06
マサキが真希の実家の門をくぐったのは、辺りの家庭から夕飯の香りが漂って来る時間帯だった。
車を敷地内に停めて同乗してきた医師に早く降りるように促すと、足早に玄関に向かった。彼の逸る心を表現したように、その長い指はインターフォンを連打して、玄関を開けるように催促した。
返事はするものの、なかなか出てきてくれない真希の母に焦れて、純然たる日本家屋の引き戸を勝手に開けてしまおうかとしたその時、後ろから、疲れの窺える声で名を呼ばれた。
「やあ、マサキ君」
マサキが振り返ると、仕事帰りの壮年の男性が手を上げて微笑んでいた。
「お義父さん。今、おかえりですか? お疲れ様です」
「ああ。そんなに慌ててどうしたんだい? ……ん? その子は……」
マサキの傍らに佇んでいた小柄な人影に気付き、真希の父は両手をぽんと打った。
「―――ああ! 篠田女史の娘さんじゃないか。いつかは世話になったね」
「お久しぶりです。田中課長。覚えていてくださって光栄です」
「いやいや、世話になった人間は忘れれないさ。……しかしだね、二人揃ってどうしたんだい?」
珍しい組み合わせの二人に首を傾げると、マサキが口早に真希の事を説明した。
もう一度真希を診てもらおうと、篠田を連れて来たのだと最後に付け加えると、真希の父はマサキを憐れむような表情を浮かべた。
真希の父は、真希の母がなにかをしようとしていると察したようだ。
苦笑を浮かべながら家の中に招こうと扉に手をかけた瞬間、がらりと音を立てて、扉がスライドされた。
中からマスクを付けた真希の母が、目の前の男に気付いて首を傾けた。
「あらっ! お父さん?! お帰りなさい。あなたがインターフォン連打することもあるのねぇ」
「ただいま。……連打はマサキ君だ。凄まじい顔をしてたぞ」
鞄を妻に手渡しながら、真希の父は後ろのマサキを指さす。
マサキは軽く頭を下げると、一連の仕草を真希の父に見られていた事に気付いて頬を染めた。
「……すみません。慌てていたので」
「いいのよ。……そちらのお嬢さんは?」
マサキの背後に居る篠田に気付き、真希の母は首を傾げて説明を求めた。マサキは、真希を診てもらうために連れてきた医師だと紹介して、篠田を真希の母の前に連れてきた。
「篠田と申します。マサキ先生から、奥様を診て欲しいと請われて伺いました」
篠田はアニメ声優の様な甘い声を発し、艶然とした笑みを浮かべながら診療鞄を診せた。
真希の母は篠田に入るように促すと、後に続こうとするマサキに待ったをかけて響の名を呼んだ。
「響くーん!」
(―――!『響君』?!)
マサキは聞き覚えのある名前を耳にして、一瞬だけ身を固くした。真希が、いつもメールをしたり電話をしている者の名だったから。
しかも、名前に『君』までついていた。
ややあって、ぱたぱたとスリッパの音をさせながら、艶のある黒髪後ろで一本にくくった女性らしき者がマサキの前に現れた。マサキはその瞬間、藤堂の言っていた言葉の意味を理解した。
―――女なのに、骨格が変。
目の前の女性らしき者は、マスクをしながらも美しい容姿だと解った。しかし、どこか歪だった。背が高い女性や喉ぼとけのある女性はごまんといるが、肩が広すぎるし、腰が丸くない。全体的に角ばっている。
愛妻の口からは女性だと聞いていたが、実物を目にすると、その歪さ故に疑問が沸き起こった。
失礼だと思いながらも、男にも思える目の前の女性らしき者を、観察するように魅入ってしまった。
しかし、声を聞いた途端、性別の疑問は塵と消えた。
男のそれだったからだ。同時に、得もいえぬ感情がこんこんと湧き出てきた。
「ええと、真希の旦那さま? はじめまして、ですよね?」
「―――あ、すみません。妻から名前を聞いた事があったので、つい、目が離せなくて……。妻からのメールや電話の相手をしてくれているようで、……いつもありがとうございます」
マサキは、いつも真希が見せる作り物の笑顔を顔に貼りつけて、ほわりと笑ったつもりだった。
しかし、目は笑っていなかったらしい。
マサキの表情を見た周囲がびしりと固まった。木造の家もその空気を読んだのか、ミシリと音をたてた。
一瞬で我に返った篠田が、ササッと近付いてマサキのわき腹を突いた。ぽってりとした唇を震わせて、できるだけマサキにしか聞こえないように注意をする。
「……マサキ君、その顔おそろしいから」
「え? 笑ったつもりだったけど……?」
「口だけ笑ってて、後は笑ってないから。……仁義なき戦いが出来そうな顔になってるよ」
マサキは口元を手で覆うと、咳払いをした。
この場へ来た本題に入るべく口を開く。
「……失礼を。少し疲れているようです。ええと、真希さんはどこに?」
「―――あ、ああ、ええ。真希ね。……響君、篠田さんを真希の所に連れて行って頂戴」
「わかりましたわ。オバサマ」
響に先導されて篠田が廊下を歩く。マサキもついていこうとするが、何故か真希の母が服を掴んでその足を止めさせた。
先ほどに続き、今も。
意図的に阻まれているのかもしれない。
マサキは疑念を抱いて、真希の母を見た。
「俺は真希さんの顔を見たいのですが……?」
悲しげに表情を歪めた怖面の視線を受けて、真希の母は一瞬だけバツ悪げに身じろいだが、咳払いをして再度マサキの腕を引く。
真希にべたぼれな義理の息子の扱いは心得ているわ! とばかりに、真希の母はニッコリと含みのある笑顔を浮かべた。
「真希の事で、マサキ君にお願いがあるんですよ」
「……えっ? あっ、ちょっと――――――!」
「ほらほらっ、お父さんも!」
玄関脇に置いてあった鞄を手に持つと、真希の母はマサキの腕を引いて真希の父に声をかけると、問答無用で彼の車に向かった。
マサキは訳がわからないまま、運転席へと押し込まれ、疑問符を頭に浮かべながら、真希の母の指定する場所に向かった。
その一方で真希は、響が案内してきた女性を目に入れた瞬間から、驚きで目を瞠っていた。
布団に横になりながら、仏間に入ってきた女性の名を記憶の底から呼び起こす。
(篠田さん、だったかな)
居酒屋で、植物の蔦の様にマサキの腕に絡みついていた彼女を思い出して、真希は悲しい気分になった。その気分を表現したように、次第にその表情には陰りの色が浮かんでくる。
(なんでマサキさんが彼女を連れてくるの?)
嫌な感情が真希を包みこんだ。
思考の全てをその感情にのみこまれたように、真希は一つの事しか考えれなくなった。
真希の陰った表情には気付かないのか、篠田は真希の傍らに腰を下ろしてやんわりと微笑んだ。名乗りながら短く挨拶をすると、手持ちの鞄から聴診器を取りだし、診察の為に真希の上体を起こして真希の厚手のパジャマをまくりあげた。
響は、真希の診察を考慮してか「お茶を淹れてくるわ」と仏間から去って行ってしまった。
篠田はカルテ代わりのメモ帳に何かを書いた後、真希に触れながら症状について尋ねた。
「……階……じゃなかった。真希さん、咳は出ますか?」
「…………ええ」
「そうですか。熱はもうなさそうですね。点滴されたんですよね?」
「…………はあ」
「念のために、今日の病院で処方された薬の種類を教えていただけますか?」
「………………そうですね」
相槌に近い返事を返されて、篠田はようやく真希の様子が少しおかしい事に気付いた。
俯く真希の表情を窺うようにそっとのぞき込む。
「…………真希さん?」
心配そうに窺う篠田の声に、心の奥底で一つの事柄について悶々と考えていた真希からの返事は無かった。
(―――今日は講演会だったはずだ。)
真希も行こうとしていて、席は二つ取ってあった。
いつまでも悶々と考えるのは自分の性分ではないと思い、真希は俯いていた顔を上げた。
熱があるせいか、濡れた瞳で篠田を視界に入れると、真希は震える口でおそるおそる篠田に問う。
「……もしかして、マサキさんと一緒に講演会に行ってましたか?」
震える声で聞かれた篠田は、あまりに必死な表情を浮かべる真希を見て、「ああ……」とどこか納得した様に微笑んだ。
「向こうで会ったんですよ。あっ、でも、向こうで落ち合う約束をしていたとか誤解しないでくださいね? マサキ先生は、私の先輩でもあるんです。……だから、今日の講演会は、私の恩師の講演会でもあったんですよ」
諭すように篠田は伝えるが、当の真希はどこか納得できないような表情を浮かべている。
そんな真希を見て、篠田は困ったように溜息を落としたあと、真希の肩をぽんぽんと叩いて小さな声で笑った。
「……大丈夫ですって。マサキ先生は、非常階段の頃から真希さん一筋ですから! 今日も車の中で『真希さんが死んだら俺も後を追っていいかな』とかうるさかったし。自分で診ればいいのに、あの怖面を泣きそうに歪めながら『怖いから』って私を連れてきたんですよ」
篠田の言葉を聞いて、真希の時間が一瞬止まった。
――――――非常階段。
その言葉を聞いて真希の脳裏に思い浮かんだのは、とある場所だ。
専門学校のボランティアサークルで行っていた病院の非常階段。
そこでは介護するお年寄りに関する愚痴や、看護師や医師の態度の酷さに対する憤りを、当時海外に住んでいた響に電話でぶちまけていた。時には反省したり、悲しい時に人目も憚らずに涙した場所でもある。
要するに、一人になりたい時に行っていたところである。
(もしかしてそれを見られていた?!)
でも、と考える。鉄でできた古いあの階段は、靴音が振動となって伝わるから下に誰かが来れば解る。最上階まで登っていたんだから、上から覗かれる恐れは無い。病院関係者に愚痴や不満を聞かれては不味いから、ちゃんと考えてあの場所を選んだのだ。
「マサキさんは、……いつから知ってたんですか? 非常階段にわたしが居る事を」
マサキが知っているのなら、他の病院関係者もあの非常階段での事を知っている可能性が高い。
そういえば、いつからか他の医師が真希に対する態度が変わっていた気がする。
(まずい。これはまずい……!)
誰もいないからとはきだしていた愚痴や悪態を思い出して、真希の顔色は一気に色を失った。
「さあ? マサキ君が裏階段に通ってるって噂を聞いて、私も真希さんの事を知っただけですし」
篠田は困った表情を浮かべて頬に手を当てて首を傾げた。
真希は噂になっていると聞き、ガバリと身を乗り出して篠田に迫る。
「……噂?! ど、どんな?!」
篠田の肩を掴んだ真希は、死人の様な顔色をしながらもどこか危機迫る様子だ。
大学病院へは、当時勤めていた会社の名前を背負ってボランティアに行っていたのだ。いくらフラストレーションがたまっていたからといって、陰で人目がなかろうと病院側の悪口を言っていいものではない。
噂になっているということは、謝りに行かなければいけないレベルを、とうに超えているのかもしれない。
(損害賠償?! 払えないって!)
しかし、真希の心境など知る由もない篠田は、きょとんとした表情を浮かべた。
「え? 自分の事なのに知らないんですか? 時折現れる裏階段の幽霊ですよ!」
「はぁぁ?! ゆうれい……っ?」
階段での隠れた暴挙が、幽霊という噂にすり替わっている?
訳が解らないと真っ青な顔色のままで固まった真希を見て、篠田がポンと手を打った。
「そっか! 本人だから知らないんですね! だからマサキ君は未だにアレを隠し持ってるんだ」
どこか納得した風に呟くと、篠田はニッコリと笑った。さすがにマサキの従妹だ。大人なのにもかかわらず、屈託のない笑顔を浮かべる表情がどことなく似ている。
しかし、長い期間解けなかった謎が解けてスッキリした篠田とは逆に、真希は疑問を抱える事になった。
顔色は悪いが、元気そうな真希の様子を診て大事ないと判断したのか、診終えた篠田は鞄に聴診器とメモ帳をしまいだした。その仕草は手早い。どこかうきうきとした様子の彼女は、まるで今すぐにここから帰ってどこかに行きたいようでもあった。
ここで帰ってもらっては困ると考えた真希は、その腕を掴んで疑問を解消するべく口を開いた。
「幽霊ってなに?!」
さっきの言い方だと、自分が幽霊になっているようだ、と真希は篠田に縋るように問いをぶつけた。
いきなり腕を掴まれて驚きに固まっていた篠田だが、ややあって、腕を掴む真希の手をやんわりと外すと、どこか楽しげに話しだした。
「大学病院の奥には、外の非常階段と繋がる裏階段って言うのがあって―――――……」
噂とやらを聞いた真希は、あの愚痴を聞いていたのがおそらくマサキ一人であると知っって安堵すると共に、先ほどまで真っ青だった顔を、今度は羞恥により真っ赤に染める事となった。
同時に、先日、窓掃除の時に彼がもらした言葉がすとんと胸に落ちた。
『扉の外に居たのは真希さんで、室内に居たのは俺』




