03
ベランダで風に揺られる洗濯物を見ながら、真希はマサキからの『今夜は遅くなる』とのメールを確認すると、携帯をぎゅうと握りしめた。
温かな太陽が寒さを和らげ、からりとした空には雲ひとつない。この寒空でも日差しは強く、洗濯物は湿り気ひとつなく渇くだろう。そんな晴れ晴れした空とは反対に、真希は憂鬱そうに部屋へと視線を移した。携帯を床に置くと、途方も無い表情を浮かべて小さな声で自問した。
「うーん……。『部屋は一切手を付けずにそのままにしておいて』って、今更言われてもねぇ」
もう遅い、と真希は重い息をはきだした。
「でも、これで夜まで時間稼ぎは出来た。弁当は後で買い出しに行けばいいか。……なんでこんな状態になったかな」
掃除をしようとしたはずだった。
途中までは順調だったはずだ。タオルをたたんで寝室に片づけて、ソファを元の位置に戻すまでは。
真希は、ううんと首を捻ると棚に視線を移した。
「棚を掃除しようとしたのがいけなかったのかな。……いや、棚の整頓をしてて、懐かしい漫画を発見したんだ。それを見てるうちに面白くなって、そこら中にしまってある文集や旅行雑誌やらを読んで……。気付いたら部屋に埃が舞ってて、掃除機をかけようとしたんだった」
掃除機をかける前に、どうせなら棚のものを全部出して、棚の中の拭き掃除もしようと真希は考えた。
棚に収納してあったはずのものをあちこちに積み上げて、棚を綺麗に磨きあげた頃、彼女は気がついた。部屋が逆に汚くなっている事に。
――――――そう。真希は掃除が極端にへたくそだった。彼女が掃除を始めると、みるみる片付くのではなく、不思議と物が散乱していく。汚部屋を作る天才だった。
「……なんて懐かしい感覚……。掃除をしていて、逆に汚部屋にしちゃうなんて。……ってそんな懐かしさに浸っている場合じゃないし! どうすりゃいいのよ、コレ!」
床に積み上げられた物達は、真希の磨きあげた棚に収納してあった物だけではなく、あちこちから持ち出した漫画本だったり、もの珍しい図鑑型の医学書に及んだ。
適当に持ち出したから、どこに収納してあったのか覚えていない。真希は頭を両手で掻きながら、心の中で片づけひとつ満足にできない自分の不甲斐なさを嘆いた。
「ううっ。汚部屋作りの天才健在じゃん。マサキさんの掃除テク、見とけばよかった。……って悩んでてもしょうがないか。地道に片づけよう。夜中までには片付くでしょう。あはは……」
自分ひとりで使う家ならば、放置するだろう。しかし、ここはマサキとの家だ。真希はひとしきり嘆くと、鬱々とした気分を切り替える為に、頬に軽く両手をあてて小気味いい音を部屋に響かせた。
目をぎゅっと閉じて、じんとする頬の痛みを噛みしめる。
冷たくなった手で頬を冷やしていると、汚部屋を作ってしまった事によって混乱していた頭も冷静になった。
汚部屋に手をつける時は計画的に。こんな時こそ、冷静に計画を練らなければいけない。勤めていた企業の年度末の領収書整理地獄に比べれば、この程度の汚部屋ならきちんとした計画を立てれば直ぐに片付くはず。
真希は汚部屋と化したリビングを見回して、顎に手を当てて考える仕草をした。
「……今は一時前。片づけはお昼を食べてからにしよう。七時ごろにお弁当を届ければいいから、買い物は三時に。五時までに作って冷ます。とりあえずは二時までに食べ終わって、三時までにこの棚を整頓しなきゃ。後のごちゃごちゃは、マサキさんに夜ごはんを持って行ってからにしよう」
両手の平をパチンと胸の前で打ち、自分の納得する『汚部屋掃除計画』を立て終わると、真希は昼食を食べる為に冷蔵庫に手をかけた。
しかし、空っぽの冷蔵庫内を見て、愕然とする。
「そう言えば昨日は買い物してなかった……。計画変更。今から買い物に行ってお昼ご飯と共に、夕食の材料を買って来る。帰ってきたらすぐに食べて、お弁当を作って冷やす。六時すぎに家を出るまで、ひたすら片づける。……よし、これでいこう」
真希はエコバッグと財布を片手に、小走りで近所のスーパーへと向かった。
特売品を手に入れて、来た時と同じく、小走りで帰宅する。
かきこむように昼食のカップラーメンを腹に入れると、真希は包丁片手に料理を始めた。
掃除が出来ない代わりに、結婚する前に、指に絆創膏を貼りながら、必死になって覚えたのが料理だった。
主婦としての真希がマサキの役に立てるのは料理しかない。だから、一日を締めくくる夕飯だけは、出来るだけ手を抜きたくは無いと心に決めているのだ。
本に載っている程の綺麗な見た目ではなくても、お店で提供されるような舌を巻く味でなくても、単調で素朴すぎる味であったとしても、出来るだけの料理を真希自身が作り、冷凍食品やレトルトを出さないように努めている。
マサキ自身も、そんな真希の料理を「美味い」と箸を進める。たとえ失敗してしまったとしても、残した事は無い。ただ、最後に一言だけ、主夫らしいアドバイスを、申し訳なさそうな顔をして真希に告げる。
一見、冷酷な知的青年に見えるマサキだが、真希の料理を褒める時は、冷酷さを醸す目を和らげる。世辞でも何でも無く本当に料理を褒めてもらえていると感じて、そんな時は、真希の頬が真っ赤に染まり、だらしなく緩んでしまう。
(今日も『美味しい』って言ってもらえるかな)
マサキの浮気疑惑で動揺して忘れていたが、この前の弁当も褒めてもらっていたのを思い出し、真希はキッシュ用の卵をかき混ぜながら、少しだけ口角を上げた。
真希が弁当を作り終えて部屋の片づけをしていると、寝室の棚の奥に、紙袋に入れて隠すように収納されていた華美な装丁の卒業アルバムと、小さな紙製アルバムを見つけた。
なぜ隠すように収納しているのか、と疑問を抱きながら紙製のアルバムをパラリとめくった。
どうやらそれは、マサキの学生時代のアルバムのようだ。今よりも若い彼が、友人たちと共に映っていた。笑っていたり、何かを真剣な表情で見ていたり、眠っていたり。
何の変哲もない、ただのアルバムだった。
自分の知らない過去の夫を見れて、普通の妻ならば、楽しいと感じるだろう。しかし真希は、それを見て心が少しだけ沈んでしまった。
現実を突き付けられたかのように感じてしまったのだ。
アルバムに気をとられていたせいか、片づけがあまりはかどらないまま、マサキの病院へ行く時間になってしまった。もう少しだけ片づけをしたいと思いながら、真希はマサキへ夕飯を届けようと家を後にした。
歩いて駅まで行き、タクシーに乗ってマサキの勤める病院へ向かう。長いとも短いとも言えない時間を車窓から見える夜景を見て過ごした。
ほどなくして病院のエントランスに着き、真希は弁当が入った袋を宝物でも持つように抱えると、マサキが詰めている外科病棟へ向かった。
ナースステーションの前に来ると、不意に真希に向かって声がかけられた。
声のした方に顔を向けると、緑のバインダーを抱えた若い看護師が笑顔で手を振っていた。この間、外科医局への道を真希に教えた看護師だ。
「―――奥さーんっ。あ、やっぱりそうだ。マサキ先生の奥さんじゃないですかぁ。昨夜、局地的嵐がおきたそうじゃないですか。奥さんは無事そうでなによりです。マサキ先生ってばぼろっぼろで……!」
「……局地的嵐」
今朝、マサキが真希を庇うために言っていた言葉だ。病院でもその言い訳をしているのか、と真希は申し訳ない気分になった。
「そうなんですよ~。昨夜は雲一つない夜空だったのに、家の周辺だけの局地的嵐が起きたそうですねぇ。看板まで飛んで来たとか。いやぁ、飛来物に顔をぶつけるって漫画以外でもあるんですね~」
「……ははは」
からからと笑いながら、ナースステーションの机にバインダーを置いてマサキの言い訳を述べる看護師に、真希は渇いた笑いしか出ない。いっそのこと、「私がやりました」と言いたくなった。しかし、そこまで勇気が出せない彼女は、弁当が入った袋をぎゅうと抱きしめて困った笑顔を浮かべながら俯いた。
そんな彼女が胸に抱く袋を目に入れた看護師が、忘れてたと言わんばかりに両手をポンと叩いた。
「……ああそうだ。マサキ先生ってば、昼位から奥さんのことを待ってましたよ~。もう、『ご馳走さまです』と言いたい位にでれてました。普段は怖いとしか感じない目が垂れて、表情筋が大丈夫かってくらい緩んでましたよ~」
「……あははは」
想像できない。あの切れ長な目が、どうやったら垂れるんだろう。少し和やかになる程度しか知らない。真希はつい口から滑り出てしまいそうな言葉を飲み込み、再び渇いた笑い声を出した。
真希が若い看護師と話していると、別の看護師がやってきた。栗色の長い髪を後ろで団子にしている、きりりとした眉毛が印象深い真希よりもいくつか年上の女性だ。若い看護師とは違い、キャップには一本のラインが入っている。真希はその女性に見覚えがあった。
「あら? マサキ先生の奥さん? お久しぶりです。今書類を持って行って来たんですが、奥さんの事を首を長くして待ってましたよ。ふふっ。若いっていいですねぇ」
「あっ、お久しぶりです。……えっと、近田さん? その節はお忙しい中ありがとうございました」
近田は、この病院の外科ナースの主任で、式の参列者の一人だった。女性にしてはきりりとしすぎた眉毛が印象深すぎて、一度会っただけで覚えてしまえた人だ。
にこにこと言うよりも、ニヤニヤと表現しても良い生ぬるい笑顔を浮かべている、若い看護師と近田の言葉と態度に、真希は違和感を感じた。
「……あの。どうしてマサキさんが私のことを待っていたって知ってるんですか?」
「それは……ねぇ?」
「そうですねぇ」
弁当を胸に抱えながら、真希は恐る恐る二人の看護師を視界に入れた。
近田と若い看護師は、お互いの顔を見て頷くと、せーのと号令をかけて同時に口を開いた。
「「愛妻弁当が届くって、浮かれてましたから!」」




