04
午前中のショックがなかなか抜けないまま、真希は友人を実家近くのカフェに呼び出した。
このお店のランチの時間帯は、店外に行列ができるほど混み合っている。それは、テレビや雑誌で取りだたされた程だ。昼を過ぎた今はそこまで混んでいないが、ここのケーキ目当てに来るお客でそこそこは賑わっている。
ここのケーキセットは真希が幼稚園の頃からのお気に入りなのである。
昨年になって先代が亡くなり、今はホテルで経験を積んだ息子が店主を務めているが、ケーキを作る人間が変わっても、レシピは受け継がれているようで味は変わっていない。
この店のケーキは、絶妙な砂糖加減と生クリームにバターが少量加わっている硬めのクリームが絶品なのだ、と真希は思っている。
紅茶もティーバックではなく、乾燥フルーツが入った花茶を使っている。
視覚と嗅覚で見る者を楽しませるだけでなく、味覚でも楽しませてくれるこの花茶は、可愛らしくそして南国を思わせてくれる。乾燥した花が開く瞬間は何度見ても飽きないし、味もお茶独特の苦みが少なく、乾燥フルーツとハーブ類が沈んだ気分を浮上させてくれる。そして何より、ここのケーキと良く合うのだ。
真希が雑誌の編集者ならば、ランチよりもケーキセットを雑誌に載せるだろう。
実際、結婚前まで勤めていたパチンコ店の景品に、この店のケーキセットのサービス券を押した事もある。
それくらいに美味しく、皆に勧めたいケーキとお茶なのだ。
真希が花茶とケーキのクリームを堪能していると、向かいの席に座った友人が、呆れた顔でため息ともとれる長い息を吐きだした。
「……あんたそれ、三つめじゃなかった? 太るよ」
「怠惰な生活をしすぎたお陰でもう太ってるし。三ヶ月で三キロ増よ。三キロッ! ……それにね、今は食べなきゃやってられないのよ」
「……ああ。旦那様が浮気してるかもしれないし、邪魔者扱いしてるってやつ?」
考えすぎだよ、と軽く言う友人に向かって真希は据わった目を返した。そして、ケーキに向かって勢いを付けてフォークを深々と突き刺す。持ち手がほぼケーキに埋まったフォークは、まるで銀の蝋燭のよう。
「早起きしたら気まずそうな顔をされ、洗濯を干そうとしたら全力で拒否され、……浮気疑惑に至ってはいまいちぱっとしないけど、とっても親しそうだった」
「……ふぅん。そんなちっちゃな事で落ち込んだり嫉妬するだなんて、あんたは旦那様の事が好きだったのね。結婚する直前まで『どうして私があの人と?!』ってのが口癖だったのに」
フォークを真希に向けて、友人はニヤニヤと笑った。瓶底黒縁めがねで勤勉真面目なお局様の、腐臭漂う黒歴史ノートを見つけた時のように至極楽しそうに。
「なっ! まだちょっとしか好きじゃないわよ! 毎日朝昼夜とメールをくれるし優しいから情が湧いただけよ! それに、これは嫉妬なんかじゃなくてただ単にイラッときただけだし! 結婚してるのにいつまでも他人行儀で、いつも葬式みたいな服着てるし、ここ最近帰りが遅いし、あんたが墓に足を突っ込んだとか浮気とか抜かすから気になって見に行ったら、嫁よりも親しげに話してるのを間近で聞いちゃったからっ!」
息を荒く捲し立てる真希を見ながら、友人はケーキを口に運び、憤る彼女を前にニヤニヤとした笑顔を崩さない。
からかわれていると思った真希は、机をバンと強く叩くと、身を乗り出しながら全力でもって否定したつもりだった。他人には、旦那にもっと親しく接して欲しいという、惚気にしか聞こえないというのに。
「夢の中では『さん』なんて付けずに呼んでくれたから、嬉しくなって早起きしようって思ったのに。実際に早起きしたら『は? 何で起きてくんの?』って顔したのよ?! 嘘笑いかますし! ご飯だって私よりも美味しく作るし、洗濯だって皺が無いように干すし手早いし、掃除だって床が光るほど磨かれてるしっ。私が寝た後に帰ってきても私よりも早く起きるしっ!」
一度喋り始めてしまうとなかなか止まらない真希は、友人のケーキが残り一口となるまで、惚気とも言える言葉を店内に響かせ続けた。
バイトであろう店員や、真希の事を幼い頃から知っている店主が、声の主を見ながら苦笑いを浮かべている。白髪交じりのダンディな店主は「若いなぁ」などと温かい目で呟いていた。それに気付いた友人は浅い息を吐きだして、勘弁してくれとばかりに、一向に閉じようとしない真希の口の中に残り一口となったケーキを押しこんだ。
「―――むぐっ?!」
目を丸くして静かになった真希を前に、友人は鞄から煙草を取り出すと火を付けた。
薄い口に加えられたそれから紫煙が揺らめく。友人は灰皿を手にしながら、誰もいない窓の方へと息を吹きだした。そして、鳥肌が立つほどの惚気話へと脱線してしまった話を元に戻すべく口を開いた。
「…………要するに、見に行ったわけね。とんだ行動力ね。で? あんたはどうしたいわけよ。言っとくけど、親しそうだったって理由で浮気もしくは不倫は気が早いわよ。朝食や洗濯と掃除だって、あんたが極限に苦手なのを知ってやってくれてるかもしれないじゃない」
友人のどこか説得するような言葉を聞いて、真希は少し思案するような顔つきになった。当てが外れたという表情だ。おそらく真希と一緒に怒ってくれると踏んでいたのだろう。
『浮気疑惑発覚。大切な相談に乗ってくれ』と呼び出された友人は、色んな意味で嫌な予感がしていた。
結婚して三カ月。その毎日とも言える日々を、友人の携帯は真希からの愚痴メールや文句交じりの惚気メールを受信していた。主たる内容は、彼が黒いものしか身につけないとか、よくわからない彼の七不思議であったりだったが。
真希自身のメールによって、マサキと彼女の新婚生活は筒抜けだった。なんだかんだと文句を言ってはいるが仲がいいじゃないか、と安心していたが、今朝のメールでそれは覆された。
今朝届いた真希からのメールを見た瞬間、にわかには信じれなかった。傍から見て彼女を溺愛しているであろう旦那の浮気なんて。
しかし、真希の生活態度を良く知る友人の脳裏に、結婚前の彼女の生態がよぎった。冗談抜きにあり得るかも、とも思ったのだ。
それもあって、法律事務所に勤める自分を『大切な相談』とやらで呼び出すなんて、とケーキを平らげ続ける真希を前に嫌過ぎる二つの漢字が頭をぐるぐると回っていたのだ。
平穏をこよなく愛する自分を妙な問題に巻き込むのは止めてくれ、と友人は額を押さえた。
「どうせ、自堕落な自分が奥さんで申し訳ないわ~とか考えた挙句、浮気相手が出来たんなら別れる口実が出来た、って考えてたんでしょう。誰にも理由を話さなかったけど、優良物件ともいえる旦那さんと結婚するの直前まで嫌がってたもんねぇ。でも、最後にこの結婚を決めたのはあんた自身なのよ」
「……うっ! な、あんた……エスパーですか?!」
考えを読まれていた事を知り、真希は口元を押さえて驚きを表現した。そんな彼女を見ながら、そんなわけないだろうと友人は呆れかえった表情を浮かべた。
長年の友人だからこそ、手に取るようにわかるのだ。
「……私を誰だと思ってるのよ。だてに三十年以上友人やって無いわよ。ま、そんな私にさえあんたは結婚を嫌がってた理由も、それにもかかわらず結婚した理由も話してくれなかったけどね」
「それは……」
「妙な拘りがあって、旦那さんと結婚したくないって言ったのは気付いたんだけど? あんたは何を拘ったのかしらねぇ」
友人は化粧を施した目を少しだけ細めると、真希を見据えた。
真希は話せと促されているのを肌で感じて、萎縮しながら友人の視線から逃れるように窓の外を見た。
その二人の姿は、傍から見ると警察官と取り調べを受ける容疑者のよう。あと少しだけ問いただせば真希は口を割りそうだと考えながらも、友人は彼女の性格を鑑みて問い質すのを止めた。
意地っ張りで天邪鬼な彼女の事だ。聞いたが最後、墓に入るまでこの時の事を言い続けるに違いない。自分は静かで平穏な人生を歩んでいきたいのだ。友人はそう考えて、ひとまずは真希を説得することにした。
「……あのね? 離婚を考える前に、まずはあんた自身の生活を見直しなさいな。元々は身から出たさびが原因っぽいじゃない。あんただって他人行儀に接してんじゃないの? 話を聞く限り旦那に非は無いし、寧ろいい旦那さんだと称賛できるくらいよ。とりあえず一年は我慢するべきね! 見合い結婚でしょ? そんな短期間で別れたら親の面子丸潰れじゃない」
「……でもね、マサキさんの為にはこんな私が傍にいちゃいけない気が。それに……」
肩をすぼめる真希は、上目遣いで向かいの友人を見た。
怒られて沈んでいる子供のようだ。お前は幾つだよ、と友人は心の中でつっこみしながら、指に挟まって煙をあげている煙草を灰皿に擦りつけた。
「でももへったくれもないでしょうが。『それに』も禁止! 今の真希は、旦那さんが好きだって自覚してるみたいだし。いい加減に結婚前からの拘りを捨てたらいいじゃない。……ま、本当に浮気や不倫してるんなら、力にはなるから」
「―――だから、まだちょっとしか好きじゃないんだってば」
「はいはい。ちょっとでもとてもでも、どっちでもいいわよ」
友人は、真っ赤になった真希の顔を鏡で見せてやりたいと心底思った。いっそのこと、ポーチに入っている鏡を突き付けてやろうかとも。
この話は終わりだとでも言うように、長い足をタイトスカートからのぞかせて友人は席を立った。
真希の長年の友人は、法曹界の若手で忙しい身だ。今日もいくつかの打ち合わせが詰まっているのだ、と零して伝票を片手に会計へと向かった。真希も席を立つと慌てて追いかけて、自分が呼びだしたんだから、と支払いを済ませようとしている友人から伝票を奪い取った。