも覗き込むように眼前にある蕾雨の双眸を見つめた。吸い込まれるようなその瞳に、なにかを探りあてたいと僕は思った。真実を。いまここにいる彼女のなにかを。そして。

 そしてひやりと湿った感触が唐突にくちびるに触れる。

 なにが起こったかを理解したときには、もう蕾雨の顔は離れていた。ひっかかった。蕾雨は真顔でそういった。僕は思った。プラスティックの目だ。この目はまるでプラスティックで出来ているみたいだ。それは不快な想起ではなかったし、人間味の欠如を意味してもいなかった。蕾雨の目はただプラスティックに似ているだけでそれがなにかを暗示しているわけではなかった。もちろん僕はその発見をつたえるつもりはなかった。ただひたすら、あの一瞬に触れたものの感触を思い起こすだけだった。表情を変えず蕾雨はきいた。どう、先生、プラスティックの味はした?

 プラスティックの味はしなかった、と僕は呆然とした顔のままつぶやいた。視界の先に花火は上がりつづける。蕾雨はちいさくわらいだした。小刻みな振動は、でもやがて別の種類の痙攣へと変わる。ちいさな肩は、感情的に細かく震え始める。

 最高潮に達した花火は夜空のごく限られた一角をつぎつぎに塗り固めた。遠い音、遠い光の連続。きっとすぐ近くでは目も眩むような明るさなのだろう。声も聞こえなくなるほどの轟音なのだろう。そんな烈しさは、ここには届かない。

 だから僕の声はまっすぐ届く。なにかにかき消されたりはしない。

 僕は静かに口を開いた。

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