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05

 マサキの大きくて長い指が、目の前の小さくて華奢な身体を抱きしめようと伸びる。縮こまったその身体に触れるか触れないかの位置に来た時、彼は不意に思い出した。

 この場所が何処だったか。

(ここは病院だ。勤務地で医局前。室内には……藤堂がいるじゃないか!)

 マサキは、くっと一瞬だけ悔しそうに口を引き結んだ。

 しょんぼりと項垂れて、後悔を身体全体で露わしている真希の身体に向かった手を、わざとらしくポンと合わせる。目の前で軽く叩かれた手の音が気になったのか、真希はそろりと見上げた。マサキは、ようやく視線が交わった彼女にニッコリと含みのある笑顔を向けて口を開く。


「真希さん。もしも今日の事で悪いなと思ってるなら、来週の休日は俺に付き合ってください。恩師の講演会に行こうと思ってるんです。退屈かもしれないですが、いいですよね?」

「えっ? 恩師って大学のですよね? 悪いですがわたし、そう言うのは興味な……」

「―――行かないなんて言わないですよね?」


 有無を言わせない程にニッコリと微笑むマサキを前に、真希は引き攣った顔で同意するしかなかった。

 微妙な表情で頭を振った真希を見て、マサキは少し調子に乗ってしまったようだ。

 耳まで真っ赤にして固まっているのは、滅多に見られない彼女の素の表情。

 作った笑顔の仮面ではなくて、本当の彼女の表情だ。

 嬉しくて、嬉しすぎて、マサキは子供のように目を輝かせた。そして、むくむくとわき上がった悪戯心。


「ついでに、もうひとつ――――――」


 にやりと表現できそうに口角を上げると、真希の頤に指を這わせて顔を上向かせた。


「今日一日考えてたんですが、あの言葉を撤回して欲しいです」

「……あの言葉?」


 真希は首を傾げて眉間に皺を寄せると、オウムの様に言葉を繰り返した。

 あの言葉とは何だろう。昨夜から今朝にかけて色々と彼に言いすぎて、どれを撤回していいのか解らないのだ。

 思案する彼女に、マサキはふっと笑って答える。

 真希の耳に唇を当てて、まるで内緒話でもするかのように。


「はい。『お褥滑り』ですよ。……撤回してください」

「―――――――!!」

 

 ひそかに実行中だった『お褥滑り』の撤回を願われて、言葉が出なかった。今朝、ついついぽろりと出た言葉だったのに覚えていただなんて、さすがは医者。記憶力は良いらしい。

 脳内が冷静なのに対し、真希の心はあわあわとして、言葉が出ない程に動転している。

 いや、耳に唇を寄せられたから、言葉が出なかったと言った方が正しいかもしれない。

 こんな事は反則だ、と真希が顔を真っ赤にして動けないでいると、あろうことかマサキは、金のピアリングが揺れる彼女の耳に息を吹きかけた。蝋燭に灯った炎を消すように、細く長い息を。

 身をビクつかせて小さな悲鳴を上げる真希を見て、マサキはピンクオーラを纏いながら幻想の薔薇を背後に咲かせ、色気が駄々漏れている悪魔的な笑みを浮かべた。

 薄い唇をにたりと開き、金魚が餌を求める時の如く口をパクパクさせている真希の耳に、再度唇を寄せて告げた。

 


「―――この結婚生活を維持して行く為に、見合いの席であなたが言った言葉を守ろうと今まで遠慮してきましたが、それを止めます。このままでは、真希さんは離婚届を用意して逃げようとするようだ。……だから、今度は攻める為にも『お褥滑り』を撤回してもらわないと。じゃないと夫婦和合なんて出来ないし」

「なっ……!」


 マサキの言葉に、真希は尚も顔を真っ赤にさせて、耳に唇をくっつける彼の身を押しのけようとした。

 精一杯伸ばした手を、マサキは難なく掴む。彼は、真希の女らしい華奢な指に嵌る結婚指輪に口づけた。

 この指輪を受けとった時の自分を、その時の気持ちを思い出してくれと伝えるように。

 

「……その様子だと、撤回はして貰えそうもないですね。……良いですよ。じゃあ、撤回したいと思えるように、攻めることにします。生殺しはごめんなんで、全力で攻めさせて貰います。覚悟してくださいね?」



 あまりに妖艶に笑うから、現代日本では考えれないような仕草をするから、真希の許容量は一杯になった。心の瓶から、なみなみと何かが溢れ出るのを感じた。

 恥ずかしくて、でもどこか心地よくて。

 身をゆだねたくなって、でも抗いたくて。

 手に触れる微かな温もりを心地いいと思いながら、意地っ張りな心は素直になることを許さない。真希は、泣きそうな顔で、彼に掴まれている自分の指を引きぬいた。

 身じろぎした際に、ちらりと見えた彼の表情。それを見た瞬間、真希の足は踵を返して病院の外へと駆けだした。

 

 

 

 

 



 真希の後ろ姿を見送るマサキに、彼女の足音を聞いて部屋の奥から出てきた藤堂の嫉妬交じりの言葉が飛んだ。



「おい、禿げろやリア充新婚が。ここは病院だろうが。『生殺し』だとか、『攻める』だとか卑猥な言葉使ってんじゃねぇよ」


 

 ハリセンでも持っていたら、スパァンと勢いよく頭を叩かれそうな口調だ。マサキは億劫そうに振り向くと、見送りの邪魔をするなとばかりに顔をしかめた。

  

 

「……藤堂。盗み聞きは感心しないな」



 藤堂は、分厚いカルテファイルを片手に、扉に凭れていた。太い腕の先に握られたカルテファイルが、ハリセンのかわりになりそうだと考えたのか、マサキは平静を装いながらもやや身構える。

 しかしマサキの考えは杞憂だったようだ。

 藤堂はカルテファイルで、肩の凝りでも解すようにこんこんと肩を叩いた。

 そして、彼にしては珍しく、窺うようにマサキに声をかける。

 


「聞こえてきたんだっつうの。扉位閉めろや。……ってかさ、お前『階段ちゃん』とうまくいってねぇの?」


 マサキは、親友ともいえる藤堂に話してしまいたくなった。

 なぜか彼女は離婚を考えている、と―――。

 しかし、口を手で覆って暫し考えると、微笑んでいるとも悲しんでいるともとれる、曖昧な表情で口を開いた。


「………………黙秘で」

「お前に黙秘権は無い! お前が『階段ちゃん』と接点を持てたのは誰のお陰だ?」


 びしりと音がしそうな勢いで眼前に付きつけられた藤堂の指を見ながら、マサキは「お前だな」と悔しそうに顔を歪めた。

 彼女の名前を教えてくれたのは、当時、整形外科の研修に行っていた藤堂だ。伝手を作ってくれたのも藤堂。つまり、藤堂はマサキの恩人であり、愛のキューピットなのである。



 マサキが真希の存在を知ったのは、研修中に休憩で使っていた非常階段だ。人気が無く静かで誰も通らない。床が硬いのを我慢すれば、座布団持参で、非常扉に寄りかかって仮眠するにはもってこいの場所だった。


 非常階段の扉の外から聞こえてきた名前も知らない彼女の声。携帯で話しているのか、笑い声も泣き声も彼女ひとり分。

 建物の間にあるために薄暗くて、誰も寄り付かない非常階段の外側。常にじめじめとしているそこは、あちこちに苔が生えて風の吹きだまりなのかゴミも多い。お世辞にもきれいとは言えない場所だし、苔の所為で滑るから危険だ。寒いし汚い。幽霊も出るという噂もあった。そんな場所に女がひとりでいる。

 最初は物珍しくて、扉越しにその声を聞いていた。休み時間になると、仮眠目的ではなくても必ずその場所に行っていた。彼女がいなくても、いつ来るのか解らなくても。

 いつしか藤堂に悟られて、彼女の事を知った。

 最初は戸惑った。嫌いな人だったからだ。近づきたくなくて避けてすらいた。

 しかし、彼女の声を聞き続けるうちに、いつしか自分が間違っている事に気付いた。

 彼女がそこに行く理由と、どんな想いで大学病院まで来ているのかを知って、不器用すぎる彼女に嵌っている自分に気付いた。

 ずっと背中越しの、彼女に気付かれる事のない、ひとりだけの逢瀬だった。

 それで満足していた。けれど月日が経つにつれ、それだけでは満足できなくなっていた。

 そんな時だ。神の采配か、彼女の私物が自分の懐に飛んできた。それを返す口実で、彼女との話す接点が出来たと喜んだ。

 だが、時を同じくして、彼女は学校を卒業した。大学病院の母体団体が経営する、専門学校の福祉サークルという名目で大学病院に来ていた彼女は、もう来る必要が無くなったのだ。

 意気消沈する自分に、藤堂は意外な事を言った。彼女とはひとつだけ接点があるのだと。意外だったが、整形外科の研修医ならばそうかと納得出来た。

 一か八かの賭けで藤堂に頼んだら、彼女は大学病院の老人福祉ボランティアとして、再び大学病院内の老人施設にやってきた。近くのパチンコ店の従業員として。彼女がボランティアに来る日は、藤堂の伝手で耳に入るようになっていた。

 勤務の都合ですれ違って、言葉を交わしたのは二言三言。非常階段の扉を隔てた自分の存在を知らなくても、単なる新人医師としての認識しかなくても、彼女と接点を持ちたくて機を狙っていた。

 少しでも彼女の視界に入るように、だらけた人間は嫌いだと耳にして、彼女の目につくように、大学病院の夜勤バイトを頑張った。眼鏡が嫌いだと聞いてコンタクトにも変えた。

 悔しいが、彼女の情報は全てと言っていいほど、藤堂からもたらされたものだ。




 そんな経緯があり、マサキは、真希に関する事では藤堂には頭があがらない。

 マサキは薄い唇から、胸のつかえをとるように、ふう、と息を吐き出した。

 室内に入り、誰にも聞かれないように扉をぴたりと閉める。ふんぞり返ってマサキの隣の席に座った藤堂を見て自分の席に腰を下ろすと、無駄な説明を省いて口を開く。

 


「……以前から離婚を考えていたようなんだ。彼女の性格上、何か勘違いをしてる可能性が高い。見合いの席での彼女の言葉を律義に守って、遠慮しすぎたがいけないのかもしれない。だから、遠慮するのは止めた。これから攻めるつもりだ」

「なんつうか、……開き直ってねぇか?」

「開き直らならないと、離婚届を用意されそうなんだよ。いくらでも破り捨てるけど、さすがにそれは精神的にきついし」


 マサキはふうと息を吐き出すと、机に両肘をついて、組んだ手の上に顎を乗せた。

 切れ長の瞳を閉じた姿は、戦略を練っているかのようだ。

 そんなマサキに、藤堂の疑問の入り混じった声が飛ぶ。


「ところでよ、見合いの時になにを言われたんだ……?」


 偉そうにふんぞり返った藤堂は、手持ちぶたさだったのか、懐から煙草をとりだして火を付けた。

 がっしりした顎に紫煙がくゆるそれを加えて、またもや言い淀んでいるマサキに急かすような視線を送る。

 マサキは組んでいた手を解き今度は頭を抱えた。そして、これから口にする言葉が恥ずかしいのか、頬を赤らめて小さく呟いた。


「――――――関白宣言……?」


 疑問形になってしまったのは、そうだと確信が持てなかったからだ。

 自分にはそうとれたが、彼女には違う意味合いだったのかもしれない。マサキはそう考えた。

 

 

 

 

 

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