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02

 足早に廊下を進み、ナースステーションの前を横切ると、マサキの医局を教えてくれた若い看護師に呼びとめられた。


「先生の奥さーんっ。先生と会えました? 医局までの道のりって、私でも迷うんですよ~」


 まさか浮気かもしれない現場から逃げてきました、とも言えない真希は、動揺した心を薄く笑って誤魔化す事にした。

 


「……実は迷ってしまって。だから、これ……しゅ、主人に渡しておいて貰っていいですか?」

「ええっ?! 奥さんの手から渡した方が喜びますよ~。なんなら今から呼ぶので……」

「いいえっ。……その、……気分が悪くなったので今日は帰ります。これ、お願いします!」


 怪訝な表情を浮かべている若い看護師に弁当の袋を渡すと、真希は足早に病院を出た。

 再びタクシーに乗り、家のあるマンションの入り口で降りる。

 走るようにエレベーターに乗り込み、家に入って冷めた夕ご飯を全て冷蔵庫に入れると、マサキが帰宅する前に眠ってしまおうと急いで身支度を済ませてベットに入って目を閉じた。

 暫くすると、サイドテーブルに置いている携帯が震えた。

 マサキからのメールだった。どうやら弁当を食べたらしく、そのお礼と真希の体調を聞く内容だった。真希は、気遣ってくれるマサキに仮病を使った事を悪いと思いながら、返信をせずに目を閉じた。

 パチンコ店勤務で夜型生活が長かった真希は、目を閉じてもなかなか眠れないまま、動揺と後悔と興奮が入り混じった感情を持て余して、寝返りを何度も打ちながらまんじりとした夜を過ごした。

 日付が変わる時間帯になり、玄関の鍵が静かに開く音が響いた。マサキが帰って来たのだ。

(ど、どうしよう?! どんな顔してマサキさんに会えばいいのよ)

 マサキの足音は真っ直ぐに真希のいる寝室に向かってきている。

(どうするっ?! ……そうだ。寝たふりしとけばいいじゃん!)

 マサキの手が寝室の扉に掛かり、静かに開いた。同時に真希は冷や汗を掻きながら、寝たふりというのを演じきる事に決めた。

 寝ているであろう真希を気遣ってか、マサキは出来るだけ音を立てないように彼女に近づいた。そして、ベットの端に座ると、真希の名を静かに呼んで、返事が無い彼女の額に手を当てた。気分が悪いと行って病院を後にしたのを聞いたのだろう。熱の有無を確かめようとしたようだ。額に触れた後、マサキの大きな指が真希の首筋に降りた。

 しかし、まさか首まで触れられると思わなかった真希は、あり得ない程ビクリと身体を震わせた。


「ひゃ―――っ」

「真希さん……?」


 漏れ出た真希の悲鳴にマサキが反応して、慎重に彼女の名を呼んだ。まるで確かめるように。

 真希は内心焦りながら、首筋に冷や汗が流れるのを感じた。  

(……おおうっ! やっちゃったよ。寝たふりってばれちゃったよ……)

 ドコドコと太鼓を打つ心臓。真希は、仮病と寝たふりをしていた、という後ろめたさを感じながら、ゆっくりと目を開けた。

 寝たふりをしていたのに、あり得ない程に思いっきり身を震わせていたというのに、マサキはそれに気付かなかったのだろうか。実に心配した表情で真希を見降ろしていた。

 真希と目が合うと、マサキはふっと仄かに笑って、ベッドにほど近いタンスから、タオルと替えのパジャマを取り出した。

 


「起こしてしまったようですね。……随分脈が速いですが、気分はどうですか? 凄く汗を掻いている様ですが、先ほどまで熱があったのでしょうか。今は熱が下がっているようですが、汗が凄いですから着替えましょう」

「……そ、そうですね」


 あの首筋タッチは脈を測っていたのか。さすがは医者、と真希は動揺しながらもポンと両手を打ちたくなった。

 労わってくれているマサキに、この汗は冷や汗です、とは言えず、真希はお帰りなさいと言いながら曖昧な笑みを浮かべると、上体を起こして新しいパジャマに手を伸ばした。

 真希の手を避けるようにマサキが新しいパジャマを横にずらす。そして、真希の着ているパジャマのボタンに指をかけた。


「――――――? マサキさん、……何を」

「着替えを手伝おうと思いまして」

「―――だぁっ! じっ、じじじ自分でできますからっ。もう治りましたからっ。……マサキさんはお風呂にでも入ってきてくださいっ」


 伸ばされた指からパジャマのボタンを守るべく、真希は胸元を庇いながらダブルサイズのベッドを座りながら、端っこまで後ずさった。

 部屋は隣のリビングの明かりが入り、真希の真っ赤になった頬を照らしている。空いている片方の手をぶんぶんと振り、全身であっちにいってくれと表現するさまは小動物の様だ。

 マサキはそんな真希の姿を見て、可笑しそうに少しだけ笑った。


「そんなに恥ずかしがらなくても……」

「女は幾つになっても羞恥心を持つ者なんですっ。……マサキさんは早くお風呂に行ってきてくださいってばぁ」

「―――くっ。ははっ。……わかりました」


 肩を震わせながら部屋を出ていこうとするマサキは、リビングに一歩踏み入れた瞬間、何かを思い出したかのように、寝室に振り返った。

 

「そう言えば、夕飯ありがとうございます。美味しかったです。でも、今度は連絡を入れてくださいね。ナースの詰所まで迎えに行きますから」


 真希は、優しく微笑むマサキの言葉に、医局で立ち聞いてしまった会話を思いだして再び心が波立つのを感じた。心なしか胸のあたりも重苦しい。それを隠すようにやや間を置き、真希はパチンコ店で習得した作り笑いを浮かべて返事をした。

 

「…………はい」


 真希の作り笑いに気付かないマサキは、柔らかな微笑みを浮かべたまま入浴の準備を始めた。

 着ていた黒のスーツにブラシをかけてしまうと、窮屈なネクタイを緩めてタオル類を持って開け放っていた部屋の扉に手をかけた。そして、ベッドの端で未だに小動物の如く小さくなっている彼女を見て、些か疑問を投げかける視線を送ったが、また可笑しそうに笑った。


「おやすみなさい、真希さん」

 


 マサキが浴室に行って水音が聞こえ始めると、真希は急いでパジャマを着替えた。脱いだものをベッドサイドに置いて、長い息を吐きながら再びベッドに横になる。今度こそ彼が来るまでの間に眠ろうと思い、枕に顔をうずめて眠気を待った。

 眠ろうと思うと眠れない。真希は再びごろごろと寝返りを打った。

 不意にマサキの枕に鼻が当たり、彼の香りが鼻腔をくすぐった。いつも付けているフレグランススプレーの香りだ。甘すぎずくどすぎない香りに、マサキ独特の香りが混じっている、その性格を表すような彼だけの香りだ。

 この香りをかぐと、なんだか少しだけ眠気が訪れた気がした。もっと、と思いながらマサキの枕に顔をうずめる。意識がとろとろとしてきた時、うつ伏せで眠っている真希の髪が梳かれている感覚がした。

 優しく頭を撫でる様な手つきに、甘くて落ち着く香りに、真希の意識が段々融けていった。


「―――真希……。愛してます」


 意識が途切れる寸前、マサキの柔らかなテノール音が耳朶を掠め、耳の傍に柔らかなものが当たるのを感じて、なぜだか幸福感がこみあげてきて真希の顔が自然に綻んだ。

 ―――しかし、と真希は心の奥底で考える。

 彼に家事を押しつけてる自分に、そう言ってもらえる資格なんて無いのに。好きになってもらえる要素すらないのに。だからこの言葉は、彼の浮気疑惑が嫌だと感じている自分が見た都合のいい夢だ、と。

 薄暗い気持ちと、ほのかに芽生えている想いを心の中で闘わせて、想いが打ち勝った真希は、少しだけ普段は言えない事を囁いた。聞こえているか解らない声で。


「私も、少しづつあなたのことを―――……」


 だからこそ、明日こそは優しいマサキの為に行動しよう、と考えた。

 



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