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言葉攻めと名の付けれる行為をされた真希は、自分の夫の新たな一面を垣間見た気がした。
打てば響くような言葉のやり取りに奇妙な既視感を感じつつ、マサキの絡みつくような視線に耐えきれなくなって、真希はふいっと顔をそむけようとした。
しかし、それをマサキは真希の細い顎を掴んで阻止する。
「真希さんは部が悪くなると直ぐに視線をずらすのが癖だ。……ほら、もう少し俺を見て。視線をずらすのなら、俺の望んでる言葉を言ってからにしてください」
頑なにマサキの目を見ないように努めているようだ。顎を掴んで上向かせても、その視線は宙を漂って、意地の悪いマサキの笑みを捕えていない。しかし、ジッと見つめらるのに耐えられなかったのか、真っ赤な顔に苦渋の表情を浮かべながら小さな声で真希は答える。
「………………マサキさんのこと、嫌いじゃない」
「頑固なひとだ……」
やれやれと小さく笑うマサキの声が、耳に心地よく感じながら、真希はゆっくりと口を開く。
注視されているのがわかるから、彼の方は向けない。
「……嫌いじゃないの。でも、マサキさんがわたしのことをどう思ってるのか知ってるから、言えない」
好きじゃない女だってこの耳で聞いたことがあるから、心の蓋をあけて『好きだ』と言えない。
たった一言なのに、彼もその想いに気付いているというのに、言えない。
(なんて意気地なしなんだろう)
悔しくて悲しい。
真希は瞼を伏せて口を引き結んだ。
「…………今の流れで照れるならまだしも、どうしてそんな表情をするんですか」
泣きだしてしまいそうに睫毛を震わせる真希を見て、マサキは彼女の頬を撫でながら彼女に疑問を投げかけた。
全くもって意味不明だと言いたげなマサキの表情を見て、隠していた真希の本音が零れ落ちた。
「……好きじゃないって、言ってたじゃない。この結婚だって、わたしの両親が強引にマサキさんを巻き込んだんでしょう? これ以上、マサキさんに迷惑かたくない」
「………………え」
頬に当てられているマサキの指をやんわりと外して、再び俯いた。
下を向いている真希には、マサキの表情は見えない。だからこそ言葉を続ける。
「マサキさんは優しいから、本当は好きな人が病院にいるのに、わたしの両親の強引な説得か何かを断れなかったんでしょう? だから、家事もできないわたしと結婚したんでしょう?」
「―――そんな事は」
「もう隠さなくていいから。夜遅くまで仕事をするのも、休日が少ないのも、マサキさんが誰かと過ごしてるからでしょう? 二重生活をしてると、マサキさんが夏の時みたいにまた倒れちゃう。これ以上マサキさんを苦しめたくないし、悩ませたくもない。家事ができない事で迷惑もかけたくない」
真希は膝の上で両手を固く握りしめて、最後の言葉を伝えるために口を開いた。
「だから、離婚……」
「お断りします!」
意を決した真希の一言は、被せられたマサキの声にかき消された。
怒っていると解る程の口調だった。
真希は身体を強張らせて、頭上から降り注ぐ視線に耐えた。
「離婚はお断りです。真希さんは、俺が頼まれたから結婚したと思っていたんですか?! しかも病院の誰かを囲っていたと?! ―――冗談じゃない!」
マサキは真希の頤に指を当てて上向かせた。
真希の瞳に、怒りながらもやや困惑の混じった表情をしたマサキが映る。
「俺はそんなに器用じゃない。誰がそんな事を真希さんに吹き込んだんですか?!」
「……え? マサキさんが、わたしの事を好きじゃないって言ってたからそれで、この数日を加味して考えて……」
「身に覚えが有りません」
「いや、現にこの耳で聞いて……」
「あり得ません。聞き違いか、幻聴です」
マサキがゆるゆると顔を横に振った。
彼の何とも言えない視線に耐えきれなくて、真希は口を開く。
「……や、だって、ひと月くらい前に、好きじゃないって電話で話してるの絶対に聞いたし、病院に行った時に看護師さんが『マサキ先生』って親しげだったし……。普通は姓で呼ぶでしょう?!」
「ひと月前でも、そんな事は絶対に言いません。あり得ない。おそらく聞き間違いです! それに、名前呼びの件は、多分小児科に研修で行った時の看護師ですよ。何名かは今の外科に居るのでね。小児科では、名前で呼ぶようになっているんです」
「帰りが遅いし、帰ってこない日もあるし……」
「仕事をしてるんです。ちゃんと連絡してたでしょう? まだ外科医のひよっこなんで、準夜勤や当直を積極的にやって経験値を積んでる最中なんですよ」
「わたしにだけ他人行儀だし。他の人には普通なのに、わたしだけ……」
尻すぼみになっていく真希の言葉に、マサキの指がピクリと反応した。
困ったように一瞬視線を泳がせた後、何かに耐えきれないように彼の口角があがった。
(こっちは真剣に話をしているのに、なんで嬉しそうな顔をするんだ、この人は!)
マサキの反応に苛立ったのか、真希は頤を掴まれたまま、マサキを睨みながら言葉を投げ捨てた。
「皆には普通なのにわたしだけ他人行儀にされると、疎外感を感じて辛いんだからっ! わたしと一緒に居る時はいつもご機嫌伺いしてる風だし、服だっていつからか黒いのしか着てないし……!」
「この前も言ってましたね……」
マサキは真希の頤から指を放すと、今度は両手を使って頬を包みこんだ。
「……この格好は、嫌な事も全部分かち合うと誓ったから。でも、誤解しないで欲しい。俺は十分幸せだから。ご機嫌伺いは否定できませんが、他人行儀に関しては真希さんにその言葉を返しますよ」
「そんな事ないっ」
必死に虚勢を張る真希を、マサキは引きよせた。コツンと額がぶつかる。
「いつも作った笑顔貼りつけてるのは真希さんでしょう? 居酒屋の時もそうだ。辛い時でも隠そうとする。本当は泣きたい程寂しかったのに、痛みと酒で誤魔化そうとした」
「………………ぅうっ!」
図星を言い当てられて真っ赤になりながら言葉に詰まった真希に軽くキスをすると、マサキはその腕に力を入れて抱きしめた。そして、彼女の肩口に額を付けると、心底嬉しそうに笑った。
「仕事だって伝えてたのに、浮気なんてあり得ない疑惑まで作り上げるほどに、寂しかったんだ?」
「ちが――――――っ」
「違わない。真希さんは、意地っ張りで天邪鬼な寂しがり屋だから」
マサキは真希を抱きしめたまま、彼女の華奢な背中を撫でた。
まるで癇癪を起した子供をなだめるように。
「俺は、真希さんだから結婚したんだ。強がったことを言うくせに、陰でコソコソ泣いてる真希さんを抱きしめたくて」
耳に当てているマサキの胸からは、彼が今どのような気持ちなのか察する事が出来た。
ただ、その笑顔を見ているだけでは気付くことのできない反応だ。
トクトクと早く鼓動を刻んでいるその胸から察するに、緊張しているようだ。そう思えば、真希を抱きしめる腕も、微かに震えている。
「君の本心が見えなくて怖かった。拒絶されないのを良い事に半ば強引に縁談を進めたし、指輪を受けとってくれたのにもかかわらず婚姻届を書きたがらなかったし、でき上がった住民票を見た瞬間にすっごく嫌そうな顔をしてたから」
「………………うっ!」
「作った表情の真希さんを見る度に、本当は、結婚を後悔してるんじゃないかと考えた時もあった。だから……必死でご機嫌伺いしてた」
マサキは、真希を抱きしめたままベッドに倒れ込んだ。
二人でベッドに横になった状態で、大きな手が真希の柔らかな髪を梳く。
「……でもさ、さっきの真希さんの反応で、そうじゃないって解った。なかなか出てこない意地っ張りな本心にも気付けた。だからもう、ご機嫌伺いなんてしないし、―――遠慮もしない」
「――――――えっ?! あ……、ちょっと……!」
不意にマサキが起きあがり、真希の上に圧し掛かった。
反射的に出た彼女の両腕をやんわりとまとめると、妖しいと表現できそうな笑みを浮かべて真希の頬に口づけた。
「ずっと寝不足だったんだ。そろそろ楽にさせて?」
マサキの言葉に、真希の胸が跳ねた。
(楽?! 楽ってどんな意味でっ?!)
ピシリと固まった真希の反応で、彼女が言いたかった事を察したマサキは、吐息交じりの声で答えた。
「……寝させて」
こてんと真希の胸の上にマサキの頭が乗った。同時に手の拘束が解かれる。
マサキのさらりとした髪が、真希の頬をくすぐった。
妙な期待をして頬が熱くなってしまった。その状況が照れくさくて、彼の背をぱしぱしと叩く。
「マサキさんっ。寝るんならお風呂に入らなきゃ!」
「……唐辛子入りのお風呂は遠慮します。それに、病院でシャワーを浴びてきたんで大丈夫」
「えええっ?! 唐辛子の入浴剤苦手だったの?!」
「…………はい」
最近はシャワーで済ませてる事が多いとは思っていたが、そんな理由があったとは。
真希の頭上に本日二度目の、ショックと言う名の雷が落ちた。
疲れて帰って来ていたのに、ダイエットの為の入浴剤で、浴槽で足も伸ばせない状況を作ってしまっていたのか。
「着替えも明日で。……おやすみ」
吹き荒れる真希の胸中をよそに、マサキは満足気な顔で、彼女の胸に顔を埋めながら寝息を立て始めた。




