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04

 以前書いてもらたメモを片手に、真希は薄暗い廊下を進む。迷路のようだと思いながら、キョロキョロと忙しく眼を動かしながら、めったに見られない病院の通路を歩いた。

 何度か角を曲がると、ようやくマサキの詰める外科医局の扉前まで辿り着く事が出来た。

 扉の名前を確認して、緊張感が緩んでホッと一息つく。

 少し不安なのか、弁当の袋を握っている彼女の手は、その心情を露わしているように少しだけ力が入っている。

 袋を持っていない方の手でノックをしようと手を上げたその時、話声が聞こえる事に気がついた。

 誰かが一緒にいるのか、扉の中からは誰かに話しかけるマサキの声が聞こえる。


「……だから、もう帰れって。お前の医局はここじゃないだろう?」


 とても親しいのか、真希に話しかけるのとは違う口調だ。そう考えた瞬間、胸がつきりと痛んだ。真希は口元を引き結び、弁当を抱える腕に力を入れた。

 彼が親しげに話す声を聞くと、邪推だとわかっていても連想してしまう。

 ぷっくりとした唇と声が印象的な篠田という女性。また彼女が一緒にいるのだろうか。そう考えただけで、彼の浮気は誤解だと聞いたた今でも足が震える。

 真希はその場に立っていられなくなって、しゃがみ込んでしまった。

 膝に顔を埋めて彼女は思う。なぜこんなに悲しいのかと。



「なんだよ、いいじゃねぇか。ホント心が狭い奴だな」

「……うるさい。俺はやる事があるんだ。自分の医局に帰らないなら、せめて部屋の端っこで静かにしてろ」

「やる事って……。ニタニタしながらメール見てるだけじゃねぇか」

「何か言ったか?」

「さあね」



 壁を背にした真希の耳に響いてきたマサキを揶揄する声が、男だと解る程の野太い声の持ち主であると解ると、彼女は肩の力を抜いて薄く開いた唇から安堵の息をもらした。

 壁に手をついて、ゆるりと立ち上がる。

 しかし、彼女は、扉とにらめっこでもしているかのように立ちつくした。彼以外の人も一緒にいると解ると、なかなか扉をノックが出来ない。来客中ならば待つべきか。しかし、あまりこの場で時間はかけたくない。彼が帰ってくるまでしか片づけの時間が無いのだ。

(今日も看護師さんに渡して帰ろうかな)

 扉のすぐ横の壁に寄りかかって、胸に抱えた弁当を思案気に見た。

 早く帰って、未だに散らかっている部屋の片づけもしたかった。

 真希が悩んでいると、静かになった室内から再び野太い声が聞こえてきた。


「あのよ、……遅くね? とっくに七時過ぎてんだけど」

「…………確かに。――――――まさか事故とか?!」


 がしゃん、と重い何かが倒れる音が、静まりかえる廊下にまで聞こえてきた。

 何が起きたのかと驚いて、扉に向き直ってノックをしようと手をかけた瞬間、真希の鞄から、電話を知らせる着信音が大音量で廊下に鳴り響いた。

 真希が携帯を手に取る前に、彼女の目の前の扉が、がらりと勢いよく開く。

 途端に彼女の視界いっぱいに現れた黒い服。

 真希があっと言う前に、慌てふためいた声が彼女に向けて発せられる。


「真希さん! 無事ですか?!」


 まるで、死地から帰還した者を確認するような口ぶりだった。

 頭上から自らの名前を呼ばれた真希は、マサキの大きな声に肩をビクリと揺らせた。まさか名前を叫ばれるとは思わなく、手にしていた弁当入りの袋を落としそうになった。

 それに気付かないマサキの大きな手が、すくんだ真希の肩をぐっと掴む。彼女の無事を確かめるように、肩から腕をふにふにと揉むように触れる。

 もしかしたら、さっきの音は、慌てた彼が何かを倒したのかもしれない。その考えが一瞬だけポカンとしてしまった真希の脳裏に浮かぶほど、マサキの姿は焦っている。

 本気で心配していたのだと解り、真希の心が少しだけ温かくなった。


「……無事ですよ? 第一、事故になんて遭ってませんよ」


 話を聞いていた事をにおわせながら、彼女は黒い服の胸元から徐々に視線を上げていく。真希のその表情は、腕を揉まれてくすぐったいのか、彼の勘違いが嬉しいのか少しだけ笑んでいる。

 やんわりと微笑みを浮かべて、窺うようにマサキの顔を覗くと、慌てた表情を浮かべている彼と真希の視線がかち合った。 

 彼は恥ずかしそうに顔を赤らめると、何かを誤魔化すように一度だけ咳払いをした。


「……真希さんが遅いから。でも、事故に巻き込まれていたんじゃなくて、良かった」

「遅くなってごめんなさい。滅多に来ない場所で尻込みしちゃって。……はい。お弁当です」


 差し出された弁当の入った袋を受けとると、マサキの目尻がふにゃりと下がった。

 冷淡とはかけ離れた、ほわわんと表現できそうな幸福感満載の表情である。真希は先ほど聞いた言葉を思い出して、成程と手を打ちたくなった。

(確かにでれた表情だ)

 顔のパーツを緩めてまで幸福感を表現されて、普通の嫁ならば嬉しいと顔を綻ばせるだろう。しかし、今の真希は微妙な気分になった。マサキの表情を見て、つきりと胸が痛んだのだ。 

(汚部屋を知られたくないが為に、マサキさんを家に帰らせないための弁当だなんて言えない)

 優しい彼は自分の誘いを断る事が無いと知っていて、夕食に弁当を持って行く旨のメールを打ったのだ。

 真希は、営業スマイルスキルを駆使して、胸の痛みをマサキに悟られないように努めた。マサキはとても嬉しそうに笑って、ぎこちない笑顔になった真希に向き直る。


「ありがとうございます。夜に届く弁当を楽しみにしすぎて、今日一日がとても長かったです」

「……そうですか」

「メールも、初めて真希さんから貰えました。しかも長文。『はい』や『わかりました』や『大丈夫です』以外のメールなんて初めてだったので、嬉しかったです」

「……いえ」

「俺の為に弁当を作ってくれてありがとうございます」

「………………っ」



 ほわりと微笑みながら真希を見降ろすマサキは、誰が見ても幸せそうだ。幸福のピンクオーラが漂っていると真希ですら肌で感じる。

 真希の胸は、罪悪感で一杯になった。

(マサキさんの為に作ったんじゃなくて、自分の為に作ったのに。自分の醜態を知られない為に)

 にこにこと微笑むマサキを直視できなくて、彼女は黙っていられなくなった。気が付いたら口を開いていた。

 

「ごめんなさい。違うんです」

「……え」


 真希の困った顔を見て、マサキの表情が強張った。春爛漫と言えるほどのほんわか春色ピンクオーラが一瞬で消え失せた。そのかわりに、深い落とし穴に落とされたような、方位磁石が定まらない深い森に迷い込んだような表情を浮かべている。

 一言で表すならば、『絶望』。今のマサキは、形の良い眉尻を下げてそんな顔になっている。

 そんなマサキの絶望感露わな表情を見て、真希は裏切ってしまったような気持ちになった。

 小さな声でごめんなさいと呟きながら、両手を胸の前で強く握りしめる。


「自分の為なんです。出来るだけ遅く帰ってきて欲しいから。だから、少しでも病院にいてもらおうと思って……」

「―――なぜ? …………もしかして、今朝俺が真希さんにしたことで怒ってしまいましたか?」


 マサキにしては低い声音で、俯いてしまった真希に問いかけた。表情と同じで声まで強張っている。

 真希は振り子のように頭を振った。そして、多大なる懺悔の気持ちと少しの羞恥心で震えてしまった声で答える。


「違います。……家が汚くて」


 真希のその一言を聞き、マサキの表情の強張りが融けた。

 なんだ、と気の抜けた声で笑いながら、長い指で真希の髪を梳くように撫でる。


「てっきり、俺と一緒にいるのが嫌なのかと思ってしまいました。いくらなんでもアレはやり過ぎたかと。怒ってないのなら良かった。……家が汚いのくらい知ってます。昼前にメールを送ったでしょう? 明日掃除をしますから」

「―――違うんですっ。……わたしが汚部屋にしてしまったんです!」

「……ああ。昨夜はかなりの勢いで酔ってましたからね。仕方のないことですよ。出来れば次はもう少しお手柔らかにしてもらえると嬉しいです」


 子供の悪戯をたしなめるように言うと、マサキは切れ長の瞳を和らげて微笑みながら、今にも泣いてしまいそうな雰囲気の真希の頭を尚も撫で続ける。

 言いたい事が伝わらない真希は、尚も違うと言葉を続ける。自分が汚部屋作りの天才だと伝えるべきだと、意を決したように顔をあげた。

 

「マサキさんは知らないと思うけど、わたしが掃除をすると、不思議と汚部屋になってしまうんです。……片づけようと思ってたのに、気付いたら汚部屋になってて、でもマサキさんが帰ってくるまでに終わりそうもなくて。だから時間稼ぎでお弁当を作って外に居てもらおうとしてました。だからそんなにお弁当で喜ばれると逆に困ります。―――ごめんなさいっ!」


 自分の伝えたかった事を箇条書きの様に捲し立てると、これでもかと言うほど真希は最後に頭を下げた。

 自分が彼の立場で、同じ事をされたと考えると悲しくなる。恥ずかしくて、面目なくて、彼の顔が見れない。

 真希は顔を真っ赤にして、最後の審判を待つようにマサキの言葉を待った。



 頭を下げながら罪悪感に苛まれていると、彼女の頭上にマサキの意外な一言が降ってきた。


「……知ってますよ。真希さんが掃除下手なのは。汚部屋だとか時間稼ぎとか、そんなのはどうでもいいです。俺はね、時間稼ぎであろうと、弁当を作ってくれた事が嬉しいんです」

「――――――え」


 まさかの言葉に驚いて、真希はマサキを仰ぎ見た。

 ニッコリと笑っているその顔は、その弁当が本当に嬉しいと伝えているようだ。

 しかし真希はそんな彼の表情を観察している余裕などない。掃除下手だと知っていると言った、彼の予想外の言葉に頭の中が真っ白になっているのだ。

 微動だにしない真希を訝しみ、マサキの表情がくしゃりと崩れた。


「もしかして、買って来たものを詰めただけですか?」

「違います! ちゃんと作りました!」


 マサキが、眉を下げてあまりに悲しそうな表情をするから、真希はそれまでの羞恥心や罪悪感を一瞬だけ忘れた。身を乗り出して、ちゃんと本を見ながら拘って作ったのだと弁明する。

 それを受けたマサキは、ふにゃんと表現出来そうな表情を浮かべた。


「それなら俺は嬉しいです。米とぎひとつ出来なかった真希さんが、俺の為に料理を覚えてくれた。今日も本を見ながら作ったんでしょう? 部屋を片付けたいのに、それなのに弁当に時間をかけてくれた。だから、それを食べる事が出来て幸せです。……遅く帰って来いの一言は、さすがに傷つきましたが」


 自分の前髪をクシャリさせながら、マサキは明後日の方角を見て、はははと渇いた笑い声を出した。

 心がほわりと温かくなる言葉の数々に、真希はこそばゆくなった。恥ずかしくて逃げ出したくなったがそれを我慢する。

 どうやら、優しい彼の事を傷つけてしまったようだから。

 真希はその口を使ってごめんなさいと伝える。彼の顔を見る勇気が無かったのか、彼女の瞳は、てかてかと光った床を追っている。

 真希の言葉を受けたマサキは、チラリと彼女に視線を移した。

 俯いた彼女の表情は髪に隠れて見えないが、耳が赤い事から、どのような想いを抱いているのかは察せられた。

 マサキは、ふっと小さく笑うと、目の前で小さくなった小柄で華奢な身体を抱きしめたくなった。

 

 


 


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