道を尋ねてくる外国人
私はよく、道を尋ねられる。
観光地である奈良をぶらつくことが多いからかもしれないが、友人や妹いわく、「私はとにかく道を聞かれやすい雰囲気をもっている」そうだ。
あれは、いつも通りひとりで奈良をぶらぶらとしていたとき。
老年の夫婦が私のほうに近づいてきて、「この辺りに昼ご飯を食べられるところはありますか?」と聞いてきた。観光地なのだからそんなところは沢山あるだろう、と思いつつも、当時の奈良――三条通り付近には有名チェーン店もなく、私は定食屋の名前を一つも覚えていなかった。
逡巡の末、私は老年夫婦に申し訳ないと思いつつも、「すみません、この辺りの者ではないのでわかりません」と答えてしまった。嘘ではない。私の住処は京都にあるのだ。
夫婦はぺこりと頭を下げて去って行ったが、彼らが去ったあと、私の胸を申し訳なさの嵐が駆け抜けた。
奈良が好きだ。
辛いとき、嬉しいとき、暇なとき、私はさまざまな理由をつけて奈良へ行く。そんな、いつでも母のように優しく私を包み込んでくれる奈良を、私はうまく案内できなかったのだ。
次こそちゃんと、道案内をしよう。
当時まだ十代だった私は、そう堅く心に誓った。
そして数日後、すぐに挽回のチャンスはやってきた。
JRの奈良駅の改札を出ようとしたとき、軽く肩を突かれた。
何だろう、と振り返った私の前にいたのは、派手な金髪をした背の高い女性だった。目の色は青く、どこをどうみても外人である。唖然とする私に向かって、彼女は早口で英語をまくしたてた。
雰囲気で道を聞いているのはわかったが私は異国語を一切聞き取れず、懸命に何かを尋ねてくる彼女の言葉を聞きながら視界の隅で暇そうにしている駅員を恨んだ。なんであの駅員は助けにこないんだ。というか、この彼女もなぜ駅員ではなく、私に聞いてくるのだ。
私は焦った末に、なんと――逃げ出してしまった。
彼女のなかで、日本人の好感度がぐっと下がったのは確かだ。当時のことを、私は今でも後悔している。せめて、駅員のほうへ彼女を案内してあげればよかった。
こうして振り返ると、道案内一つとっても私の人生は後悔ばかりだ。
だが、悔いてばかりいても始まらない。私は当時親しくしていた友人に、「外人から道を聞かれたんだけど答えられなかった。どうしたらいい?」と相談した。
そしたらなんと、その友人が失礼にならない魔法の言葉を教えてくれたのだ。
それは「ノー スピーク イングリッシュ」である。
私は英語を話せません、という意味らしいが、それを英語でしゃべっている時点で微妙な返事ではなかろうかと今なら思う。だが、当時の私は「なんだ、そう言えばいいのか!」と単純に納得した。
そしてそれからまたしばらく経ったころ、奈良駅のホームで電車を待っていると、外人の集団にこう尋ねられた。「キョウト?」と。
さすがに奈良で「キョウト?」と聞かれれば、ああこの人は京都へ行きたいのだな、とわかるので、私は停車していた京都行の電車を指差し、「京都!」と元気よく答えた。サンキュウ、と手を振り、その集団はその電車に乗っていった。
道を聞いてくる人たちすべてが「京都」や「奈良公園」などといった、単純な場所を聞いてくれればいいのにと思う。
そしてまた数日が経ったころ。私が京都行きの電車の座席に座っているとき、外人のカップルが近づいてきた。そしてまた何か早口で捲し立てるのだ。今度は道を聞かれているのかさえわからなかった。近くにいた乗客たちもちらちらとこちらを伺っているが、誰も助けてはくれない。
私は、「ノー スピーク イングリッシュ」と言おうとしたが、はて、彼らは本当に英語をしゃべっているのか? という疑心に囚われた。なにしろ、このカップルが何を言っているのか全くわからないのだ。英語ならば、少しくらい聞き取れる単語があってもいいだろうに。
ぽかんとしている私を見て、カップルは「やれやれ」と肩を竦めた。そして、ため息をついて私に背を向けたのだ。言葉は通じなくても、こういった「呆れた」態度は世界共通らしい。どうやらこのカップルは私では駄目だと判断したのだろう。
私は居た堪れなくて、小さな声で「ソーリー」とだけ言ったが綺麗に無視されてしまった。乗客たちの視線も痛い。逃げ出したい衝動に駆られたが、ここで逃げるのも恥ずかしいので、私は降りる駅までじっと耐えることになる。
そんな居た堪れない思いを抱える私をそっとしておいてくれればいいのに、神様は私に「道案内」をさせたいらしい。
あれは、私が地元観光しようと大きなキャリーバックを持ち、「外行き」のお洒落な服で(自分では洒落ていると思っている)奈良市内を歩いていたときだ。
前方から歩いてきたお婆さんに「〇〇(近所のスーパー)はどこ?」と尋ねられた。
今日の私はどう見ても「旅行者」なのに、なぜそんなローカルな場所を聞いてくるのか。幸いにして〇〇の場所を知っていたので道案内は出来たと思うが、「とにかく道を聞かれやすい雰囲気」とやらをまとっている自分自身を、一度考え直してみるべきだと思った。そしてできることならば、もっとわかりやすくテキパキとした道案内が出来るよう、努めていきたいものだ。