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文字が躍るころ

作者: 珉珉×打破

 きらきらと、文字は明滅する。

 彼らは空間を自在に巡る。

 文字は流転し、回々くるくると、

 心地よく私を翻弄する。

 留まることを忘れた彼らは、

 意識の外から如実に現れ、

 無意識の奥にゆるりと消える。

 私の意志に応えて移動し、

 私の心は応えて喜ぶ。

 弾けて、消えて、震えて、瞬く。

 一体どこへ、私を運んでくれるというのでしょう。


 

 軽い金属音で私は我に返った。

「あ、ごめん雫。邪魔した?」

 顔を上げると、カーテンを掴んで窓際に立つ苑美と目が合う。二秒ぐらい見つめ合って、私は両腕と一緒に背筋を伸ばす。

「う〜ん、いや、大丈夫」

「そう」

 苑美はそのままカーテンを閉める。窓側の景色は単調になり、教室は冴えない人工の光に満たされる。

「あー、もう随分暗かったんだねぇ」

「そうね。もう秋だし、日が落ちるのも早くなったから」

 苑美は自分の席に戻り、机に上にある本を手に取って再び視線を落とす。そのまま黙りこんでしまった彼女に、私はさっきまでの感覚を話すことにする。

「ねえ苑美。小説読んでて、文字が躍り出すことってない?」

「文字が躍り出す?」

 目線だけ上げて、彼女は答える。

「そう。文字が躍り出す」

「……」

「……」

 沈黙、三秒。

 彼女は溜息をついて、本を置くと

「良い病院を紹介してあげる。大丈夫、きっとすぐ良くなるから」

 と言った。

 あ、これはなんか勘違いされてるな。

「違う。そういう意味じゃないの」

「そういう意味じゃないって、どういうこと? 小説の書きすぎで、頭がおかしくなったんじゃないの?」

 苑美は首を傾げながら、頭の横で指をくるくる回して、手を開く。くるくるぱー。私を気遣う台詞を言いながら、それでいて僅かに笑っているところが腹立たしい。

「違うの、言い方が悪かったの。別に、そこら中の文字が本当に躍り出すわけじゃなくて、小説を読んでるときに、そんな風に感じられないかってこと」

「……頭は大丈夫なのね?」

「しつこいよ」と口を尖らせると、

「ごめんごめん」と彼女は笑った。

「それで、そういうことないかな?」

「うーん。雫の言っていることがよく分からないだけかもしれなけど、そういうのはないかな」

 腕を組んで、今度は真面目に苑美は答える。

「ああ、躍り出すっていうのが良くなかったのか。うーん、なんていうのかな。小説を読んでるとさ、内容にのめり込んじゃうことってない? 没頭しちゃうって言うの?」

「ああ、そういうのはあるかも」

「で、その時にこう頭のなかに文字が沸々と散乱していく感じするよね?」

「え? いや、しない」

「え? しないの?」

「え? するの?」

「うん」

「しないけど」

「え? しないの?」

「だから、しないってば」

「しないかなー」

 ん、どうにも話が平行線を辿っている。同じこと思ったのか、苑美は

「ん、とね。夢中になるっていうのは分かるんだけど、そっから文字がうんたらっていうのはちょっと良く分からない」

 と言って曖昧に微笑む。

「小説に描かれた情景が、目の前にありありと浮かんでくるっていうのとは、違うのよね?」

「うん、そういうのとは違う。それとは完全に独立しているというか、むしろその向こう側にある感じ」

「向こう側ってどこよ?」

「……さあ?」

 沈黙、三秒。

「……まあ、普通の人はしないと思うよ。雫が特殊なんだと思う」

 苑美は溜息を吐いて、傍らに置いてある本を開く。

「特殊って?」

「少し変ってこと」

「えー、そうかな。普通の人はすると思うけどなー」

 そう呟きながら、私は自分の机に置いてあったノートパソコンに視線を移す。文章エディタの書きかけの小説を舐めるようにスクロールしながら、私はふいと思いつく。

「そっか。苑美は小説を書かないからだ」

「はあ、何が?」

 苑美は本から視線を上げる。

「小説を書いたことがないから、文字が躍らないんだよ。苑美も小説を書けば、きっとその感覚が分かるよ!」

 うんうんと私は頷く。

「……そんな馬鹿な……」

 いやいやと苑美は戸惑う。

「いや、絶対そうだって。そうに違いない! 嘘だと思うなら実際に書いてみてよ。苑美は小説書いたことないでしょ。文芸部に入ってるくせに」

「……まあ、読む専門だから、書いたことはないけどさ。それにしたって小説を書いたとしても、その変な感覚がするとは思えないのだけれど……」

「いや、するね。絶対する。という訳で、小説を書こう! モチベーションを保つために、私が今 投稿を考えてる文学賞に苑美も一緒に投稿しよう!」

 ね、と私は苑美に笑顔を向け

「そもそも小説書けないし……」

 と苑美は私から視線をそらせる。

「書いたことが無いだけでしょ」

 私が口を尖らせると

「書ききれる訳無いし……」

 と苑美は口を顰み

「上限一万文字のショートストーリだよ。小学生でも書ける!」

 と説き付ければ

「ほら私、理系だから……」

 と出奔を企てるので

「ならピッタシだね! 文学賞の課題はね、《あなたの理系的発想力を存分に発揮して読む人の心を刺激する物語を書いてください》だって」

 先回りしてみる。

「……」

「……」

「……か、書く気が起きないし……」

 むう、しつこい。ならば、とどめの一言である。

「グランプリの副賞は百万円だってさ」

 途端に苑美の瞳がきらーんと光った。

「良し、書こうか。雫、締め切りはいつ?」

「来月の終わり」

「なら時間はあるね。グランプリ目指して頑張るよ」

「おー!」

 ふふふ、狙い通りである。

 こうして、私たちはその文学賞を目指して小説を書くことになった。結局のところ苑美は小説を書いた後も《文字が躍る》感覚を得られなかったので、私の予想は外れたと言える。けれど、いつも読むだけだった苑美と一緒に小説を書くのはとても楽しく、その頃の私はいつも雀躍としていた。

 それが私たちの友情を壊すことになるとは思いも寄らずに。



 季節は巡り、大学三年になった私は進路に悩んでいた。いや、悩んでいると書けば聞こえは良いが、実際は悩んでいる訳ではないから、これでは表現がおかしい。悩むというのは、それ自体が非常にポジティブな行動であるからだ。だから、ただ進路を決めあぐねていると書くのが相応しいだろう。道は少なく、そのどれを選んでも後悔しそうで、それがどうにも私の足を掴んで離さないのだ。

 あれから私は小説を書いていない。

 読むことは読む。触発されて、書きたくなることもあったが、それを文字にすることはなかった。文章にする気がどうしても起きなかったのだ。

 苑美とは大学が別々になった。彼女は理系、私は文系。彼女は国立で、私は私立だから当然とも言える。

 大学生活はそれなりに楽しく、勉強、サークル、バイトと充実した毎日を送っていた。が、そのどれもが心底楽しいという訳ではなかった。一生ものにしたいと思うものが、何一つ無かった。だから、未だに将来の自分についてピントが合っていない。適当に公務員かどこかの事務職に就ければ良いかなと考えていながら、その無気力な毎日を想像するだけで、どうしても私の足は重くなってしまうのだ。

 そんな重い足先を見ながら、駅前でぼうっと立っていると

「おっす、雫〜。元気してたー」

 怠そうな声と一緒に、レディーススーツに身を包んだ女性が現れた。

「お久しぶりです、浮実(ふみ)先輩。お元気そうじゃ……ないですね」

 およそ四年ぶりに会う文芸部の先輩は、頭を抑えながらよろよろと歩いていた。

「大丈夫ですか?」

「いやあ、昨日は飲み会でさぁ。就職祝いでたらふく飲まされたのよ。二日酔いで頭が痛くて……。悪いね、久しぶりに会えたってのにさ」

「いえ。あ、どこかお店に入りましょうか」

「うん、そうしてもらえると助かる」

 別々の理由で足取りが重い二人は、ゆるゆると喫茶店に歩いて行った。

 先輩から連絡があったのは、つい昨日のことだ。明日、仕事で近くまで来るから、暇だったら久しぶりに会わないかという内容だった。

「先輩、まだ学部の四年生ですよね。仕事ってもう始まるんですか?」

 アイスコーヒーを二つテーブルに置いて私は言う。座って休んでいたからか、先輩はさっきより楽そうに見えた。

「仕事と言ってもね、特にすることはないんだ。顔合わせというか説明会というか、そんな感じ。こんなことの為にわざわざ来るなんて、正直面倒だよ」

 先輩はグラスにミルクを一つ、シロップを二つ入れる。甘党なのは変わっていないようだ。

「まあ、ある意味ではそれで連絡したんだよね。後輩に会うためと思えば、こっちに来るのも苦じゃないからね」

 先輩は口角を上げて目を細める。高校時代と変わらない、素敵な笑顔だった。

「最近どう、雫の方は」

「そうですね。最近ちょっと、進路に悩んでますね」

 そう言って私は不自然に笑い、コーヒーを口に含む。黒い苦味に舌が侵食される。

「そうか、三年だもんね。そろそろ就活が始まる時期か。雫は大学院には行かないの?」

「行かないですね。とくにしたいことも無いですし……」

「ふーん。そかそか。雫には小説があるもんねー」

 どくん、と私の心音が加速する。

「……あれ? もしかして、雫。小説書いてないの?」

 黙りこむ私に、混じり気のない疑問が飛んでくる。

「……そうですね。最近はちょっと」

 早口にならないよう、語尾が震えないよう、注意しながら声を出す。

「えー、何で。昔はあんなに書いてたのに。それこそ週に一本は書いてたじゃない」

 先輩は笑顔。高校のときと変わらない、素敵な笑顔。

「昔とは違うんですよ。勉強もバイトもサークルも、忙しかったんですから」

 私も笑顔。多分、高校のときとは違う、大人の笑顔。

「あ、もしかして、苑美がグランプリ取ったから、小説書かなくなったの?」

「   」

 一瞬、思考が停止して。

「いやー、そんなんじゃないですよ。苑美云々関係なしに、ちょっと飽きちゃったんですよね。小説書くの」

 用意しておいた台詞を、そのまま吐き出す。

「ふーん。そうか、飽きちゃったのか」

「そうですね。飽きちゃったんです」

「……」

「……」

 沈黙がしばらく、その場を支配した。


 苑美と一緒に書いた小説は、楽しかった。

 いつもは私が書いて、苑美が読むだけ。読んで、感想を言ったり、評価をするだけだった。

 けれど、苑美が書いてくれると、私も感想を言ったり、評価することができた。モチーフを巡って、主張がぶつかることがあった。苑美の下手糞な文章を添削しなければならなかった。先輩たちが部室に来なくなって、二人だけになった部室で、多分、あの時が一番楽しかったと思う。

 だから、とても嬉しかったんだ。苑美の小説が入選したとき、とても嬉しかったんだ。たとえ、私の小説が落選したとしても、私は手放しで喜んでいた。喜べていたはずなんだ。

 

 喜べなくなったのは、いつからだろう。

 

 文学賞のあとに、改めて小説を書こうと思ったときだろうか。

 グランプリの発表後、苑美の小説を読み返したときだろうか。

 どんな小説が面白いか、分からなくなったときだろうか。

 苑美が私を見て、悲げに眉根を寄せたときだろうか。

 いくら文章を書き殴っても、文字が躍らなくなったときだろうか。

 ……。

 気がつけば、苑美と話さなくなっていった。学年が上がってクラスが別になり、受験勉強に専念することで、ますますそれは加速した。私から彼女にメールすることはなく、彼女も私にメールすることはなかった。

 そのまま私たちは高校を卒業し、それから二度と会うことはなかった。


「そうかー。雫の小説、面白かったんだけどなぁ」

 先輩の溜息で、私は現実に引き戻される。

「またまたー。そんなことないですよー」

 反射的に言葉が出た。僅かに先輩の眉根と口元が動いた気がしたが

「……」

 小さ過ぎた呟きは私の耳には届かなかった。

「何か言いました?」

「いや、別に」

 と言って先輩は笑う。笑顔の先輩は相変わらず素敵だな、と私は思った。

 それから、二、三、他愛のないお喋りをした。他の先輩の近況や、就活についての話が主だった。その頃には二日酔いも回復したらしく、トイレから戻った先輩の足取りはしっかりとしていた。

「ふぅー、すっきりした」

「もう、やめて下さいよ、先輩」

「ごめんごめん、つい」

 先輩は笑いながら席に着く。

「ああ、ところでさ、雫……」

 と、そこで先輩は言葉を切る。甘いコーヒーを含み、笑顔のままじっくりと溜めて放った台詞は、

「あなた、苑美と連絡取ってないでしょ。」 

 容易に私を切り裂いた。

 2つになった私のそれぞれが拙く口を開いたが、そのどちらも言葉を発することはできなかった。真っ直ぐにこちらを見る先輩の視線だけで、それらは抑えこまれてしまった。

「……知って、たんですか?」

 ゆっくりと、元に戻った私が言う。

「いや、知らなかった。でも、そうかなとは思ってた」

「……。騙したんですか?」

「ごめんね」

 先輩はさっきと変わらない笑顔だった。少なくとも、私にはそう見えた。

「実はね、雫。あなたを誘う前に、苑美も誘ってたんだよ。大学が近くだから直接会って、久しぶりに雫と会わないかってね。そしたら苑美は断ったんだ。理由を訊いたら、《やることがあるから》だと。そのときの様子がどうにもよそよそしくてね。何かあったのかなって思ったんだ。それで、あいつの書いた小説がグランプリを取ったろ? 『宇宙とこころと素粒子と』だっけか。だから、それ絡みで何かあったのかなと思って訊いたら、お前はもう小説を書いてないとか言うしさ。そんなもん、もう確定でしょ」

「確定……ですかね?」

「確定だね。雫は考えてることがすぐ顔に出るから」

 え、嘘。

「《え、嘘》って思った。ほらね、すっごく分かりやすい」

 ……。

「ああ、ごめんごめん。からかってるつもりはないんだ。話を戻そう。それでね、雫。お前が進んで小説を諦めたんなら、別に良いんだよ。でもお前、全然そんなこと思ってねえじゃん。私はそこが気になったんだ。何が《またまたー。そんなことないですよー》だ。自分が面白いと思ったもん、自分で否定してどうすんだよ。そんなのただ卑屈になってるだけだ。少なくとも高校のときのお前なら《またまたー。そんなの当たり前じゃないですかー》ぐらいは言ってたよ」

「……言ってましたかね?」

「言ってたよ。そんで、私が書いた小説を平気で《つまらねー》っていうそんな後輩だったよ」

「いや、そこまでは言ってませんよ」

「言ってたよ」苛立たしげに先輩は言う。

「言って……あれ?」

 いや、言ってない、はず。多分。

「……まあいいや。とにかく私が言いたいのは、そんな俺様人間が、いちいち他人の評価を気にして小説を書くなってことだ。大方、雫の悩みの原因はそれだろ? 自分の小説よりも苑美の小説が評価されて困惑してんだ」

 それは、確かにその通りだ。苑美の小説を読んでから、何が面白いのか分からなくなっていた。でも、そんなことは……

「そんなことは分かってる。そうだろ? そんなことは誰よりもお前自身が分かっているはずさ。ある意味ではそれ故に、悩みが長続きしてるんだからね。じゃあ、なぜ原因が分かっているのに、悩みが改善されないのか、分かる?」

 先輩の質問に、私は首を振る。

「簡単だよ。改善方法が悪いからだ」

 改善方法?

「順番が逆なんだよ、お前らは二人とも……お?」

 そのとき、先輩の携帯が鳴った。

「あ、ごめん。仕事の同期からだ」

 携帯を耳にあてると、途端に先輩の顔色が変わる。

「え、集合時間変更? 聞いてないよー。何? Facebookで? う〜、まあいいや。それで、時間は? ……え、嘘。分かった、すぐ行く」

 携帯を閉じながら先輩は席を立つ。

「ごめん、雫。すぐに行かなきゃいけなくなっちゃった」

 先輩はバッグを肩にかけて、財布から千円札を二枚取り出してテーブルに置き、片手で謝る。

 まだ訊きたいことがあっだが、仕事なら仕方がない。そんな私の表情を読み取ったのか、先輩は

「あー、もうそんな顔すんなよ。またいつでも連絡して良いからさ」と言って、私の頭を撫でる。

「はい……。分かりました」

「それじゃあね。そうそう。もうすぐ、苑美から連絡が来ると思うから、ちゃんと返信してあげるんだよ」

「え、それってどういう……」

「またねっ!」

 謎の言葉を残して、先輩はダッシュで店を出て行ってしまった。

(苑美から連絡が来る……?)

 テーブルに座り直して、先輩の言葉の意味を考える。ふと口に含んだコーヒーは、氷が溶けたせいか、さっきより苦味が薄くなっていた。


 帰宅後、先輩に今日のお礼と苑美からの連絡についてメールしたが、返信メールには《待ってれば分かるよ》としか書かれていなかった。先輩はさも当然のことのように言っているが、本当に苑美から連絡は来るのだろうか。もう三年はまともに会話すらしていないのだ。到底来るとは思えない。

 私から連絡したほうが良いんじゃないだろうか。それとも、先輩のことを信じて待つべきだろうか。そんな思いが行ったり来たりしながら、時間は無為に過ぎていった。

 そして一週間後、本当に苑美から連絡が来た。

「お届けものでーす」

 というか、宅配便が来た。自室に持って行って段ボール箱を開けると、緩衝材に包まれたガラスケースが入っていた。割らないようそっと取り出してテーブルの上に置いてみる。

 それは、見たこともない機械だった。大きさは一辺が三十センチの立方体程度で、少しだけ縦に長い。底面と上面は黒いプラスチックに覆われていて、その間に透明のガラスケースが挟み込んである。美術館の展示品を覆うケースにどこか似ていた。その展示品に当たる部分、ガラスケースの内部には、長方形の鏡が神鏡よろしく収まっていた。その直下に円盤があるので、どうやら鏡は回転するらしい。

「何だコレ……?」

 苑美の、それこそ三年ぶりに来た《連絡》を見た感想がこれである。振ってみても音はしないし、叩いてみても反応はない。鏡はきれいに私の顔を映しているが、姿見なら既に持っている。

 手をこまねきながら首を傾げていると、ふと、この機械が入っていた段ボール箱が目についた。もしやと思って緩衝材に溢れたそれを引っくり返すと、案の定、紙が一枚落ちてきた。

《コードを挿して、スイッチを入れてね》

 A4用紙、横書き一文、宛名なし。

 説明の短さに少しイラっと来たが、書かれたとおり裏側にあったコードを伸ばして、スイッチを入れる。

 機械の天板から青い光が漏れた思うと、モータの駆動音とともに鏡が回りだす。青光は鏡に反射され、不思議な図形が二、三、瞬いたそのとき、私は目を瞠った。

「文字が、浮いてる……」

 目の前に、3Dの文字が浮いていたのだ。「文」の字が青白く輝きながら、確かに輪郭を保っている。「文」はそのままゆるやかに回転しながら、ガラスケースの中を自由に浮遊している。

 続いて「字」が現れる。そして、「が」「躍」「る」「こ」「ろ」と続く。

「文、字、が、躍、る、こ、ろ……」

『文字が躍るころ』。これは――。

 これは、私が最後に書き上げた小説のタイトルだ。そして、苑美と一緒に創った小説でもある。

 タイトルが消え、一瞬空間が震えたのち、ふいに文字が展開する。拡散した文字は小説の冒頭であり、それは文字が躍るように感じた私のクオリアを綴った文章でもあった。ケース内に散乱する文字は、思うがままに、思うたままに、空間を自在に移動する。

 あたかも、文字が躍っているかのように。


 十分後、舞うように光り続けた小説は終わった。

 覚えていてくれた。

 想っていてくれた。

 理解しようとしてくれた。

 気がつけば、私の視界は涙でぐしゃぐしゃだった。

 そのせいで後半は小説を追えなかったが、瞬いた光は私の頭で弾けるように躍りだし、隠された小説を容易に再生した。それはまるで、この小説を書いていたあの時間、あの場所を再現しているようでもあった。

 しばらくすると、再び機械の天板が光った。慌ててティッシュで顔を拭いてガラスケースを覗くと

「仲直りして下さい」

 という文字が躍っていた。

 私は少し考えて携帯電話を開くと、軽い指取りで苑美にメールした。

「書かなくても伝わることは、書かないほうが良いかな」

 携帯の画面には、ここ数年で一番自然な笑顔が映っていた。

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