理由
場所は変わって、宿屋――旅人たちが宿泊するための施設である。その宿屋の二階の角部屋に少年たちはいた。あの騒ぎのあと、ハルトたちは逃げるようにその場を離れ、借りていた宿に隠れることにしたのである。
「王国の兵士と喧嘩しちゃうなんて、ばっかじゃないの!」
部屋にはいって、一番最初につり目の女が乱暴に言葉を吐き捨てた。その怒号は明らかにハルトに向けられているものの――ハルトはベッドの上にごろごろと寝転がりながら、穏やかな顔をしている。まるで聞いていない。
他人をからかうような態度に余計腹を立たせた女は、目をよりいっそう吊り上げながらハルトを怒鳴りつけた。
「なに聞いてないふりしてんのよ! 今まであんたの面倒事には散々巻き込まれてきたけどね、今回ばかりはまずいわよ。王国の兵士を殴るなんて……もうこの国にはいられないわ!」
「まあ、落ち着けよ、ミシュナ」
子供をあやすようにハルトはそう言った。
燃えるような赤いツインテールと、つり目が特徴的なこの女――名前はミシュナという。いかにも気が強そうで、つんとした顔つきをしている。
ミシュナの怒号は止むことはなかった。椅子にちょこんと座っている銀髪の少女を指さすと、絶え間なく言葉を続けた。
「だいたいね、あんた、王国の騎士に捕まえられるとかどんな悪いことしたのよ! この国は世界で一番治安がいいって聞いてたのに、残念すぎるわ!」
早口で繰り広げられる説教に、銀髪の少女はおどおどとうろたえた。その様子でさえも、もはや可憐である。
ハルトはクッションを抱きしめながら、
「ところで、名前なんていうんだ?」
不意をつくように尋ねた。銀髪の少女はその質問が自分あてであることに気が付くと、狼狽した。大きな目をちらちらと左右に動かすと、少しの沈黙の後、重い口を開いた。
「……私の名は、セレーネ・ディベア。このディベア王国の王女です」
その瞬間、ハルトとミシュナの表情が硬直した。それはあまりにも衝撃的な言葉で、理解するのに時間を要した。
「――今、なんて言ったの?」
ミシュナは、セレーネの顔を覗き込みつつそう訊いた。瞳の色は疑惑に満ちている。
銀髪の少女――セレーネは小さく俯くと、白い手にぎゅっと力を込めた。その手はわずかに震えていた。そして、桃色の唇を震わせながら、
「私はセレーネ・ディベア。正真正銘、この国の王女です」
「ちょっと……冗談で言ってるんじゃないでしょうね」
「信じてもらうのは、難しいかもしれませんが……嘘はついていません」
ミシュナは、セレーネを品定めするかのように凝視した。
ぱっちりとした二重瞼を縁どる長い睫。小柄でありながらも高い鼻。上品な口元に桃色の唇。物憂いな表情でさえどこか神秘的な美しさを漂わせる。
顔立ちだけでなく、身なりも上品な美しさを有していた。真っ白なワンピースはシミひとつなく、仕上げるのにどれだけの時間がかかるのかと思うほど細かい刺繍が施されている。胸元に輝くペンダントは、とりわけ存在感を放っていた。銀色の鎖に繋げられている宝珠は、瞳と同じ澄んだアジサイ色だ。
確かにセレーネは、高貴かつ優雅な容姿をしている。もはや、王女という表現でさえ見合わぬほどに美しい少女かもしれない。
「……なるほど、確かに王女様って感じしてるわね」
気にいらなさそうな顔をしながら、ミシュナはそう言った。セレーネは足をもじもじさせながら口を開いた。
「信じてもらえますか……?」
ハルトは「信じるよ」と答えると、むくっと上半身をベッドから起こした。人懐こい笑顔を浮かべると言葉を続けた。
「俺の名前はハルト!」
綺麗な指でミシュナを指さすと、
「この赤いのはミシュナ!」
続いて、窓の外を眺めながら物思いにふけっている黒髪の男を指さし、
「あの黒いのはレー!」
レーは紹介されているにも関わらず、まったくセレーネのほうを振り向か鳴った。その横顔は氷のように冷やかで、無表情を極めていた。
「ごめんなあ、セレーネ。怒ってばっかりのやつと無口なやつしかいなくって」
「い、いえ、そんなことありません……」
セレーネは愛想笑いといえども可愛らしい笑みを浮かべた。その愛らしさに、ハルトが惚れ惚れとしているのは一目瞭然だった。初めて見る柔らかな笑顔に、ミシュナは自分の胸がきゅんと痛くなった。その痛みの理由を、ミシュナはまだわからなかった。こみ上げてくる苛立ちを、ただ単に顔色に示しだすと、
「それで、王女様がなんでこんな城下町にいるわけ? 護衛もなしに」
呆れるように問う。セレーネは、太陽が雲間に隠れるように顔色を曇らせた。髪の毛を耳にかけると、
「かくまっていただいてるみなさんには、話しておくべきですよね」
初めにそう切り出した。一瞬の間を置いてから、そのまま言葉を紡ぎ始めた。
「――私は、生まれてから一度もお城を出ることを許されませんでした。この十八年間、ずっと城の中で生きてきました。それは国王であるおじい様の計らいで、おじい様は頑なに私を城の中に閉じ込めようとしました。でも、私は外の世界を見てみたくて仕方がなかったんです――それで、今日、お城を勝手に抜け出して町へ出たのです。さっきの男たちは、私を捜し出して城へ連れ戻そうとする王国の兵士だったのです」
「なにそれ……ずいぶんと贅沢な悩み事ね」
ミシュナの表情はあまりにも凍り付いていた。その目には、確かに怒りが宿っている。
「私は、本気で……一度でもいいから、自由の身になりたかったんです。町を歩いたり、ほかの国へ行ってみたかった。本や絵で知ってしまったんです。エメラルドグリーンの海や、一面砂の大地、一年中雪が降り続ける国――この世には私の知らない美しいものがたくさんあるんです。あのお城の中だけでずっと生き続けられるなんて、もう耐えられないんです。こんな思いをするくらいなら、王族になんか生まれたくなかった――」
セレーネの頬に一筋の涙が流れた。ミシュナはセレーネの弱りきった顔を見下ろすように眺めると、赤い毛先を後ろに翻した。
「ハルト、この子をすぐに城に帰してきなさい」
口調は嫌悪感にまみれていた。言い返そうと口を開いたハルトをきっと睨み付けると、怒ったように前だけを見て歩き始めた。ハルトは怒りと悲愴の交じった彼女の表情に、思わず言葉を失った。今の彼女は、誰の言葉も必要としないような寂しい顔をしている。
ミシュナは部屋の扉の前で立ち止まると、振り返ることなく口だけを開いた。
「もしも私が――こんな美しくて安全な国に産まれて、そんでもって可愛いお姫様だったら……それだけで最高の人生だと思うわ。外に出て自由になろうとかばかなことは絶対考えない――絶対に」
その言葉は、セレーネの胸を深く貫いた。ミシュナは扉を押し開けると、それ以上はなにも言わずに部屋を出て行ってしまった。誰もその寂しげな背中を引き留めることは出来なかった。
「俺もミシュナに賛成だ」
今まで一度も口出ししなかったレーが、その時初めて言葉を発した。レーはいつの間にかこちらを見据えていた。どこか鋭さを有する眼差しに、セレーネは少し怯えた。
「姫様よ、確かにあんたの言いたいこともわかる。だけどな、あんたが思ってるほど今ほかの国は平和じゃないんだ。戦争の真っただ中、あるいは不景気、飢饉さ。この国にいてるほうが身のためだ」
冷え切ったようで、それでもどこか優しく諭すような口調だった。セレーネはひたむきな表情で、レーの黒い瞳を見つめた。
「それでも……それでも、世界を知りたいんです」
「世界には、知らないほうが幸せなことも多いさ」
レーはそう言い切ると、ゆっくりとした足取りで開けっ放しの扉のほうへ歩き始めた。
「汚い現実を見る前に、早く城へ帰るのが賢明だ。俺は誘拐犯だと思われたくないんでここで失礼する。帰りは、そこにいるばか男に送ってもらうといい」
そう言い残していくと、レーは何の未練もなさそうに部屋を出て行った。実に淡白な男だ。ばたり、と扉が音をたてて閉まった。同時に、部屋の中にシリアスな空気が充満した。
セレーネは宙の一点を見つめながら、涙をこぼさないようにまばたきを我慢させた。鼻がつーんと痛くなる。
「私は……ばか、なのでしょうか」
その声は暗く沈んでいた。視界が涙でにじんでもなお、彼女はまばたきをこらえ続けた。
「あれだけ言われてもまだ諦められない私は――わがままで、世間知らずなだけなのでしょうか」
声はかすかに震えていた。ハルトはベッドから立ち上がると、その哀愁漂う横顔ににっこりと笑いかけた。
「セレーネは、それでいいんだよ。あの二人はああ言ってたけど、俺はセレーネが間違ってるとは思わない。だって、十八年間も城に引きこもりっぱなしだなんて、どう考えてもつまらないじゃないか!」
白い歯を見せながらハルトは笑った。なんの悩みもないような晴れやかな笑みだった。こんなにも爽やかなに笑い飛ばす人間がいたのかと感心してしまうほどに清々しい笑顔だ。セレーネは涙が引いていくのを感じると、つられて笑った。
「ミシュナとレーがきつく言ったことは、俺から謝らせてくれ」
「そんな……いいんです。あのお二人が言っていたことも、正しいのではないかと私も思いました」
「ミシュナもレーも……セレーネのことがうらやましいんだよ」
ハルトは顔を横に向けて窓のほうを見やると、落ち着いた口調で話した。
「俺とミシュナとレーは……孤児院で育ったんだ」
口角は小さく上がっているものの、その横顔はまるで笑っていなかった。青い瞳は、深海のように孤独な色をしていた。
「孤児院っていっても、俺だけはちゃんと父親がいた。父さんは孤児院を建てて、そこで戦争孤児を育てていた。俺もそこで一緒に育てられたんだ。あれは、俺が五歳くらいのときだったかな。ミシュナとレーが父さんに拾われてやってきた。二人とも、今の態度からは想像つかないだろうけど、わんわん泣いてた。父さんは傷ついた子供たちを慰めながら、戦争の中でも生き抜けていけるよう毎日特訓したんだ。さっき、俺が王国の兵士と喧嘩できたのも父さんが鍛えてくれたおかげなんだ。
でも――結局、俺たちの孤児院は、燃やされてしまった。俺とミシュナとレーは、ちょうど三人で出かけていたんだ。帰ってくるとそこは火の海で――生き残った者は誰一人としていなかった」
セレーネは驚きのあまり自分の口を両手で覆った。
「そんな……! いったい誰が、そんなむごいことを……!」
青い瞳に、冷たい憎しみの生気が宿った。憤怒をかすかにあらわした表情で、ハルトは言葉を続けた。
「″帝国・ファルネスト″――その圧倒的軍事力で、ここ最近、いろんな国を力のままに制圧している。俺たちの孤児院は反帝国を掲げていたから、奴らに目をつけられ潰されたんだ。
俺は戦火の中、父さんの死に際にあった。父さんは最後にこう言い残した――記『必ず帝国を倒せ』と……俺たちは父さんとの約束を守るために、今、旅をしているんだ。」