03
「……そうなんだ? 助かったよ。……うん? 俺が真希さんに怒られる? ああ、いいよ。望むところだね」
講演会の会場に着いて、真希に電話をしたものの通じず、マサキは少し焦りながら義弟の聡に連絡をとった。
病院に行きたくないが為に真希が電話とインターフォンの電源を切り、家に立てこもったという話を聡から聞き、家の鍵を念のために預けておいて正解だったとマサキは思う。
いきなり家に弟が現れて、しかも鍵まで持っていて、彼女はさぞかし驚いた事だろう。
それにしても、さすがは義弟。彼女の扱いを心得ている。
断固として病院に行くのを拒否する真希を、友人の手を借りてでも連れて行ってくれるとは。
鍵を聡に預けた事で真希がかなり怒っていると聞いたマサキは、この状況下なのにもかかわらず、楽しげに笑った。
さすがに講演会の会場で大声で笑う訳にも行かず、くつくつと声を押し殺して笑う。
『……なにが可笑しいんだか』
「可笑しいんじゃなくて、楽しいんだよ」
『げぇっ。なんだよあんた、傷めつけられるのが楽しめる変態だったのか?!』
「失礼な」
変態ではないから即座に否定して、いつも作り笑いを浮かべる真希が、自分の前で怒ってくれるのが嬉しいのだとマサキは聡に聞かせる。
聡は何故か神妙な声音でマサキに謝ると、再びいつもの声音に戻って、真希を実家に連れて帰ると伝えた。
「そう。じゃあ、帰りに迎えに行くから、それまで真希さんを頼みます」
『まかせろ! ……つっても、姉貴の面倒みるのは、おかんだけどな。伝えとくわ』
「ああ、よろしく」
通話を終えたマサキは、スマホを胸元にしまうと会場のホールへと向かった。
院長が用意しておいてくれた席に着くと、前の列に見知った横顔が見えた。篠田だ。同時に、彼女もマサキの存在に気付いたのか、振り向いて座席を乗り出して破顔する。
しかし、マサキの隣が空席なのを見て首を傾げた。
「……あれぇ? 階段ちゃんは? 一緒に来るって院長から聞いて、会うの楽しみにしてたのに」
「風邪だよ」
「ふぅん。残念。今日こそは、その黒服の経緯を聞けるかと思ってたのに」
むう、とぽってりとした唇を尖らせた篠田を見て、マサキは呆れ顔で答えた。
「経緯もなにも、篠田も知ってる事だろう?」
「えー? 知ってるのは、叔母さんが話してた事だけだよ。『結婚するために、これからは黒い服しか着ないから!』って訳の判んない宣言。……っていうかさ、篠田って呼ぶの辞めて欲しいんですが。そのうち篠田じゃなくなるし」
「……へー。これからは藤堂って呼んだ方がいいのか?」
ニヤリと笑うマサキ。
篠田は大ぶりの目を更に大きく開いて驚きを表現した。
「きっ、気付いてたの?! いつから?!」
「随分前から? 篠田がこっちの病院に就職すると、妙に医局に訪ねてくるようになったし。お決まりのように、お前の席に陣取ってるし」
そこまで言うと、嫌な事でも思い出したのか、マサキは少しだけムッとした顔つきになった。
「お陰で、こっちの隠しておいたものまで見られていい迷惑だ」
「……ああ、写真立ての二枚目ね。可愛くない見た目に反して、ホント可愛い事してるよねぇ」
くふふ、と甘い独特な声で笑う篠田に、マサキは片眉をはねあげて長い指でデコピンを弾く。
「いったぁ! もうっ。これでデコピン何回目よ?! 『マサキ君はあなたの見ていない場所で、かよわき女性に暴力をふるう男です』って階段ちゃんに言っちゃうからね!」
「誰が『かよわき女性』だよ……」
額を擦りながら、篠田は胸を張って己を指さす。
マサキはそんな篠田から興味が逸れたとばかりに視線を外すと、ふんと鼻で笑い、椅子に深く座り手元の資料をめくった。
そして、篠田の方へは一瞥もくれることなく言い放つ。
「勝手に人の秘密を暴露するなよ。次にやったら、お前が子供の時に俺の家でやらかした、恥ずかしすぎる思い出をばらすからな」
資料をパラパラとめくり、マサキは何かを思い出したかのように篠田を見た。
「―――そうだ、頼んでおいたアレ、どうなってる?」
「アレ? ……ああ、あれね。用意できそうだよ」
篠田の言葉を聞いた途端、マサキは「そうか」とそっけない返事をして再度資料に眼を通す。
そんなマサキが面白くない篠田は額を擦りながら、ジンジンと痛む額の恨みを晴らすべく考えを巡らせた。
「でもさぁ、タダじゃあげないよ?」
「? 金なら払うって言っただろう?」
「いやいや、お金に変えれないくらいの苦労したんだよ~? 友達に無理言って頼みこんでさぁ。それに見合ったものを貰わなきゃ割りにあわないじゃん?」
マサキから資料を取り上げた篠田は、ニヤリと口を歪ませた。
「―――お願い、聞いてくれるよね?」
*****
昼が過ぎ、病院での診察を終えた真希は、聡の車で実家へと帰宅した。
ほどなくして聡が真希の寝床を作るべく、仏間を片づけだす。
病院で抵抗して力が無くなったのか、真希は鬱々とした表情で布団が敷かれていくさまを見ていた。
その傍らには、真希が結婚を嫌がった理由を知った響が、抱腹絶倒を噛みしめんばかりに笑い転げている。
元は綺麗に束ねてあった艶やかな黒髪は、笑い転げた所為か真希の病院での抵抗の所為か、今は鳥の巣のようにぼさぼさとしている。
「―――聡から情けない声で助けを求められた時は面倒だと思ったけど、面白いものが見れたわぁ! うんうん。真希が旦那さんだけを嫌がってた理由も、なんか納得! 確かにあれじゃ嫌よねぇ。名前を呼ばれた時、ほとんどの人が珍しそうに真希を見たもんね!」
病院の会計の時から今現在まで、響は笑いのツボからなかなか抜け出せないでいた。そんな響を、真希は目を眇めて見据えた。その表情はからは、羞恥を通り越した、僅かな怒りが感じられる。
額に青筋を立てた真希を見て、長年の経験からこの後の展開が予想できる聡は、ささっと立ち上がると機敏な動きで逃げてしまった。
聡が部屋を出て直ぐに、真希はもう我慢の限界だと言わんばかりに手を伸ばし、響の両肩を掴んで思いっきり引き寄せる。それと同時に、真希も勢いを付けて自分の頭を相手の方へと向かわせた。
――――――ガッッ!!
鈍い音を立てながら勢いを付けて合わさった額と額。
「……ぅう。痛い」
くぐもった声で額を押さえるのは響だ。
真希は座りながらも俯いて肩を震わせている。
痛いはずなのに、響の肩を解放した手は、力なさげにだらりと垂れている。
そんな真希を見て、響はしまったとバツが悪い表情を浮かべた。
「……ごめん。笑っちゃいけないわよね。調子に乗り過ぎました」
真希は、少しだけ間を置いて一度だけ頷くと、傍に敷いてある布団にもぐりこんだ。
頭まで布団を被り、まるで拗ねた子供のように。
布団で猫のように丸まっている真希を、響は謝りながらポンポンと布団を軽く叩きながら宥める。
少し前に離婚の相談を受けた身としては、はっきりさせておきたい事があり、響は口を開いた。
「ここ最近のあんたって、メールで愚痴らなくなってたわよね。今日はどこそこを掃除した、定時連絡が遅い、お弁当を持って行ったら迷惑かな、黒い服を勝手に買い変えたら駄目かなとか。……変わろうとしてるのよね?」
真希は、家事が極端にへたくそで、自分から何かをすることなんて考えたくも無い自堕落人間。それなのに、ここ最近は旦那さんの為に奮闘していると感じられるメールが響の元に届いていた。
好きでもない事に好んで手を出して変わろうとしているのは、旦那さんが好きだからでしょう、と少し遠回りに響は聞いたつもりだった。
しかし、布団の中からは返事が無い。
気にせずに響は言葉を続ける。
「今日もそう。初めて旦那さんと小旅行に行くって楽しみにしてたわよねぇ。……ねぇ、真希が今拗ねてるのは、名前でからかわれたから? 違うわよね。私が笑い転げる前からずっと暗~い顔してたし。今日、行けなかったからよね?」
聞いているのに、もはや質問ですらない決めつけるような響の言葉。
どうして解るのか。
真希は堪えていた涙を零れさせた。
今日、出かけるのを凄く楽しみにしていた。講演会が終わってから、今までデートらしきものをしてないからと、プランを立てていた。デートという言葉に喜ぶ歳でもないのに、浮き浮きと心が躍っていた。
喪服を連想させる黒服が嫌で、こっそりと黒くない服を購入していた。
彼が見合いの時に着ていたグレーに似た色の服だ。
それなのに、この始末。なんて情けない。
涙が出ると共に、嗚咽も喉から出てくる。鼻を啜る音も布団の外に漏れ、泣いているのを察した響が布団の上から、真希の頭の部分を撫でた。
「……じゃあ、離婚なんてもう考えてないのよね?」
響の言葉に返事をしようと口を開きかけた時、スパーンと障子が勢いをつけて開く音がした。
蠟が塗ってあるのか、障子は寸分の引っ掛かりもなく開ききる。
荒々しい足音が近づいて、真希の布団が引きはがされた。
「真紀ぃ! 離婚ってどういうこと?! あんたまさか響君に離婚相談してたって言わないだろうねぇ」
投げ飛ばされた布団は響に向かって飛び、今は女である彼を難なく埋めた。
いきなり布団をひきはがされた真希は、飛びあがり鬼の形相で現れた母を見て小さな悲鳴をあげた。咄嗟に布団から這い出てきた響の陰に隠れる。
母は夕方まで家に帰らないはずだった。真希が熱で実家に帰省したと聞いて、パートを切り上げて帰ってきたのだろう。どこから話を聞かれていたのか解らないが、離婚と言う言葉を聞いて我慢がならなくなったようだ。
幾分か疲れた表情の母は、腰に手を当てて鬼の面を付けたかの様に怒っていた。
「家事もできて、真希の面倒を嫌な顔をせずに見てくれる。結婚前に真希が散々無視し続けてもめげなかったし、あんたが逃げ続けても、こまめに家に来てくれた。あんなに根気強くて良い人を表現したマサキ君のどこが嫌なの?!」
「……い、嫌じゃなくて」
どもる真希。そんな彼女を見ながら真希の母は、響の背後霊よろしくくっ付く娘を部屋の隅へとじりじりと追いつめる。
「大体ねぇ、あんなにけなげな子は他に居ないわよ?! 職場近くの寮に住んでるにもかかわらず、わざわざほぼ毎日、真希に会うためだけに来てくれてたのよ?! それなのにあんたって子は毎日毎日朝から晩まで仕事を理由に逃げてばっかり! 何度張り倒そうと思った事か!」
「……うぅ。言葉もありません」
鬼神の如き真希の母に詰め寄られ、後ずさる響の背に押されて下がり続け、真希の背がとうとう壁に辿り着いてしまった。
「マサキ君はね、真希の為に、学校の家庭科以外でやってこなかった料理や家事を覚えたのよ。あんたが結婚後に困らない為に!」
「そうなの?!」
初耳だった。
思いもよらぬ母の言葉に、真希は驚きを隠せない。
「そうなのよ! 『少しでも真希さんに会えればいいという下心もありますが』って、あの怖面を崩しながらね! もうね、母さんに教えを請うマサキ君のあまりのいじらしさに、彼の顔への恐怖なんて忘れて母さんはエプロンで何度涙を拭ったか! 真希が指輪を受けとったってマサキ君から聞いた時は、一家総出でマサキ君に喝采を贈ったものだよ」
全くもって予想だにもしなかった過去を聞いて、目を見開いて愕然とする真希。口を開けてぽかんとしているようにも見える真希に、母が再び叱責の声をあげた。
「それなのに、『もう離婚なんて考えてないのよね』だなんて物騒な事を、どうして響君があんたに聞いてるの?!」
「や、だってそれは……!」
真希はもごもごと口を動かした後、響を盾に見立てて母の方へとぐいっと追いやった。
逃げようと響が身を翻そうとしても、真希が服の背を押して動けない。鬼の形相が狙いを変えたように響へと迫る。
「響君? あなたも一枚噛んでいるのよね?」
「噛んでないっ! 決して! これっぽっちも!!」
昔から、真希の母は怖かった。
悪い事をしたら、たとえ他人の子であっても尻を叩かれた。響の親もそれを是としていたし、同様の考えだった。だから、真希と共に悪戯をして、尻を叩かれた数も一度や二度ではない。数え切れないほどだ。
それを思い出して、心なしか尻を庇いつつ縮みあがりながらも、二本の指で微塵もないと見せて宣言する。
咄嗟に真希が非難の声をあげる。
「響っ! ずるいっ!」
「だまらっしゃい! ……二人とも、明瞭簡潔に説明してくれるわね?」
真希の非難をぴしゃりと母が制する。そして、誰もが否と言えない程の凄まじい般若の笑みと、黒い渦巻いた影を背後に浮かべた。




