08
マンションの集合ポストから郵便物を出して家に帰りついた真希は、物憂げに食卓テーブルにそれを投げ置いた。
手を洗ってから、夕食にしようと食べる準備を始める。
ダイレクトメールの封筒を見ながらマサキに持って行った弁当の残りを腹に入れると、散乱しているものたちをクローゼットや棚に押しこんだ。部屋がまだ雑然としているがそれは仕方がない。気付かなかった事にして、体に着いたほこりを落とすために風呂に入る。
結婚してから怠惰な生活を繰り返し、現在進行形で増え続ける体重の為に、長湯する習慣がついた彼女は様々なものを浴室に持ち込んでいる。発汗を促すと言われている唐辛子の入浴剤はもちろんのこと、防水仕様のポータブルテレビとミネラルウォーターは欠かせない。百円ショップで購入したマッサージ用品も、顔用、足裏用、腿用と三種類くらいある。
通常ならばテレビを見ながらマッサージ用品で様々な部位をコロコロするのだが、今日は違う。テレビは付いているが、それを見てはいないし、耳に入っても反対から抜けて行く。
浴槽に深く座りながら縁に頭をもたげて、カビ一つ無い白い天井を見た。
心に靄がかかる。そして、マサキの言葉を考えた。
(わたしが掃除出来ないって、どうして知ってるの?! ……それに、見合いの席で言った言葉ってどれの事を指すわけ?!)
見合いの日の事を思い出しても、妙なこだわりを持ったがゆえに断る気満々で臨み、彼の一言に絆されてしまいそうな自分に逆らって、嫌味ばかりを延々と言っていた。だからか、彼の初めてのプロポーズ以外は鮮明に思い出せない。
たぶん、当時の自分の中では縁談は破談する予定で、もう会う事がない相手を覚える気がさらさら無かったのだ。
恐らく彼は、その時に浴びせた言葉の中の何かを律義に守っていたのだろう。
本当に真面目で、真っ直ぐなひとだ。それに、半ば自棄で放った酷い言葉にも、怒ることをしなかった優しすぎるひとだ。やはり自分には勿体ない。
天井を睨みながら真希が「むぅ」と唸っていると、見合い当日に彼に抱いた気持ちが少しだけ出てきた。氷をも融かしそうな熱い何かが、じわりと真希の中の意地っ張りの部分を融かし始めた。いや、もうすでに融けていたのかもしれない。おそらく指輪を受けとった瞬間に。
彼の真っ直ぐな言葉に絆されて、せり上がってくる感情に逆らう事を止めて、つい頷いてしまった瞬間に。
けれど彼女は、それに気付きたくないと頭を振る。
(気付いちゃいけない。だって、マサキさんは――――――っ。)
この間、まどろんでいた時に『愛してる』と聞いた気がするが、それは自分が見た都合のいい夢だ。だからこそ、私もその言葉を返してしまった。優しいからこそ、そう言ってくれたに過ぎないのに。
この結婚だってそうだ。きっと、親に泣きつかれて断れなかったに違いない。それか彼に有利な交換条件を出したか……。じゃなきゃ、こんな家事も出来ない、怠惰な自分と結婚するメリットが無いじゃないか。
(帰宅はいつも遅いし、帰らない日もある。それに、喪服のような黒い服を毎日着てるのが現実じゃない)
今日にしてもそうだ。弁当ひとつで喜んでいたのも、彼が優しいからそう演じてくれたのだろう。別れ際の言葉も、恐らく優しさゆえのなにかだ。社交辞令に過ぎない。つい、彼の態度と言葉で、もしかしたらと甘い幻想を抱いてしまう。でもそれは駄目なのだ。『つい』といううっかりで、これ以上の間違いを起こしてはいけない。
自分以外にも、彼の名前を親しげに呼ぶ女性は他にもいたではないか。篠田と言う女性は違うと彼は言った。ならば別の人なのかもしれない。
真希は病院出会った二人の看護師を思い浮かべ、濡れた手で頭を包むように押さえた。
――――――好き? そんなんじゃないさ。
ひと月と少し前に聞いてしまったマサキの言葉を思い出して、真希は頭から手をはなすと湯船の中でその身を守るように抱きしめた。
今しがた抱いた気持ちを忘れる為に、彼女はギュっと目を瞑り頭を強く振る。
その反動で頬を一筋の水が滑った。
たっぷりの時間をかけて恒例の一時間入浴を終えた真希は、冷蔵庫に向かった。
鎮座するビールを見て自然と手が伸びる。沈んだ気分を発散させる為に、飲みたい気分だったのだ。しかし、彼女は昨夜の醜態を思い出して表情を歪める。
(……駄目。禁酒するって決めたんだった)
とても飲みたそうに口を引き結び、名残惜しそうに冷蔵庫の扉を閉めた。
ソファにぐたりと寝ころび、手を伸ばしてリモコンでテレビをつける。
(……楽しくない)
気分が沈んでいる所為か、普段見ているお笑い番組が面白くない。
今日はもう寝ようか、とリビングの灯りを消して寝室に向かった途端、ここ十数年間、聞いていない音楽が鳴り響いた。運動会の徒競走で流れる定番の曲だ。なぜそんなものがと訝しんだ真希は音の根源を探した。
走ってしまいそうになる音楽は、真希の携帯から奏でられていた。誰だろうと首を捻りながら液晶を覗くと、相手はマサキだった。
恐らく今朝、充電するついでに着信音設定を変えたのだろう。
(それにしても珍しい。夕食後に電話をかけてくる事なんてあまりないのに。……何かあったのかな)
一瞬、事故かもしれないと嫌な予感が過ぎり、通話ボタンを押す手が震えた。
「…………はい」
『あ、俺です』
真希は、どちらの俺様ですか? とツッコミを入れたくなった。しかし、同時に、事故では無かったと安堵する。
『メールだと返事が来ないかもしれないでしょう? だから電話で。……もう少ししたら帰れそうです』
「……はぁ。そうですか」
それだけを伝える為に電話をしたのだろうか、と疑問符が頭を占める。
しかし、そうではなかったようだ。耳朶に触れる携帯からは、なおもマサキの声が続く。
『今日は真希さんと膝を突き合わせて話をする必要があると思うんです。だから、出来れば起きていて欲しいなと……』
「明日も仕事なんじゃないですか? 無理して夜中に話しあわなくても良い気がしますが」
『休みです。……じゃあ、できれば起きていてくださいね』
真希の返事を遮るように放たれたマサキの締めの言葉をもって、通話は終えた。
(今のは……わたしの返事が必要な内容……?)
黒くなった液晶を見ながら、メールでも事足りたと首を捻る。
まあいいかと気持ちを切り替えて、真希は携帯をポケットにつっこむ。再びリビングの灯りを付けて、マサキが帰宅するまでの暇な時間を活用して家計簿をつけようと帳簿を開いた。
家事は出来ないが帳簿付けは得意分野だ。これでも会計専門学校を上位の成績で卒業している。真希は財布からレシートを取りだすと電卓を叩き始めた。
いくら夜型の真希でも瞼が重くなってきた時分、再び携帯が鳴りだした。
またもや走りたくなる曲だ。なんでこの選曲なんだ、と真希は液晶に浮かぶマサキの名を目に入れながら呟くと、眠い目を擦りながら通話ボタンを押した。
真希の耳に響いたのは、疲労感満載だと電話越しでも解るマサキの声。無理も無い、寝不足の上に夜遅くまで働いていたのだ。
『真希さん? 起きてましたか? 今さっき病院を出ました。これから帰りますね』
「……はい。なんとか起きてます。あの……なんで着信音が徒競走で使われる曲になってるんですか……?」
『ああ……。走って手に取りたくなるでしょう? 俺専用の着信音です』
俺専用。その言葉に甘い何かが胸に溢れた。さっき、気付きたくないと思った何かだ。
その気持ちに戸惑い、真希は言葉が出なかった。
しかしマサキは、沈黙した真希に対して、勝手に携帯をいじられて怒っていると誤解したようだ。電話口から聞こえる声が、少し沈んだものになった。
『他の人と同じでは嫌だったんです。駄目だと思いつつ、今朝、真希さんが寝ている間に設定してしまいました。勝手に携帯を開いてすみません。ですが、他の機能は一切触っていないので安心してください。……それでは、直ぐに帰りますので』
再び真希が何かを言う前に、通話は終了した。
見られて困る物があるわけでもないから、携帯を触られて怒っている訳ではないと伝えそびれてしまった。黒くなった液晶を見て、少し寂しく感じた自分の気持ちを切り替える為に、ふぅと息を吐き出した。
(さっきは、『もうすぐ帰る』。今のは、『今、病院を出た』。……なんか、○リーさんみたい)
某ホラー映画を思い出してしまった。
徐々に人形が近づいてきて、今いる場所をわざわざ電話してくるという映画だ。
次は、玄関先で電話をかけてくるのではないだろうか。眠いせいか、思考が変な方向へと向かっているようだ。
眠らないように、手を上に上げて身体を伸ばす。
気分を切り替えると、ひとつの疑問が浮かぶ。
「膝を突き合わせて話し合うって、なにを……?」
今朝も同じ事を言っていたと真希は思い出した。
十中八九、『お褥滑り&離婚発言』の理由を聞かれると予想して、顎に手を当てて対策を考える。
正直に「以前、会話を盗み聞きしてしまいました。好きじゃない女、しかも家事もろくに出来ない自堕落女が嫁で申し訳ないから」なんて絶対に言えない。
優しい彼の事だ、それは無いと嘘でも言いきるだろう。
真希は唸りながら、尚も考える。
……が、いい案が浮かばない。
それもそうだ。ばれた時の対策なんて考えずにいた。それを今になって真希は悔やんだ。
(いっそのこと、また寝たふりをしてしまおうか……)
子供の様な考えしか浮かばない。しかし、それしかないと寝室に向かおうとしたその時、再び携帯が鳴り響いた。
予想外に考え込んでしまったようだ。
マサキの三度目の着信だ。真希はごくりと唾を飲み込むと、恐る恐る通話ボタンを押した。
「………………はぃい」
緊張からか、声が裏返ってしまった。
マサキはそんな真希の様子を悟ったのか、くっくっと笑う。
『寝たふりなんて考えていませんよね?』
「………………ぃぃえ?」
ずばりと言い当てられて、またもや真希の声が裏返る。
『今、玄関前にいるんです』
(うわあ。○リーさんだ……)
予想通りのマサキの言葉に、真希は言葉を飲み込んだ。
『? 出来れば、扉を開けてもらえないでしょうか』
「――――――え? ああ、はい」
これは予想外の言葉だった。両手が塞がっているのだろうかと考え、真希は通話を切ると走って玄関に向かった。
扉を押して開けると、そこには、弁当を届けた時よりも隈を濃くした彼が、何やら眉間に皺を寄せて立っていた。
つい先ほどまで電話口で笑っていたというのに、どうした事かと真希が訝しんだその時、マサキは盛大な溜息をついた。それは疲れからではなくて、なにかに呆れたという感じだ。
「……鍵がかかっていませんでしたね」
「はい? 寝る前に締めますよ?」
あっけらかんとする真希の言葉を聞き、マサキの眉間の皺が深くなった。彼は指で眉間を揉みこみながら低い声で注意を促す。
「…………不用心です。家に入ったら必ず締めてください。いくらセキュリティがちゃんとしてるマンションでも、強盗が入ってくるかもしれません」
「…………そうですね。はい」
「解ってくれたならいいです。……では仕切り直しです。もう一度、扉を開けるあたりからやり直してください」
「――――――は?」
意味がわからない。
まさにその一言につきる。
怪訝に思って真希が見上げると、マサキが今度はニッコリと笑いながら、扉を指さして「もう一度」と再び催促した。
全くもって意味不明のまま、真希は疑問符を頭に浮かべながら再び家に入った。
(なにがしたいの?!)




