夢よりも夢のよう
少年は、一瞬で恋に落ちた。一目惚れだった。その出会いは、少年の人生にとって革命である。
艶やかな銀髪と、絹のような白い肌、そして白いワンピースは、天使を連想させた。いや、この少年にとって、彼女は本当に天使だったのかもしれない。これほどまでに美しい女がこの世にいたのかと思ったほどだ。
春の日差しが照る午後二時ごろ。とある国の城下町で、その人生の革命は起こされた。
いつもなら多くの人が集い賑わう城下町であるが――今日は、なにやら不穏な空気が流れている。
「あれは、王国の兵士だな」
少年と同い年くらいの黒髪の男が、隣でそう言った。実に淡泊な表情だった。
少年たちの目線の先には、一人の麗しき美少女――と、二人の兵士がいた。事情はさておき、どうやらもめているらしい。ちらほらと集まる野次馬の中にまじって、少年はその光景を傍観していた。
「ちょっと、ハルト。なに立ち止まってんのよ。さっさと行くわよ」
もう一人、少年と同い年くらいの女がそう声をかけた。しかし、ハルトと呼ばれた少年は心ここにあらずと言った様子で、いっこうに動こうとしなかった。困惑し、抵抗し続ける非力な美少女をまっすぐと見つめていた。
つり目が特徴的な女は、その態度に余計に顔をしかめた。
「あんたねえ、まさか、あの女の子を助けようってつもり? 相手は王国の兵士なのよ。いくら、あんたが女好きだからって今回ばかりはだめよ。そもそも、私たちはこんなところで油売ってる場合じゃないんだから!」
強い口調でそう諭すものの、それすらハルトの耳にはまるで入っていなかった。女はますます眉間にしわを寄せた。
「城まで一緒に来てください!」
「いやです。絶対に行きません!」
一方で、事態はさらに悪化していた。収拾のつきそうにない口論は、よりいっそう勢いを増す。
兵士が乱暴な手つきで、少女のか細い手首を掴んだ――その瞬間だった。
「やめろ!」
混乱を打ち破るように声は響いた。その場にいた全員がハルトのほうを向いた。
銀髪の少女も、すぐにハルトのほうを向いた。一目で、その少年が声の主であるとわかった。自信満々に堂々と立ちはだかり、真摯に前を見据えた表情は、英雄のように思えた。いや、少女にとって彼は本当に英雄だったのかもしれない。
「嫌がってるじゃないか、離してやれ」
臆することなく、ハルトは強い声調でそう言った。海のように深いブルーの瞳には、一切迷いの色がなかった。
背の低い兵士が、不機嫌な顔をしながら、ハルトを上から下までじろじろと見た。
「なんだ貴様、子供か? 悪いが付き合っている暇はない。今ならまだ許してやるから、早くここから――」
「いいから手を離してやれっていってるんだよ、チビ」
その一言によって、空気は一気に凍り付いた。背の低い兵士は顔を真っ赤にさせながら怒った。対照的に、背の高いほうの兵士は冷酷な表情を浮かべながら、
「少年よ。我々は国の命令に従い行動している。それを妨げるようなら――わかるな?」
掴んでいた手首から手を放すと、じりじりとハルトのほうへ歩み寄った。兵士はハルトの目の前で立ち止まると、その端正な顔を見下ろした。
緊迫感が漂う。張りつめた一本の糸は、触れてしまえば今にも切れてしまいそうだ。
ところが、ハルトの後ろに立っている黒髪の男は、相変わらず何にも興味を示さないような冷えきった表情を浮かべていた。つり目の女のほうはというと、ハルトの後頭部を怒りでぎらぎらと燃える目で睨み付けていた。
ハルトは臆することなく口を開いた。
「別に王国の兵士だかなんだか知らないけど、その子が嫌がってるんだから、やめてやれよ」
「貴様……痛い目をみたいのか」
「それはそっちだろ、おっさん」
ハルトは老けた顔を見上げながら、静かに低い声でそう言い放った。その言葉が、戦いのゴングを鳴らした。
背の高い兵士は、突然、ボクシングスタイルを構えると、その太い腕でパンチを繰り出した。重みのある一撃であった。しかし、その拳はハルトには当たらなかった。ハルトは予期していたかのように、すっと拳をかわした。兵士は確かに、少年の顔を狙い定めて拳を放ったはずであった。拳は相手の頬をかすめることさえなかった。思わず、目を丸くしてハルトの平然とした顔を見た。
「やるならやってもいいけど、負けるのはあんただ」
その一言に、ついに兵士たちの堪忍袋の緒が切れた。背の低いほうの兵士まで、かんかんに激怒しながらハルトのほうへ近寄った。二人は野獣のような顔をしている。
「やい、子供のくせに生意気いうな。俺はもう怒った、容赦しねえ!」
背の低い兵士は、力任せに殴りかかった。ハルトは風のようにすり抜けると、次の瞬間、ハルトの右の拳は、その男のみぞおちにめり込んでいた。目にも止まら
ぬ速さと絶妙な力加減――野次馬たちは思わず「おおっ」と感嘆の声を上げた。
ぐしゃり、と、背の低い兵士の体は俯けに倒れこんだ。あっけないことこの上ない。
ハルトは残ったもう片方の兵士を睨み付けた。背の高い兵士の表情からはとっくに余裕は消え失せている。それどころか、怯えを必死に隠すように怒りをあらわにしていた。
それでも間髪いれずに、ハルトの長い右足が兵士の左肩を蹴りつけた。これだけでも充分に会心の一撃であるが、それだけでは足らず、今度は素早くしゃがみこむと足払いを繰り出した。俊敏かつ柔軟なその動きは、一般人の動体視力では追いつくことが出来ないほどだ。兵士の巨体は一瞬にして宙に浮かび、そして、思いっきり地面に叩き付けられた。間抜けにも、白目をさらしながらその兵士はそのまま気絶した。
野次馬たちは、少年の不自然なほどにまで磨き抜かれた体術にもはや言葉を失った。むしろ、恐れるようにその姿を見つめていた。
だが、銀髪の少女は違った。彼女はアメシストのような瞳をきらきらと輝かせながら、その光景を見つめていた。目をそらすことはいっさいなかった。半開きになった桃色の唇からは、感動のあまり言葉さえ出てこなかった。
しんとした空気の中、静寂を打ち破るようにハルトはにっこりと微笑みかけた。太陽のように眩しい笑みであった。銀髪の少女はハルトと目があった瞬間、思わず顔を朱色に染めた。その笑顔は間違いなく少女に向けられたものである。
「怪我はないか?」
ハルトはまずそう尋ねた。小さな子供が浮かべるような純粋無垢なその笑顔は、さっきとはまるで様子が違う。少女は目を泳がせながら、
「あ、え、えっと、大丈夫……です」
胸の甘い高鳴りに少女は戸惑った。これほどまでに異性に惹かれたことはかつてなかったのだ。ハルトは少女の目の前まで歩み寄ると、優しくその手首を掴んだ。少女の顔はますます赤くなっていった。
「ずいぶんと目立っちまったな。ここから離れよう」
甘い声でハルトはそう囁いた。きょとんとする少女に構わず、ハルトはそのまま一目散に走り出した! 「ごめんよ、ちょっと通してくれ」なんて軽い調子で言うと、野次馬の間を無理矢理割り込み、笑顔を浮かべながら夢中で走った。しっかりと白い手首を掴みながら。
少女は半ば引っ張られるように、その後ろを続いた。黄金色の髪を見つめながら、少女はくすっと笑った。目の前にいるのは、自分よりほんの少し背丈の高い男の子。そう気づいたとき、なんだかおかしくってたまらなくなったのだ。