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06

 なんという僥倖だろう。マサキは昨夜耳にした言葉を思い出して、それまで目にしていたカルテ達から視線をずらして頬を緩ませた。

 彼女は言ったのだ。マサキが聞かせて欲しかった言葉を。細く頼りない、今にも消えてしまいそうな声で。家にいるほぼ毎晩、敬称なしの名前を呼ぶ練習をしつつ、睡眠学習宜しく眠っている彼女に愛を囁いていて良かった。

 マサキは夢見がちな乙女の表情を浮かべて、うんうんと頭を振った。

 重い症状が載ったカルテを手にしながら、鼻歌を歌いそうな彼の向けた視線の先には、どこか硬い表情で笑う妻の顔があった。顔と言っても銀縁フレームに入った写真だが。

 友人に頼んだ写真だから目線はこちらを向いていないし、笑顔を浮かべていても憮然とした態度で映っている。だが、いつもの作り笑いではなくて真希の素の笑顔が映っているから、マサキはこの写真が気に入っている。

 そんな彼女を包んで飾っているのは、要所にちりばめられたスワロの装飾が美しい、染み一つ無い純白のドレス。ちゃんと求婚の返事を聞かせてくれたにもかかわらず、最後の最後まで結婚を嫌がっているのか、着るものなんてどうでもいいと言い切った彼女に焦れてマサキが選んだ一着だ。

 マサキひとりで何度も衣裳部屋に足を運び選んだそれは、彼女の柔らかな身体の線を露わにし、溜息がでるほどに彼女を美しくさせてくれた。



「……またそれを見てるのか。飽きないな」


 結婚式の写真に魅入っていたマサキの耳に、掠れた声が入ってきた。

 その声はいつも机の上の写真に魅入っているマサキに対して、呆れも滲んでいる。声の主が一歩マサキに近づくにつれ、独特の煙草の匂いがマサキの鼻腔をくすぐった。

 独特の掠れた声だけでも誰かは推測できたが、そのタールの匂いで訪問者を特定した。高校時代からの腐れ縁で、マサキの見ていた写真を撮ってくれた友人の藤堂祥太郎だ。元は彼も外科医を目指していたが、途中で進むべき道がわかれて今は整形外科医になっている。

 藤堂はマサキの机前に来ると、何でも無いように煙草臭の染みついた白衣の腕を写真に伸ばした。ハッと気付いたマサキは、その手を虫か何かの様に軽くはたき落として、雑菌でも見る様な視線を向けながら写真を藤堂から遠ざけた。



「……普段は見れない表情なんだから飽きるわけないだろう」

「ほほぅ。意味深な発言だな。『階段ちゃん』はいつもどんな表情してんだ? 大学の時は、泣いてるか笑ってるかのどっちかだったが」

「……いや。いつも笑ってるさ」


 真希の事を藤堂はいつも『階段ちゃん』という。それは、最初の出会いが階段だったからに他ならない。恐らくそう呼ばれている彼女は気付いていないが。

 マサキは先ほどの言葉に、いつも顔に浮かべてるのは作り笑いだけど、と加えたいのを堪えて、傍に立っている藤堂に此処に来た用件を聞いた。

 整形外科と外科の医局は階が違うのだ。用件が無ければこんな場所まではくるはずがない。

 藤堂は今は留守にしている隣人の椅子をとりだして、ドカリと座り込んだ。そして、腕を組んで顎を触った。思った事をずけずけと言う藤堂には珍しく、何かを言い淀んでいる。

 そんな彼の珍しい態度を前に、マサキは怪訝な表情になるのを止められない。どうしたと促すと、ようやく藤堂は口を開いた。



「俺さ、準夜勤なんだわ。んで、さっき此処に来たんだけどよ、……見かけたんだよ『階段ちゃん』。何か変なのと一緒にいたぜ?」

「……変なの?」


 何だというんだ。着ぐるみと一緒に歩いていたというのか。スーパーのマスコットキャラの着ぐるみだろうか。

 マサキのそんな疑問は顔に出ていたらしい。容赦ない藤堂の手の平に頭をはたかれた。スパンと小気味いい音がさほど広くは無い部屋に響いた。



「阿呆。えらくガタイのいい女だ。……でもよ、女にしては妙に違和感があってな。思わず観察しちまったよ」

「……ふぅん」

「なんだよ。お前の嫁さんが、男みたいなガタイの女とデートしてたのに、興味なさげだな」

「…………はぁっ?! デート?! 誰と誰が?!」


 思わず机を叩いて立ち上がっていた。衝動的に隣の椅子で腕を組む男の胸倉を掴むと、ゆさゆさと揺すぶった。苦しがる顔など目に入っていないようだ。

(誰かと出かけるなんて聞いて無い。しかも……デート?! 男みたいなのと?!)

 一瞬自分の耳が壊れたかと思ったが、耳は聞こえている。そう考えて、危機迫る勢いでマサキは藤堂の巨体を揺すった。

 揺すられている藤堂は、椅子からずり落ちそうになるのを片手で止めながら、首元を掴むマサキを残る片手で必死に制止した。


「―――うぉっ! ちょっと待てっ」

「待てるかっ! 誰と誰がデートだって?」

「だから、『階段ちゃん』と、女にしては妙にガタイがいい女が、仲良くケーキ食ってたんだよ……っ! 変な女が、最後に自分の食ってたケーキを『階段ちゃん』の口に押し込んで……」



 藤堂の言葉に、マサキの腕が止まった。さっきまでの幸福感など、宇宙のかなたに吹き飛んでしまった。今はまさに、暗い暗い地獄への扉がマサキの前に現れた心境だ。

 冗談だろう、と呟き、目を見開いて藤堂の顔を見た。それが嘘ではないとわかると、足早にロッカーに向かった。そこに入れてある鞄からスマホをとりだして、何度か指を滑らせると耳元にそれを当てた。どうやら真希に電話をかけているらしい。

 何秒かして留守電に切り替わったのだろう、舌打ちして耳から離すと、再度画面に指を滑らせて耳に当てた。何度もそれを繰り返すと、マサキが絶望的な表情浮かべた。

 

「……電源が切れた」


 そう言えば今朝は、寝起きでしゃんとしていない姿を見られて焦ってしまったのと、昨日の言葉に浮かれて彼女の事を良く見ていなかった。

 彼女は自分を送りだす時に、幾分か暗い表情をして無かっただろうか。それと藤堂の見たデートなるものは関係があるのだろうか。結婚する前から浮かべ続ける彼女の作った表情を見る限り、嫌な予感がしてならない。

 マサキの頭に、考えるのも嫌過ぎる『浮気』という漢字二文字が頭をよぎった。しかし、彼女がそんな事をするわけがない。昨夜、自分の望んでいた言葉を言ってくれたばかりではないか。

 混乱したマサキは、前髪をクシャリと乱して睨むように藤堂を見た。そして、緊張を孕んで掠れた声で唸るように問う。


「……藤堂。彼女と一緒にいたのは、女だったんだよな?」

「うぅーん……? 女にしては骨格に違和感があるが、服と顔は女だったぞ」


 乱れた服を直した後に、顎に手を当ててほんの数秒考える仕草をすると、グッと親指を立てそうな勢いでマサキに答えた。

 マサキはその立てられた親指をへし折りたくなった。

 

「なんだよ。はっきりしろよ! お前それでも医者か!」


 

 マサキは今すぐに家に帰りたくなった。帰って真希に問い詰めたくなったのだ。

 誰と出かけていたのか。どうして途中から電源を切ったのか。そう聞きたくてしょうがない。

 今日も、とある目的の為に準夜勤もするつもりだったが、それは辞めて早く帰ろうと決めた。

 終業までの残り数時間を危機迫る勢いで乗り切って、マサキは走るように車に乗り込み家路を急いだ。


 マンションの駐車場に着き、エレベータのボタンを押す。待っている間は一秒がとても長い。一秒が一分に感じる。一分が一時間にすら思える。

 なかなか来ないエレベーターにしびれを切らして、階段に向かおうとした時、銀の扉が静かに左右に別れた。

 自分の家の階を押して、閉じるボタンを連打する。それでもなかなか望む階には着いてくれない。逸る心を露わす様に、マサキは自分の入居する階のボタンも連打し続けた。

 家に入ると、部屋は暗かった。誰もいないとわかっていながら、マサキは家じゅうの扉を開けた。ベランダには洗濯物が干されたままだ。昼ごろに洗濯をしまうと聞いた事があった。恐らく昼前位からいないのだろう。そう考えて、外で待つことにした。

 あわよくば、彼女と一緒にいたであろう藤堂が語っていた『違和感のある女』を見れるかもしれないと思って。

 エントランスで真希を待っていたマサキは、ガラス戸にべったりと張り付いて外を窺っていた。通り過ぎる人達の視線はまさに不審人物を見る目になっていたが、彼は気付かなかった。

 


 三十分程待った頃だろうか、外が暗くなってきて今度は彼女の身に何かがあったのではないかと思い始めた。

 スマホを操り電話をかけるが、まだ電源が入っていないのか繋がらない。心配とヤキモチにも似た気分でヤキモキしていると、真希がアーチの向こうから俯き加減で歩いてきた。

 しかし、不意にアーチの下で止まった彼女は両手を見て驚いた表情を浮かべた。そして、もときた方角へと振り返った。再びどこかへ行こうとしているようすだ。

 マサキは思わず走って彼女の腕を引いた。

 柔らかな彼女の腕を掴んだ瞬間、聞きたい事が溢れてきた。今日の事だけじゃなく、今までの事も含めて。

 どうして携帯の電源が入っていないのか。

 誰と何処へ行っていたのか。

 どうしてメールを返信してくれないのか。

 どうして……嘘で塗り固められた表情しか見せてくれないのか。

 しかし、マサキの口から出たのは普通の言葉だった。


 

「……どこに行くんですか?!」



 マサキの荒れ狂う海の如く心境など知らない真希の返事は、マサキの杞憂を少しだけ払うものだった。

 携帯が通じないのは、単なる電池切れ。

 踵を返して走り出そうとしたのは、夕飯の買い忘れを思い出したから。

 彼女の言葉を聞いた瞬間、膝をついて笑いだしたくなった。そうだ、彼女はこんなひとだった。何を慌てていたのだろう、と。

 しかし、まだ別の心配が残っている。

 誰と今まで一緒だったのか聞いていない。藤堂が言っていた『ガタイがいい女』の事を聞かなくては。

 マサキは波立つ心を押さえて、彼女を車に乗せて夕飯に連れだした。

 


 

 


 


 

 

 

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