07
マサキの薦める店へ向かう車に乗りながら、真希は慣れない場所にどこか居心地が悪く感じ、腿の上ある鞄を掴んだ。
彼の車の助手席に乗るのは三度目だ。
一度目は、彼の祖父母宅へ結婚の挨拶で訪問した時。二度目は、今住んでいるマンションへ向かう時。その二度とも会話はあまりなかった。
三度目の今もソレは変わっていない。車の中には、新婚三カ月とは思えない程の重たい沈黙が横たわっている。 緊張で出る唾を飲み込む音さえも聞こえてしまいそうだが、車中に流れるマサキ好みの音楽が、ゴクリとなった喉の音をかき消してくれた。どうせなら沈黙を吹き飛ばすようなハードで陽気な音楽でも流してくれればいいのにと真希の緊張した頭は余計な事を考えてしまう。
(普通の新婚って、こんなに緊張感があるもの?! 普通はお菓子でもつまんで「はい♪ ダーリン♡」とか言うんじゃないの?! ……もしかして、わたし、それが出来ないつまんねぇ女認定されてるとか?!)
咄嗟に真希の手が鞄の中を探る。柑橘のどあめが入っているのを確認したが、真希はそれを手にするかどうかを思い悩んだ。コレを彼の口に放り込むべきだろうか、自分がやってもいいのだろうか、と。普段の自分の態度を思い起こして、背中に汗が一筋流れた。
妻ではあるが、彼の中での、つまんねえ女認定の自分がやって喜ぶだろうかと考えたのだ。
真希は彼の前ではあまり喋らない。というより、必要な事以外は会話してない。かといって、べつに彼の事を嫌いなわけではない。寧ろその逆で、好感度はかなり高いのだ。じゃなければ結婚なんてものはしないし、わざわざ嘘笑いを浮かべようともしない。
真希は無口なわけはなく、奥手で純な恥ずかしがり屋でもない。遊ぶ時には夜通し飲んで遊び倒す今どきの女性だ。彼と会話が無いのは、彼が夜遅くに帰宅するから喋れないというのが理由だ。
その証拠に、ひとりの時は料理を作りながら歌ったり、お風呂に入りながら悦に入ってこぶし混じりの演歌を歌っている。彼が在宅している時には、さすがに恥ずかしくて歌った事はないが。
しかし、今現在真希の隣でハンドルを握る彼は、彼女がそんな事をしているなんて知らない。
彼が知っているのは、無口でおとなしい人畜無害な真希というひと。しかも、必要が無ければ家からあまり出ない。
(……うっわ! つまんねぇ女どころか、根暗イメージ?! しかも家事やってないし。そりゃ浮気もしたくなるよ)
マサキの前では大きな猫を被っているが、本来の真希は口が悪い。江戸っ子気質の爺の傍にいた影響が強いと彼女の母は昔から嘆いていた。
口が悪くて掃除洗濯が苦手で、やったとしても逆にやらなかった方が良かったと言われる腕前。そして、メールのひとつすら返すのが億劫と思っている自堕落。加えて、意地っ張りな上に、自分の考えとは反対のことを言う天邪鬼だ。
客観的に自分の事を思い返して、自分のダメっぷりに真希は情けなくなった。同時に浮気疑惑まで思い出してしまって、胸に何かがつかえて重苦しい。
(わたしって女子力がゼロじゃん。……貧乏くじ引いたと思ってるんだろうなぁ。)
長年の友人が『真希も他人行儀してるんじゃないの?』と言っていたが、客観的に真希の性格を鑑みると、そうしなくてはもっと嫌われてしまう。第一、結婚して三カ月も経ってしまった。いまさらだ。
真希が、今いる場所がどこだかを忘れて、胸のつかえを出すように大きな息をはきだした。隣にいる人物の存在すら忘れて。
「……すみません。喋り下手で。運転すると特に無口になるんです」
肺に溜まっていた鉛の様な重い空気を盛大にはきだしていると、真希の耳に申し訳なさそうな声が届いた。咄嗟に口に手を当てたがもう遅い。おそるおそる運転席を見ると、マサキが陰りを含んだ笑みを浮かべていた。
(やってしまった……。)
考えた事が直ぐに行動に出てしてしまい、それに動揺して真希は大ぶりの鞄を力任せに抱きしめた。同時に、何とも言えない表情を隠すために、胸に掻き抱く鞄に顔を埋めた。
「あああ……っ! ごめんなさいっ。……今のはですね、その……」
どう言い繕えばいいのか。まさか浮気疑惑を考えての溜息だったとは言えない。つまんねえ女な上に鬱陶しい溜息女と思っているだろう。
真希は言い訳を脳内に巡らせて、更に鞄に顔を押しつけた。
運転席で何かやっているのか、がちゃがちゃとした音の後直ぐに沈黙が車内に流れる。そのすぐ後、彼女の頬にひんやりとした冷たい風が当たった。冷気が漂って来るのは運転席の方角だと気付き、同時にこちらを見続ける視線にも気付いて彼女の頭から一気に血の気が引く。
(……もしかして、笑ってたけど怒ってらっしゃる?! この冷気は俗に言う『怒りのブリザード』ですかっ?!)
あわあわと混乱気味の彼女の耳に、先ほどよりも少し離れた位置から声がかかった。
「着きましたけど? ……気分でも悪いですか?」
「……へ?」
真希が一人で混乱している内にマサキは先に車を降りていた。心配するような、それでいて痛い物を見る様な感じで鞄に顔を埋め続ける彼女を覗いていた。
先ほどの冷たい風は、巷の本に載っている怒りのブリザードなどではなくて、彼が扉を開けたことによって車内に入ってきた風だったのだと真希は気付いた。
(は……はずかしい。)
一人相撲をやった気分になり、瞬時に真希の頬が赤く染まった。顔全体が熱い。
ココが暗がりでよかったと考えながら、真希は冷たい両手で頬を押さえて熱を吸い取ると、屈んでのぞきこんでいるマサキに大丈夫だと伝えて車を降りた。
*****
マサキが真希を連れてきたのは、個室の座敷が完備されているまだ新しい居酒屋だった。
個室の種類も豊富にあり、ベンチシートで床張りの部屋があったり、大人数でカラオケが楽しめる部屋や、子供連れでも来店できるようにキッズスペースのある部屋もあった。
木の温もりが感じられる内装で、老若男女問わないであろう店内は、たくさんの客たちでガヤガヤと賑々しい。仲間内で飲みたい時などに向いていそうな佇まいである。
彼はこんな店に来るのかと、真希は物珍しげにマサキの後ろ姿を見ながら歩いた。店員に案内されて、細い通路を通りいくつかの部屋を通り過ぎた時、不意に真希の耳にどこか聞き覚えのある声が入ってきた。
(この声……。マサキさんの……!)
少し高音の、アニメの声優の様な可愛らしい声。
一度聴いたら耳に残ってしまうような、そんな癖のある声だった。
マサキの医局で聞いた声だと認識した瞬間、真希の顔がぱきりと強張りモヤッとしたものが胸にこみ上げた。
「すいませーんっ! 追加注文……って、あっ! マサキ先生じゃないですかぁ?! 奇遇ですねぇ」
声の主が、マサキに気付いて、両手を振ってこっちだとアピールしている。
固まっている真希に気付いていはいないようで、マサキは立ち止まってゆるりとその声の方を向いた。
「……ああ、篠田先生。今日は日勤だけだった? 俺のかわりに残ると思ってたんだけど」
「まっさかぁ! 明日は休みだから断りましたって。公休前の夜は遊ぶためにあるんですよぉ?! 今日は同期の皆と一足早い忘年会でっす! マサキ先生も良かったら一緒にどーですかぁ?」
篠田先生と呼ばれた女性は、ふすまから顔をのぞかせてマサキに笑いかけた。酔っているのか顔が赤く、大ぶりの目がトロンとしていた。
どうやら真希の事は目に入っていないらしく、マサキの腕を引っ張っている。
(この女性が、マサキさんの浮気相手……?)
真希の目の前で仲良さ気に会話する二人は、おそらく長い付き合いなのだろう。腕を掴む仕草も、それを払おうとしている彼の仕草も慣れている。なにより会話が自然だ。真希と話す時のマサキとはどこか違う。
母親に折れて自分と見合いさえしなければ、彼と結婚していたのは目の前の女性かもしれない。そこまで考えてしまって、真希はムッとした表情を浮かべた。
鞄の持ち手をギュウと掴み、苛々とする心を押さえていると、ふすまの向こうから数人の声が聞こえることに気付いた。どうやら、女性だけではなくて男性もいるようだ。
(忘年会って病院関係かな……)
男性がいると知ると、途端に金縛りのように固まった身体から力が抜けた。現金なものだ。浮気相手がいるのなら、離婚を切り出そうとしていたのに。
病院の忘年会ならば彼は出席するべきだと思い、未だに腕を掴まれているマサキに腹を立てながらも声をかけた。もちろん作り笑いは忘れない。
三十になるまで独身だったのだ。おひとり様なら慣れている。焼き肉店でも、牛丼屋でも、ラーメン屋でも入れる。もちろん、居酒屋でも。
「……あの、わたしはひとりでも大丈夫な人ですから、マサキさんはこちらで……」
「とんでもないっ! 真希さんには聞きたい事が……あ、いや、真希さんと食べたいものがあるんです!」