05
講演が終わり、マサキは薄暗いホールから足早に出てきた。
久しぶりに恩師に会う事ができて、かつ、篠田に頼んでいたものが手に入る喜びで少々浮足立った気分だった。
しかし、とマサキは立ち止まって考える。
何故か恩師は、真希の事を知っていたのだ。ふたりが結婚したのは、恩師が遠方に赴任してからだというのに。
電源を落としていたスマホをスーツから取りだして、今朝まで熱が高かった真希に電話をかけた。
恩師の事を確かめたかったのも一つの理由だが、本音を言えば、熱が高いのに家に置いて来てしまった真希の事が気がかりだった。いくら義弟に頼んだといっても、不安で心配だ。
具合はどうだろうか。寂しがっていないだろうか。
家を出る直前に見た愛妻の寂しげな表情がマサキの頭を掠めた。一声だけでも聞いて安心したい。そんなマサキの想いとは裏腹に現実は無情だ。直ぐに留守電に切り替わってしまった。
何度かかけ直すが、聞きたい筈の真希の声は聞こえてくる事はなく、通話先から流れるのは全て機械音声の留守電だ。
寝ているのだろうかとも考えたが、何度も電話をしているのに起きないのはおかしい。
「まさか、鍵の事で怒っていて、電話に出ないとか……?」
あり得る。大いにあり得る。
マサキは心中を露わしたような情けない声で呟いた。
「……凄く怒ってるとか言ってたし」
講演が始まる前の聡との電話を思い出して、マサキはどこか自分の言葉に納得しながら、今度は義弟である聡に通話の矛先を向けた。
聡へは、なかなか電話に出ない真希とは違って、僅か2コールで繋がった。
(真希さんもこのくらい早く出てくれればいいのに)
少しだけ真希に対して文句を考えたその時、相手の声が聞こえてきて、つい、スマホの表示を確認してしまった。
相手は聡だ。間違いない。
『…………マサキさん?』
通話先から窺うような声が聞こえてくる。
どうして聡の携帯を持っているのだろうか。そんな疑問が浮かんだが、彼女の性格を思い出してそれも直ぐに霧散する。
「……もしかしなくても、携帯を家に忘れてきてないですか?」
『うっ! どうしてそれを……!』
戸惑った彼女の様子が容易に想像できた。
顔を真っ赤にしているだろう真希を想像し、マサキはふっと笑って、何度も電話をかけたのだと説明する。そして、いつかは言ってみたかった事を、この際に伝えることにした。
「携帯って、いつも持っていたり身に付けているものなんですよ。真希さんの場合、電源が入ってなかったり、家のどこかに置きっぱなしになってたりで家の電話になってますよね……」
『……返す言葉がありません』
しおしおとする真希を想像して、マサキは相好を崩す。
「これからはちゃんと持っていてくださいね? ……でも、思ったよりも元気そうで良かった。さっき講演が終わったので、今からそちらに迎えに行きますから」
『あっ、その事なんですけど、実はわたし、このまま実家にお世話になろうかと思っているんです』
「―――――え?! どうして!」
想像すらしてなかった真希の言葉に、マサキはつい叫ぶような声を上げてしまった。
ホールから出てくる人々が、何事かとマサキの方を振り向く。マサキは苦笑いを浮かべながら物陰に隠れると、真希に言葉を促した。
真希は歯切れの悪い声で、話し辛そうに言葉を紡ぐ。
『ええとですね……。実はそれについて、弟から電話を渡され……いや、借りまして、マサキさんにずっと電話してたんです』
「ああ……、俺はずっと真希さんの携帯にかけてたから通じなかったでしょう? それにしても、凄い偶然だ。以心伝心ですね」
『……そうですね』
少しだけ枯れた声で笑う真希の声を聞き、マサキは、どうして実家に世話になるのかの説明を催促した。
数秒考えたのだろう。少しの間沈黙して、弟の聡ではない誰かにせっつかれた後、真希の力なさげな声が聞こえてきた。
『……あのですね、暫くの間、隔離されなくてはいけないそうです』
「―――――はぃ?」
『ものすごく感染力があって、マサキさんにうつしてはいけないので、面会謝絶にしなくてはいけないそうです』
「面会謝……ぜ……っ?!」
隔離と面会謝絶と聞いて、スマホを落としそうになった。声を聞く分には元気そうだが、そんなに悪いのだろうか。
なかなか下がらない熱と、倦怠感。それに加え、充血した眼。食欲があったからそこまで深刻には考えていなかったが、そこまで深刻な病状なのだろうか。
……第一、ものすごく感染力のある病気とはなんだろう。
マサキは、内科の勉強に力を入れなかった事を後悔したようにスマホを握りしめた。
ほぼ真っ白になってしまった頭では、隔離と聞いて悪い病名しか浮かばない。
今この場に、様々な症例と病名と主な治療法が掲載された便利道具、医学大辞典が無い事が悔やまれる。
壁にもたれかかりながら、力が抜けたかの様にずるずると長身が崩れる。マサキはスマホを耳に当てたまま、床のタイルの如く己の存在感を薄くして頭を抱えてしゃがみ込んだ。
スマホからは真希の声で、心配は無いからと慰めの言葉が響いてくるが、ものすごく感染力の高い病気と診断されて、『面会謝絶』とまで言われて心配しない新婚三カ月の旦那はいないだろう。
「…………まきさん」
真っ白になった頭で脱力感に抗いながら、何とか真希の名を呼んだ。
今すぐに飛んで帰りたい。文字通りに。
それで、すぐにでも面会謝絶と診断したヤブ医者とは違う医者に診せたい。
そう考えたマサキは、その手があったと講演会の出口に顔を向けた。
「真希さん、俺が今どこにいるのか知ってますよね?」
『……えっ?! はい。恩師の講演会でしたね』
窺うような真希の声がスマホから響く。
マサキは出口から出てきた目的の人物を見つけると、安堵の表情を浮かべた。
「……そう。医者ばかりが集う講演会です。……今朝の様子からして、面会謝絶はおかしいと思うんです。ですから、今から帰り道が一緒になる医者を連れて帰ります」
『えええっ?! あの、ちょっと―――』
「本当は俺が診たいけれど、内科は自信がなくて。……それに、身近な人間は怖くて診れないんです。今すぐにアイツを引っ掴んで連れて行くので、待っていてください」
マサキは一方的に通話を終えると、それまでの絶望感をどこかに追いやって、目的の人物を捕まえるべく立ち上がった。
聡の携帯を手にしている真希は、のぞき込むように耳をそばだてていた母と弟、響に首を巡らせた。
母は、肺の中の空気を全て出したのではないかと思えるほどに、思いっきり深い息をはきだした。
そして、思いっきり真希の頭を叩いた。
「……おバカ! なんで素直に『インフルエンザでした』って嘘をつかないの! あの言い方だと絶対勘違いしたわよ! どうしてアンタは昔から話すと主語が抜けてるの!」
「インフルエンザって言うと絶対ばれるし! ……それに、マサキさんに嘘はつきたくない」
「……真希」
「病気をうつさない為に実家に隔離して、面会謝絶にするって説明するのは嘘じゃないでしょ? 風邪は感染力が高い病気だし」
真希の母は、マサキに対して嘘をつきたくないと言う娘の想いを汲み取れなかった事に衝撃を受けた。
必死な真希の頭を撫でて、静かに口を開く。
「……そうね。嘘をつかせようとしてごめんね、真希。……でも、マサキ君が別の医者を連れてくるとなると、家事修行はどうすればいいかしらねぇ。単なる風邪だってばれて連れて帰られると、真希の事だから『実家に通うのは面倒だ』ってなりそうよね」
「姉貴の性格を考えると、笑えないくらいあり得るな」
「……一回だけで終わりそうよね」
「響君? 言葉にしたら現実になっちゃいそうだから、言っちゃ駄目よ?」
狭い仏間に集う四人ともが皆、まさかマサキが別の医者を連れてくるとは想定すらしておらず、どうすればいいかと考えあぐねて視線を合わせようとしない。
シンとした静寂を最初に破ったのは、真希の母だった。
「……え~っとぉ、アンタ元気そうだし、お母さん、マサキ君が来るまでに家事を済ませちゃって、その後に夜中まで映画でも見てこようかしら」
真希の母は、考える事を放棄したようだ。むしろ逃げに回った。それにならったのか、聡と響も追従して口を開く。
「俺は……、あ、彼女とデートがあったんだ! 」
「私も仕事がたまってるのよねぇ……。それに、よそ様の家庭に口を出しちゃいけないし」
三人とも真希の隙をついて逃げる気のようだ。すわったまま器用にじりじりと後退している。
真希は携帯を投げ捨てると、病人とは思えない俊敏さで傍に居た二人を捕まえた。
一人は服を。もう一人は、立ち上がった瞬間の足首を。
点滴の効果がでているようで、先ほどまで感じていた目眩などどこかへいってしまった。力も出てきたようで、がっちりと二人を掴んで放さない。
「―――あっ! 聡! 自分だけ逃げるなんてずるいわよ! 真希もなんだって私を捕まえるのよ! この家とは血のつながりがない他人よ?! 巻き込まれただけの善良な隣人よ?!」
真希に足首を掴まれて、はずみでべちゃりと畳に顔を付けて転んだ響が聡を非難した。
響が転ぶ瞬間に、執念で聡のズボンの裾を掴んだのだろう。聡は響の手からズボンを引きぬこうと引っ張る。
「わりぃ! 俺、謀がばれて怖面に睨まれる耐性ついてねぇし。それに、あんないい人に恨まれたくねぇ! ……第一、おかんが言いだしっぺだろ!」
聡は指で、真希に服をむんずと掴まれている己の母を示した。
母は一旦眼を閉じて「そうね」とおとなしく首肯したが、カッと見開くと声を大にした。
「止めなかった時点で共犯に決まってんでしょうが! 響君、その付け爪が取れても放しちゃ駄目よ!」
「わかってるわ、オバサマッ!」
「なんだよソレ! 横暴だ! だぁ~っ! 放せぇ!」
真希の母が響に手を放さないように響に檄を飛ばすが、聡は響の手からズボンを引きぬくと、息を荒げて携帯を拾わずに足早に逃げて行った。
鼠が廊下を走ように音を立てて駆け抜けると、直ぐに横開きの日本家屋の玄関が荒々しく開閉するする音が真希たちの耳に響いた。
やがて、諦めたような静かな二人の声が仏間に落とされた。
「……真希。お母さんが悪かったわ。もう逃げないつもりだから放して頂戴。ちゃんとマサキ君の対策を考えるから」
「私も逃げたりしないわよ。くすぐったいから放して」
真希は暫く逡巡したが、やがてこのままでは埒が明かないと手を放した。
嘘をつくのだけは嫌だ。
しかし、母達の言葉ももっともだ。
彼の元に帰ってしまったら、何でもやってくれる彼に甘えて、流されて、家事修行をしたいと思う今の決意が揺らぐだろう。
嘘をつかずに、この家に残って家事修行をしたい。
その一心で、真希はあまり使う事のない頭をフル回転させた。
考えてもいい案が浮かばず、時間だけが流れる中、真希の母が声を上げて手を叩いた。
「そうだわっ! マサキ君が連れてくるお医者さまを懐柔してしまえばいいのよ! ……マサキ君だけ追い返して、お医者さまだけ家に上げて、懐柔して嘘の診断をマサキ君に伝えてもらえばいいじゃない」
真希の母は、これ以上ない名案じゃないの、と目をキラキラとさせて悪代官のようにあくどい事をさらりと言ってのけた。
それは無謀な企てではないか、と真希が口を挟もうとした時、響が呆れたように真希の母へと疑問をぶつける。
「懐柔って……。誰が懐柔するんです? 真希の旦那は、おとなしく追い返されてしまう単純な奴なんですか?」
「…………単純な人ではないわね。そうね、……何とか理由を付けて、お母さんがマサキ君を家から連れ出すから、お医者さまの懐柔は真希と響君に任せるわ。大丈夫よ! 響君の巧みな言葉技を使えば、お医者さまの一人や二人を懐柔するくらい簡単簡単!」
「…………いやそんな。そもそも、いつも『人様に嘘をつくな』と言ってた人が、率先してそれをするってどうかと思うんですけどね……」
「世の中には必要な嘘もあるのよっ」
からからと笑いながら響の背をぱしぱしと叩くと、真希の母は、マサキと彼が連れてくるであろう医者を迎える準備をすると真希達に言い残して仏間を後にした。
その後ろ姿は、まるで楽しい催しを待つように、浮き浮きとしていた。
真希と響はお互いに顔を見合せながら、悪代官の如き悪知恵を働かせる母を想い、部屋に溜息を落とした。
「やっぱり真希のとこのオバサマって、変な思考を持ってるわよねぇ。正直に真希の旦那に『家事修行をさせるので、実家で預かります』って話せばいいのに」
「……多分、それを言ったら『修行なんて必要ありません』って言われると思ったからだと思うよ……」
些細な一言でも律義に守るひとなのだ。彼ならば、無理して苦手なものを直す必要は無いと言うに違いないだろう。 甘えの鎖を断ち切るために、家事一つできない劣等感を抱く自分に自信を付けるために、家事修行をやろうと決めたのだ。
まずは一歩前に進まなければいけない。そのためには、実家に居なくてはいけないのだ。ベテラン主婦の母に、鞭打って貰わなければいけないのだ。
真希は、マサキが連れてくるだろう医者を説得すべく、響に協力を求めた。




