悪癖-cracks and a lie-
背徳的要素含ですのでR15とさせていただきました。
嘘は、私にとって武器であり、鎧であり、アクセサリーでもある。それで人を傷つけることもでき、人を守ることもでき、時には私自身を演出することができるからだ。それに加えて、この他人よりも数倍意地汚くどす黒い本心を隠すことができる。見た目と中身の釣り合わない、不安定な私という人間にはとても心付い良い味方なのだ。
令嬢というのは、嘘が上手いほうが生きやすい。社交の場ではどんな時でも笑顔を絶やさず、品性ある言動に努めなくてはならない。そうすれば勝手にちやほやされ、怒られず、欲しいものは手に入る。我ながら何と単純な人生なのだろうとずっと考えてきた。上手に嘘を付けば、私の人生は安泰であると、そう思っていた。常磐と言う人間を知るまでは。
緋之常磐は私の執事、毎朝私を学校まで送り届け、食事の用意をし、ピンチの時は必ず駆けつける。常にナイフを所持しており、変な癖もあるけれどその他は良く気が利き頭の切れる完璧な男だ。
彼を手に入れた時にも、嘘をついた。彼の名前も、衣食住の全ても私の嘘によってもたらされたものだ。私は、嘘で彼の人生を縛っている。そこに罪の意識は、ある。だけどそれと常磐を手放すかは別の話だ。何故なら常磐はつまらない令嬢生活の中で唯一、気の置ける存在であるだ。彼とは、かれこれ10年以上の付き合いとなる。常磐の方が年上で、年の差は4つ程だが常磐の正確な年齢はわからない。何故なら私が彼を拾ったときには、彼は既に記憶喪失だったからだ。
その日は、たまたま家庭教師が体調を崩したので、私は使用人たちの目を掻い潜り裏庭に散歩に出ることができた。春の陽気が心地よくて、風の強い日だったのを覚えている。私はお気に入りの純白のワンピースに日傘を差して裏庭を歩いた。そこに、少年は倒れていた。体中痣と傷だらけで目はうつろ、いかにも死にかけですといった見た目をしていた。私はそんな子供を見たのは初めてで、どうすれば良いかわからなかった。自分の家の裏庭で死なれたら困る、そう思ったのは覚えている。だから、早く少年の名前を聞き出し執事長にでも報告しようと思ったのだ。
「貴方、だあれ?」
そう聞いたものの、少年の声は掠れて小さく聞き取れない。私は少年に近づいた。それが少年には私がこれから危害を加えるように思えてしまったのだろう。気を許した隙に腕を掴まれ、倒れた腹に錆びたナイフで一突きされてしまった。その時初めて、その少年の中の得体の知れないものを見た気がした。不思議とその瞬間は痛みは感じなかった。ただ、澱んだ何者かが体内に侵入したような、そんな薄暗い感情に支配されたのをよく覚えている。
同時に彼なら、いつか私の詰まらぬ人生を終わらせてくれるのではないかと思った。流れ出る血は止まることを知らず、私はその場にうずくまった。その時の腹の傷はまだ残っている。しばらく経っても壮絶な痛みは取れず、普段ならここで周りの人間が助けを読んでくれる場面で、少年は色のない濁った目で私を見ていた。焦点のあっていないような、力のない眼差しだった。私はそれに妙な高揚を覚えた。それは、社交界で見る大人のそれよりも数倍も澄んで見えたのだった。
私と常磐が今生きているのは、屋内に姿の見えない私を心配した執事の一人が裏庭に倒れる私と少年を発見し保護したからだ。事の詳細を聞かれた私は嘘をついた。少年を手に入れるためだ。腹の傷は存在しない悪い大人が作ったものとし、少年は私を庇って傷だらけになった事にした。手当を受けた少年は3日後に意識を取り戻し、記憶喪失になっていることがわかった。私にとってそれは好都合だった。少年の名を聞いたときに「わからない」と言っていたことから、記憶喪失は推定していたが。
令嬢の朝は忙しい。カーテンの開かれる音と共に日光の眩しさに目を開け、寝癖を執事に治させ、洗顔と歯磨きをして、ようやく朝食だ。
「今朝の朝食はスクランブルエッグとトマトとレタスのサラダ、フレンチトーストでございます」
とぽぽぽ……そんな優しげな音と香りをたてながら紅茶が入る。それにミルクを3分の1程度、私の好みの把握は完璧だ。
「ありがとう」
成績優秀、性格誠実、器用勤勉それでいて料理上手。あの時の少年は今では私の家の立派な執事に成長している。大学への進学は本人が一度断ったが、私の助言で一年前から私立マリアンヌ大学の医学部に通うことになった。それは、彼が持つ悪い癖が悪化しないためのものであるのでその旨を伝えると快く了承してくれた。私にとって常磐の悪い癖はあってもなくても同じだ。それはあまり重要ではない。
真実の半分は、常磐の悪い癖を抑えるためだ。常磐は、時折人を切りつけたい衝動にかられる時がある。その衝動はある程度予測のつくものではあるらしいが、常磐自身その癖のために他人を傷付けることを酷く恐れている。彼の右腕には無数の傷がある。それは強い衝動を自らの体を犠牲にすることで抑えた時にできたものだ。私は、悪い癖のために常磐自身が傷つくのは嫌だ。だからせめて、解剖学のある学科に進学させることで少しでもその衝動を抑えようと言う魂胆である。しかし、真実の半分は私が常磐(お気に入りの執事)に学歴を付け、完璧な物にしたいと言う我儘である。
「今日は迎えに来れるの?」
「申し訳ありません。講義を抜け出しましょうか?」
「常磐。講義料は決して安くないわ」
「成瀬家の令嬢が。抜かせ」
普段は澄ました顔で礼儀正しく振舞う常磐だが、私と二人きりの時は会話の途中でとてもフランクな態度になることがある。幼き頃はそれも頻繁なことであったが、成長するにつれ常磐も立場を弁えるようになったのは少し寂しい。私たちは幼少期に一緒に勉学を共にした中で有るので、言わば幼なじみのような感覚があるのだ。常磐は今でも時折、私を悠鳴と名前で呼んでくれる。
「まあ! お嬢様に対して抜かせだなんて、何て執事かしら」
「俺は悠鳴をお嬢様として見たことはないよ」
その後のセリフを、言われなくても私は理解できる。この男にとって自分はお嬢様ではない。守るべきものや、敬うべきものではないのだ。あくまで、常磐にとって私は主。従うべき存在だ。
「主であると言いたのでしょう。じゃあ――」
「――それは嫌だって言ってるだろ」
その先もまた、お決まりのセリフなのだ。私にとっては半分冗談だ。だけど、その先を言う事さえ、常磐は嫌がる。何が彼をそうさせるのかはわからないが、常磐は本当に私に従順で、私の要望はたいてい叶えてくれるがこれだけは叶えてもらったことはない。
「悠鳴、遅刻する。そろそろ出発の時刻だ」
これ以上の問答はしたくないのだろう、常磐は話を遮るようにそう言った。いつもそうだ。この話をしようとすると、途端にごまかされてしまう。それが、歯がゆくもあり悔しくもある。
「ええ、……っ。いたっ……!」
態とらしく膝をつき腹部を抑える。こうなったら仮病を使って学校を休み、常磐を困らせてやろう。話の足切りをされてしまった腹いせに嘘をお見舞いしてやる。
「俺がお前の嘘に騙されるとでも? 下らないこと言ってないで早く支度をしろよ」
だけど、常磐には通じなかったようだ。私が彼に気を許している理由の一つがこれだ。彼には私の嘘が全く通じないのだ。だからこそ、安心して嘘を付ける。嘘は、私の悪い癖の一つだ。まるで呼吸をするかのように小さなものから大きな嘘まで頻繁についてしまう。これのタチが悪いのは、ヘタに上手いので黙せる確率がとてつもなく高いと言う事だ。だから私は、人と会話するときはとても慎重にならなくてはならない。だけど、常磐にはその必要ないのである。
若干急いで残りのスクランブルエッグを口に入れる。常磐の作る料理は全て美味しいが、スクランブルエッグはその中でも別格なのだ。残すなんて勿体無い。そして、いつものやりとり。
「常磐、いい加減にサバイバルナイフで野菜を切るのはおよしになったら? あれの用途はそんなことではないのよ」
「ですが、あれはお嬢様から頂いたものですので機会ある限り使いたく思います。それから、このやりとりは通算5632回目ですよ」
「数えるなんて卑怯だわ。無意味さが数値化されると注意する意欲というものが萎えるじゃない」
「それが私の狙いですので」
何と卑怯な。私は常磐のために言っているのに、その気持ちを萎えさせようというのか。
常磐は、抑えようのない衝動によって調理でさえもサバイバルナイフで行わなくてはならないほどに苦しんでいる。それを知っていながら、私はそれをネタに彼を茶化す。常磐が自分の悩みを彼自身で深刻に捉えすぎない様に、だ。だけどそれは、常磐には悟られずとも良い。私のエゴでしかないからだ。
癖と言うものは、長い時間をかけて上手にコントロールして行くしかない。これは経験談で、私にも長い付き合いになっている癖があるからだ。最も、癖という表現が正しいかはわからない。それは、初対面の人間と退治したときや、人混みなどストレスの感じやすい場面に遭遇したときの話だ。常磐に付けられた腹の古傷が、痛む。はじめは後遺症やPTSDの一種を疑ったが、どの医者も言うことは同じ「身体や精神状態に異常は見られない、ストレス性の可能性あり」である。
この痛みが結構、質が悪い。それは、昔刺された時のような鋭く重い痛みで酷い時には気を失うほどである。しかも、疲労も強く一度起きてしまうとしばらく休まなくてはならない。これによって学校を早退したこと小中合わせて約11回だ。高校に入学してから現在までは今のところない。とは言え、大事をとって入学式は欠席したのだが。
「ああ憂鬱よ。今日は水泳の授業があるんですもの」
「私の記憶が正しければ、お嬢様は毎回見学されるのでしたね」
「何もない一時間がどれほど退屈か知っていて? 一番惨めなのは他の生徒や友人たちが楽しそうにはしゃぐ声を聞いていなければならないことよ」
バックミラー越しに見える常磐の顔が、苦笑する。彼のこの表情は結構好きだ。
「私は何時も参加していたので、完璧にはわかりかねますが、お察ししますよ」
リムジンに乗って15分。門の前に車が止まる。私の通う高校は私立マリアンヌ学園、伝統的なミッション系スクールであり名門校だ。一般家庭の生徒が集まる普通科コースと財閥などの後継者候補の集まる特Aコースに分かれており、校舎も別なら門も方向までも別である。と言うのも、私の所属する特Aコースの生徒の大半がリムジンによる送迎で登校してくるために、リムジンの停留所を設けなくてはならなかったためである。
「行ってきます。常磐も真面目に講義、受けるのよ」
「お嬢様に何かなければ。お気をつけて」
リムジンが遠ざかるまで見送っていると、数少ない友人が声をかけてくる。田丸ファウンドの令嬢、田丸早苗だ。
「貴女のところの執事は相変わらずスカしてるわね」
「おはよう早苗さん。彼のあれは外向け(…・)なのよ」
「そうかしらね。いつもあんな風じゃない。ねえ、ご存知? 常盤さん、隠れファンが多いのよ」
「知っているわよ。だけど、常磐の本性を知ったら逃げていくと思うわ」
例えば学校の帰り、そして外に買い物に行ったとき。それは時々目にすることがあった。常磐はよく、私立マリアンヌ学園の女子生徒や若い女性に話しけられていた。常磐の顔はそれなりに整っているし、物腰柔らかいので惹かれる者は多いのだろう。常磐の悪い癖のことは、幼馴染みである早苗さえも知らないことだ。
「本性って何ですの!? 実はものすごくドSとか。それはそれで良いわね。実は私、一時期常盤さんのこと気になっていたの」
「ドSだなんて、そんな甘いものではないわ。とても特殊な性癖の持ち主なの。常磐を好きになるには覚悟がいってよ」
「やだ。ドMの方? それはそれで……」
簡単に嘘に騙された妄想逞しい友人は暫く放っておくことにし、教室へ向かう。特Aコースの校舎は、リムジン停留所から歩いて五分、学園敷地内の最西側に位置し日当たりもそこそこ良好だ。無駄に広いことを除けば過ごしやすく割と気に入っている。
午前中、平和に過ごし午後。憂鬱なプールの時間だ。私立マリアンヌ学園のプールは室内プールだから、強い日差しに長時間さらされ続ける何て言う悲劇は起こらないけれど、やっぱり退屈な時間であることに変わりはない。そんな私に同情したのか、今日に限って体育教師が一時間の自習を与えてくれた。普段は真面目で優等生な私だけれど、こんなまたとないチャンスを利用しない手はない。私は、カフェテリアへ足を向けた。
「おや、成瀬さん。この時間に君がここに来るなんて珍しいですね」
成瀬、と言うのは私の苗字だ。声のする方を見やると、見知った顔があった。普通科の現国教師、的場俊一郎だ。的場は以前、突然傷が痛んで苦しんでいたところを助けてくれたことがあり、その後幾度か交流がある。物腰柔らかく、どことなく常磐と雰囲気が似ている、と思う。見た目ではない、仕草とか、目つきとかの話だ。見た目はむしろ、真逆のタイプと言えるだろう。的場は、ダークブラウンの猫っ毛の持ち主で服装は決してカジュアルではないものの、フォーマルと言うよりはラフな感じだ。ともすれば、初めて二人を見る人間にとっては的場の方が学生らしく見えるのだろうと思う。
「的場先生こそ、コーヒー片手にブレイクタイムですか? 昼休みはとうの昔に終わっていますけれど」
「はは、君には叶いませんね」
苦笑する的場にこちらに来ませんか、と誘われる。別段急ぎの用事もないので、紅茶を注文し、同じテーブルについた。彼には少し、聞いてみたいことがあったのだ。
「あの、以前ですね。常磐が無断侵入した時のことなのですが」
「ああ、あの日ね。見つかったら逮捕されるとわかってやるんですから、常盤さんは凄いですよね。本当に、執事の鏡のような人だ」
それは1ヶ月前のことだ。令嬢は、拉致される機会も多い。その度に散々な目に遭ってきたが、私の場合は大抵、常磐が解決してくれることが多かった。だけどそれは時に、学園内であっても起こることなのだと知る出来事が起きた。とある普通科の男子生徒が、私を科学準備第二教室に閉じ込め身代金目的の拉致を実行しようとしたのだ。
その時は、常磐により事なきを得たが、帰り際に的場に出会ってしまった。通常なら学園への不法侵入で通報されるレベルであったが、顔見知りであったためか、的場は私たちを見逃してくれたのだった。だけど、気になるのはあの男子生徒だ。私たちは敢えて的場に知らせることはしなかった(これは、的場に話したところで確かな証拠がないためだ)。ここまでは良い。だけど私が気になるのは、それじゃない。常磐によって怪我を負わされた男子生徒の姿が、翌日から消えたのだ。その三日後、風の噂で普通科の男子生徒が一人、行方不明になったと私の耳に入った。
「ええ、常盤は私に従順ですので。それよりも、科学準備第二教室の前に生徒が倒れていませんでしたか?」
「ええっ。誰ですか? 僕は誰も見ていませんが……。それより、成瀬さんはそのような生徒を見かけたんですか? だとすれば、一大事ですよ」
的場が何か知っていたとしても、答えるとは思えなかった。だけどこれはあまりに読み取れない。的場は少し困ったように微笑しているが、これがなんとも言えないのだ。一言で表現するのは難しい。例えるなら、仮面舞踏会で知り合いに遭遇したときのような。そんな胡散臭さが的場からたまらなく感じられるのだった。――案外、頭の切れる男のようです。常磐はそんな風に言っていたが、あながち間違いでもないらしい。無言の中に、これ以上は立ち入るなという警告が聞こえてような、そんな空気が流れていた。
「そうですか。それなら良いのです。いいえ、きっと夢でも見たのでしょう」
常磐の中に見え隠れする、ゾクリとするような冷たい何か。それに似た何かが、この男性教師にもある。私はそんな気がしてならないのだ。
「ところで、成瀬さん。常盤さんって君がいない間は何をしているのかな」
「大学に行ってますよ。今、確か3年生だったはず」
「ええっ。彼、学生なんですか? 僕よりも年下ってことですよね。てっきり年上かと。ああ、じゃあ今度会うときは常盤くんって呼んだほうがいいのか」
「常磐は気にしないと思いますよ」
やはり、男性の目から見ても常磐は気になる存在なのだろうか。常磐もまた、的場に興味を持っている様子であったことを思い出す。少し、面白くない気がする。そんな考えを、真っ向から否定した。いや、本当の彼を理解できるのは私の他にいないし、そもそもたかが執事に対して何を焦っているのか。確かに、常磐を失うのは惜しいが成瀬家には優秀な執事は沢山いるではないか。ああ、だけどもしも常磐を失ってしまうとしたら、その前に。そんなことを考えていたら、どうにも焦点が外れてしまっていたようだ。
「――成瀬さん? 大丈夫ですか」
「ああ、失礼しました。具合が悪いわけではありません」
「それは良かった。ほら、時期に授業が終わってしまいますよ。教室に戻ったほうがいい。僕も、次の授業へ向かいます」
そう言って的場が席を立ったので、私も腰をあげる。つかの間の休息はあっという間に過ぎたのだった。
今日も、気絶することなく無事学校を終えることができた。これは私にとって良い傾向だ。そんなに頻繁に倒れているわけではない。まして、古傷が痛むことも希なことだ。だけど、いつ来るのか未だに把握しきれていない部分が多い。
それは、私にとって恐怖だ。痛みとは長い付き合いである。実際に痛みが来た時に、何時ものことだ、付き合うしかないのだと割り切るができるようにはなった。だけど、それ以上に不安なのは、それがいつ来るか予測できないということだ。今日は何事もなく平和に学校を終えることができるだろうか? それは結構、私の思考の大半を占めている。授業中はまだマシだ。一つのことに集中しているときは、少しだけ傷の存在を忘れることができる。でも、休み時間などふとした瞬間、集会のとき。私は言いようのないジリジリととろ火であぶられるような不安に苛まれることがあるのだ。
体が強くないことと、他に習い事が沢山あることから部活には入っていない。真っ直ぐに玄関に向かいリムジンの停留所へ向かうと、リムジンはまだ来ていないようだった。――常磐なら、ジャストタイムでリムジンを横付けするのに。ついそんなことが頭をよぎる。私はたまに、常磐に甘えすぎていると実感する。そんな時いつも自問する。完璧すぎる執事に慣れてしまって、ほんの少しの我慢ができなくなっている。いつまで常磐を縛っておくつもりなの? 彼はそれで幸せ? 考えて、答えなど本人しか知らないのに、と言うところに辿り着くところでいつも終わる。怖いのだ。本人にそれを質問して、いざ手放すことになったら。私はどうなってしまうだろう。いや、そこまではまだ彼に依存していないはず。大丈夫よ悠鳴。常磐がいなくたって、執事長のことだって、メイドの花のことだっているじゃない。
そんなことを考えていたから、油断していたのだろう。私は背後に忍び寄る影に気づいていなかった。令嬢たるもの、一人でいるときはいつも周囲に目を配り、身の安全に努めなくてはならないのに。後頭部付近に何かの気配を感じて咄嗟に避ける。視界の端で、金属バットのようなものを捉えた。振り返った先に、そいつはいた。だけど、目があった瞬間に腹部の傷が痛み始めてしまう。こうなるともう、身動きが取れない。足元から崩れ落ちる。私は薄れゆく意識の中、諦めにも似た感情を抱きながら目を閉じた。
次に目を開けた時は、視界は真っ暗だった。これは最悪のケースで、布か何かが両目を覆っているパターンだ。しかも、手足が拘束されている。これまで、10回程度誘拐にあったことはあったが、その中でも視界を奪われて拘束されているパターンが一番辛い。自分がどこにいるか把握できない上に拘束されていてはこっそりメールを打つこともできないからだ。どうにも、頭の切れる人物が犯人のようだ。倒れる前に目があったはずだが、顔はよく思い出せなかった。これも痛恨のミスだ。もしも犯人が逃げてしまった場合、顔を覚えていないので探しようもない。しかも、まだ古傷が痛いだなんて。これではいつまた気絶してしまうかわからない。と、耳に犯人らしき男が実家と連絡をとっているのだろうか、男の声がしたので耳を澄ませる。
「ええ、そうです。50万ですよ。忘れずに。場所はB倉庫です。ええ、19時に」
なるほど、どうやらここは学園から約10キロメートル先の港にある倉庫らしい。車で来れる場所で良かった。これなら、常磐が駆けつけられるだろう。それよりも気になるのは、父に身代金を請求するとしたら安すぎることだ。50万円など、父のポケットマネーで出せる金額なのだから。
その違和感はやはり気のせいではなかった。それから約10分して私は目隠しを解かれることとなったのだ。だが、それは助けが来たわけではなかった。そこには、常磐ではなくある人物が立っていたからだ。電話をかけていた男の姿は、もうなかった。
「こんばんわ、成瀬悠鳴さん」
「こんばんわ。確か灰島俊雄くんですね。私を殴った愚か者は……もう逃げたのかしら」
その男は、私の同級生である。特Aコースに所属し、テストの順位では私と良い勝負だ。いつも私が勝っているが。とは言え、1番2番のようなレベルの高いものではない。せいぜい、5・6番を競い合う程度の中である。
「ああ、彼には感謝しているさ。へえ、俺のこと覚えていてくれたのか」
「ええ、テスト結果の張り紙でよく見かける名前だもの。それで、50万円も大金を支払って私を助けてくれる……訳じゃなさそうね」
灰島の手には、ナイフが握られていた。隠すことなく、だけど構えることもなく、ただ自然に手の中に収まる形で。
「ああ、成瀬さんには消えてもらおうと思って。君のせいでいつも5番になり損ねる。両親に怒られたくないんだ」
まるで私に危害を加えるつもりなど微塵も感じさせない、そんな口調だ。それが逆に恐ろしい。ブルリと震えそうになっているのに、こんな時でも私の口は減らない。
「あら、いいの? 空手2段は侮れないわよ」
「君が武闘家だったとは初耳だな」
そう言って灰島はナイフを握り返す。刃がぬるり、と鈍く光った気がした。次の瞬間、勢いよく切りつけてくる。咄嗟に避けたものの、恐怖で足はすくみよろけて転んでしまった。口ではどうでも言えるけれど、体はどうにもならない。刃先が、首筋に当てられた。睨むように見上げると、同時に、鋭い痛みが腹部を襲ってきた。ああ、なんてことだろう。こんな時に!
「本当に武闘家なのか? それにしては鈍い。まあいい、楽に越したことはないさ。ほら見て。刃先が食い込んでいく。何故だろうね、君の肌は他のそれよりもサクッとしていて……甘美だ」
「……っ他にも?」
「ああ、中学の時に三人くらいかな。皆君と同じ理由さ」
首の痛みよりも、古傷の痛みで気を失ってしまいそうだ。だけど、案外そっちのほうがいいのかもしれない。気を失っている間に死んでしまえば苦しくないのかも。そう思って、全体重を灰島に委ねようとした。
「貴様!? な……ぐっ!」
ナイフから解放されると共に不思議と痛みが取れ、ふわりと体が浮上する。
「お嬢様、お迎えにあがりました。貴方もお待たせしました。本物の空手二段ですよ」
その声を聞いてひどく安心する。次に目を開けた時には、私は常磐の運転するリムジンにいた。
「アホか貴様!」
「主人に向かって貴様とは何よ!」
意識が戻り、リムジンの中。通常では勤務中の私語をしないはずの常磐が怒鳴っている。それが妙に嬉しい。
「何でこう毎回誘拐されるわけ!? 俺がどんだけ探したと思ってる?」
「結果見つかって無事だったんだからいいじゃないの!」
だけど、素直に怒られてやらない。確かに注意不足だった私が悪いけれど、原因は常磐にだってあるのだから。常磐が怒鳴り、私が文句を言う。そんなやり取りが十分以上続けられる。ふと、常磐は静かになった。
「俺が怒っているのはそんなことじゃない、悠鳴。お前諦めただろ」
「何のことかわからない。確かに何の情報もなく私を見つけてくれたことには感謝しているわ。だけど、お礼を言わなかったからっていじけなくてもいいじゃない」
それまでとは明らかに違う口調だ。何時もは真っ直ぐに帰る道のりを、途中停車してこちらに振り返る。目が合ってしまった。その目が思いのほか怒っていることに気づき少し怯んでしまう。常磐が私のことをすぐに見つけられるのは、当たり前だ。常磐の悪い癖は、主に私に反応しているのだから、常磐自身が探知機のようなものなのだ。確かにお礼を言わなかったけれど、私だって本調子ではないのだ。
「そうじゃない。――死んでもいいと。いや、違うな。この件で俺は確信した。悠鳴、お前死にたいと思っているな」
「何のことかわからないわ。いつのやりとりのことなら、冗談よ」
声が震える。相変わらず口は減らないけれど、明らかに動揺を隠しきれずにいた。そんなはずないわ。そんなはず、ない。私は上手く生きているし、常磐もいる。少しつまらない人生だけど、それなりに。――自分に嘘をつくのも、少し疲れた。そう思った。
「いいや違うな。君は死にたがっている。でもそれは俺に殺されたいとかそう言う限定された条件付きだと思っていたのに」
「そんな顔しないで。軽蔑しないでよ」
泣いてしまいそうだ。本当はこんな自分に心底呆れている。嘘でしか自分も、他人も守れない。役に立たない自分が嫌だ。常磐に泣きそうな顔を見られている。ふ、と常磐が優しく微笑んだ。それがボロボロの心と体には、少し応えた。
「節操無しな女性は嫌いです。殺されるなら、私だけにしておきなさい」
良かった、いつもの常磐だ。その表情が、言葉が嬉しかった。暗に、どうしても辛いのなら終わらせてやると、そう言われた気がして。この男には全部お見通しなのだ。私が何を考えているのか、私自身が自覚してしまうよりもずっと前から。
「ええ、ええ。そのつもりよ。例え貴方にそのつもりがなくとも」
リムジンは夜の街を走り始める。常磐はきっと今日のことを父には話さないのだろう。私の首筋には新しい傷が出来てしまったけれど、メイドや執事が上手くごまかしてくれる。これまでもずっとそうしてきたのだから。
「ところで、灰島にお嬢様を引き渡した男は誰だったのでしょう」
「ごめんなさい、よく覚えていなくて」
結局、灰島は逃げたのだろう。それにしても、少々強引だったとは言え、あの男退散の手口まで完璧である。学園内にいたということは、身近な誰かに違いない。
「ええ、大丈夫です。私に心当たりが。証拠はありませんが……これはそうそうに手を打たなくてはなりませんね」
私は目をつぶった。今日は古傷が痛むことが多かった。本当は気づいている。この傷は、ストレス性などではない。私に危害を加える人間に反応しているのだ。だけど、それを常磐に感づかせてはいけない。きっと彼は傷つくのだろうから。
切り刻みたい衝動と戦いながらも、こんなに優しい。常磐は、どこか私と似ている。不安定で、アンバランスだ。私は、思っている以上に彼に依存しているのかもしれない。リムジンの中で揺られながらゆっくりと瞼を閉じた。明日もこの瞼が、開きますように――。
「僕を置いて死ぬなんて許さないよ、悠鳴」
意識が沈む寸前、常磐の声が聞こえた気がした。だけどそれは、翌朝にはもう思い出せなくなっていた。
はじめまして、紗英場渉というものです。
知っている方、お久しぶりですね。
最初この物語は、「戯言マリアンヌ」というタイトルでしたが、いろいろあって先に悪癖(常磐主人公)が出来上がってしまったので、その続編のような形で書いたものです。でも、こっちから読んでも全く問題はありません。
今回もあいつのことは書けませんでした。そもそも書く気はありませんでした。流れ的にはこちらの方が先に出来上がってしまったので、真相には遠い話だからです。
さて、続きをこのまま書くのか、それとも一度休憩して見るのかはまだ決まっていませんが、楽しんでいただけたら幸いです。
それでは。