05
友人に手助けをして貰おうと相談したつもりだった真希は、逆に説得されてしまった事にどこかスッキリしない感情を抱えながら、胸に抱えたモヤモヤを晴らすべく寄り道をしながら家路についた。
自宅そばの駅から電車を乗り継ぎ、マサキと住んでいるマンションが見えた頃にはすでに自分の影が長くのびて辺りが赤くなっていた。かなりゆっくりしすぎたらしく、太陽はかなり低い位置に居てその周囲は藍色が入り混じっている。
マンション前のレンガで出来たアーチを潜った瞬間、真希はこの時間帯に手にしている筈のものを持っていないのに気付いて踵を返した。
(しまった。晩御飯の材料を買って無い!)
近くのスーパーに急ごうと走り出そうと足を踏み出したその時、彼女の腕が後ろにグンと引かれた。それと同時に、頭上から焦りを含んだ声が降ってきた。
「……どこに行くんですか?!」
「――――――ひゃあっ! ……って、マサキさん?! こんな早い時間にどうしたんですか? 駐車場はこっちじゃないですよね」
真希が驚いて振り向くと、マサキが普段とは違う表情を浮かべていた。眉を吊り上げて、一重の切れ長の瞳は険しい。口元は引きしめられている。怒っているのか、冷淡ともとれる表情だ。黒い葬式ルックと背景を照らす仄かな夕闇が、その表情を引き立たせてさらなる凄味を持たせた。
マサキよりも二十センチ程身長が低い真希は、そんな表情で彼に至近距離で見下ろされて、つい身をすくませてしまった。
全身で驚きを表現して身を硬くした真希を見て、マサキはそれまで浮かべていた冷淡な表情を少しだけ和ませて、掴んでいた腕を放すと、前髪をくしゃりとさせて口を開いた。
「……朝から様子がおかしかったですし、メールを送っても返事が無いから何かあったのではと思って早く帰って来たんですよ。家に入っても真希さんが居ないし電話しても繋がらないし、探しに行こうとした所だったんです」
「ええっ?! 電話しました?」
無事でよかった、と言いながらマサキは驚いている真希の肩に手を当てて、釣り上がった眉を下げて安堵の息を漏らした。
かなり心配をしていたらしく、いつも小ぎれいにセットされている艶々な髪も、先ほど触った部分以外で少しだけ乱れている。いつもは首まできっちり閉めているネクタイも緩まっているし、ひとつ目のボタンも外されている。心なしか額にも汗が滲んでいるようだ。
そんなマサキを見て真希は何とも言えない気分になった。
(……幼児になった気分)
今の彼は迷子になった幼児を心配する親のようだ、と苦笑しながら心の中でツッコミを入れて、真希はマサキからの着信を確認するために鞄の携帯をとり出した。
携帯を見た彼女は瞳を和ませているマサキとは逆に、驚いて目を見開いた。あまりに驚き過ぎて、手にした携帯と鞄を落としそうになったくらいだ。
(電源が入って無いっ! そう言えば、最近充電した記憶が無い……。)
面倒だからとつい充電するのを忘れていた。そうだ、今朝の時点ではまだ電池がひとつあったから、今日はまだもつと思っていたんだった。
恐らく、ひとつしかなかった電池はマサキの着信によって消費されてしまったのだろう。さっきの慌てようからして、かなりの着信があったに違いない。
疲れて帰ってきた筈なのに、また自分のせいで迷惑をかけてしまったと真希は途端に重くなった頭を抱えたくなった。
「それで、真希さんはどこへ行くつもりだったのでしょうか? 急いでいたように見えたのですが」
両肩に手を当てて彼女を見降ろすマサキの言葉に、真希は自分が何をしようとしていたのか思いだした。自堕落な自分の性格を悲観している場合ではない。夕飯を作るのは、自分に出来る唯一の家事なのだ。
真希は、自分の中に流れる重たい気持ちを隠すように、得意の営業スマイルを浮かべた。
前職がサービス業でよかったと真希は心底思う。どんな事を考えていても嘘笑いを浮かべるのも、空元気を装うのも容易だから。
「買い物に行かないと! ……ごめんなさい。夕飯の買い物するのを忘れてて、……今から行ってきますね。マサキさんは先に家に入っていてください」
じゃあ、と真希は身を捩ってマサキの手を肩から外すと踵を返した。しかし、マサキはまた腕を掴んで引き留めた。再び腕をひかれた意味がわからない真希は、戸惑いがちに腕の先に視線を移す。マサキは先ほどまで浮かべていた冷淡とさえ感じる表情を緩めて、いつもの和やかな笑顔を浮かべていた。
「たまには外で食べましょうか。仕事も早く終わったし、ドライブがてらに行きましょう。何が食べたいですか?」
「…………え?」
突然のマサキの提案に、真希は戸惑った表情を隠せない。
なぜなら、初めてマサキから外食に誘われたからだ。結婚前は、ほぼ完全にすれ違った生活をしていたせいで、外食はおろかドライブすらした事が無かった。現地集合現地解散が常だったからだ。
「……嫌なんですか? それならスーパーまで送りますが」
真希が戸惑った表情を浮かべているのを見て、マサキは外食が嫌なのだと勘違いをしたようだ。先ほど下がった眉が更に下がった。首を傾げて困ったその顔に哀愁さえ感じる。どうやら本気で困っている様子だ。
自分の浮かべている表情は、初めての事で戸惑っているだけだというのに。冷淡な見た目に反して、首を傾げる仕草とその表情は反則だろう。嫌がっていたはずの結婚を決めた時の事が、不意に真希の頭をよぎった。
(ギャップ萌え……。)
そう考えたらどこか可笑しく感じて、先ほどまでの情けない気持ちが吹き飛んで、真希は笑ってしまった。
「……ふっ。ふふっ。たまには外で食べたいです」
「そうですか。じゃあどこに行きましょうか。俺は何でもいいですが、真希さんは?」
明らかにホッとした表情をしたマサキに、真希は家では作れないものを頭に思い浮かべた。
(脂がこってこての豚骨ラーメンとニンニクたっぷりの餃子……は無理だよね)
真希は目の前のマサキの服装を見た。黒いスーツの値段は知らないが、その生地は質が良い感じがする。そんなスーツを着た人間をニンニク臭のするラーメン屋に連れて行くのは憚られる。真希が頭に思い浮かべたのは、かなりぼろい佇まいで、中に入るだけで油臭が服に絡みつく中華飯店だ。とりあえずそこは却下だな、と考えた。
(……いや、そもそも葬式ルックで入れる店って、どこ?! 仕出し屋? 料亭? ……和食か!)
和食ならいつでも作れるじゃないか、滅多にない外食だ。どうせなら行ったことも無い店に行きたい、とまたまた考えを巡らせた。
真希の行きたい店とマサキの葬式ルックが合わない為に、なかなか行きたい場所が纏まらない。顎に手を当てて唸りだした真希を見て、マサキは堪え切れないという風に笑った。
マサキは懐からスマホをとりだすと、検索画面を開いた。どうやら店を探すらしい。
「はははっ。……真希さん、どんな感じのものが食べたいんですか? あっさり系かこってり系。まずそちらから決めましょう」
「……うっ! ……こってり系が食べたいです」
「少し冷えますから、温かい物がいいですね」
こってりとでも入力しているのだろうか。マサキの指は画面をするすると滑っている。
「じゃあ、ピザや中華、欧風の煮込み料理……あ、鍋もありますね」
「……鍋、がいいです。家だとあまり食べれないし」
「鍋ですね。……ああ、それなら調べなくても良い店を知ってますよ。そこに行きましょう」