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11月22日 誤字脱字訂正。ついでにちょろっと文を追加。
慌てて投稿するものじゃないですね(笑)
薄暗い室内に入り込む風は爽やかなのに、気分は最悪だ。夢と現実の間を彷徨うまどろみも、その不快感によって吹き飛ばされた。
鉛が入っているのではと思える程の重い頭。ぐらぐらする視界。普段は食欲をそそるみそ汁のいい香りですら、吐き気がこみあげてくる。いつもなら、「今朝は和食か」と食卓に並ぶ料理を想像しているというのに。今日はその余裕が無い。ついでに言えば妙に身体がだるく、とりわけ腕が筋肉痛の様に重い。
真希は、この世の終わりともいえる程の不調に見舞われていた。
腕と身体にのしかかる倦怠感以外の原因は解っている。
「……ああ~。二日酔いだ。飲み過ぎた」
頭を抱えるように、ベッドの中で布団に包まった。
しかし、寝具の中にまで漂って来る朝食と思わしき香りに、反射的にガバリと布団を飛ばした。またもや出遅れたと首を巡らせて時計を見ると、時刻は六時。マサキの出勤まで三十分も無い事に気付き、慌てて扉まで走った。
ドアに手をかけようとして、腕が寒いと気付いた。いや、腕だけではなくて、何故か身体全体に冷たい風が当たり、普段ではありえない解放感に満たされている。一切しめつけが無い身体に疑問を抱くと同時に、嫌な予感がした。
真希は、ぎぎぎと油の足りないからくりの如く、緊張した面持ちで下を見降ろす。
(……ぬぉ~~っ! なんで裸っ?! 何があった?!)
素っ裸という出で立ちに驚き、咄嗟にベッドにもぐりこむ。
芋虫のように毛布を身体に巻き付けて、昨夜の事を反芻する。
(居酒屋でマサキさんに頭突きをして、何を話したか覚えてないけど宥められて、妙に気分が良くなって、まだ残ってたボジョレー飲んで……)
二日酔いで空回りする頭を使うも、記憶は最後にボジョレーをあおった所で消えていた。
素っ裸、だるい身体。もうこの二つで、現状が理解できた気がする。
ただでさえ重い頭が更に重くなった気がする。
「……あああ~。なんて事を……。離婚前提で、お褥滑り真っただ中だったのに。ううう……」
毛布を頭まで被る。褐色の毛布だから、なおさら芋虫のようだ。妙に大きくて、くねくねと動きが忙しい長い芋虫だが。
毛布の中で、声にならない奇妙な声をあげて悶える真希の傍に、ベッドが揺らぐ程の重量感のある何かが置かれた。毛布越しに触れたそれからは、微かに感じる温もりと柔らかさがあった。それが何かは直ぐに解った。
いつの間に寝室に入ってきたのだろうか、それとも最初からいたのだろうか。それは真希の名前をきつい口調で呼びながら、毛布を剥ごうとぐいぐいと引っ張る。
しかし、どうしていいのか判らず、どんな顔をしたらいいのか解らず、毛布を握りしめる手に力をこめた。
「―――真希さんっ?! 離婚前提ってどういうことですか?! 確かに最近忙しくてご無沙汰だったけど、なにか変だと思っていましたけど、わざとだったんですか?! 真希さんっ!」
「ごっ、ごめんなさいぃっ」
「なにがですかっ!」
「昨夜の事がですっ! 何も覚えてないんです~!!」
真希の必死すぎる叫び声に、マサキは毛布を引く手を一旦緩めた。
ベッドの重みが無くなり、偏った端が戻る。追及するのを止めてくれたのかと、ほっと安堵の息を洩らして毛布を硬く握りしめた指を緩めた。
その油断する隙を狙っていたかのように、ベッドのスプリングに足をかけたマサキが、毛布を破らんばかりの力で再びぐいっと引っ張った。
毛布を掴みそこなった真希は、着物の帯解き遊びをしたようにぐるりとベッド上を転がり、生まれたままの姿をマサキの目に晒す事となった。
「―――んなっ! マサキさんっ、何をするんですか!!」
真希が恨めしげに身体を起こして見上げると、マサキはいつでも出勤出来る葬式ルックの出で立ちで、ベッドに片足を引っかけて真希を見降ろしていた。不機嫌だと解る程に、眉間に皺を寄せて冷酷な瞳を更に細くさせて。口元も、普段はほんわかと弧を描いているが今はへの字だ。
彼の掴む毛布の端っこを使い、辛うじて身体の線を隠した真希は、そんな彼にたじろぎながらも負けじと「酷い」と彼をなじった。
「俺は、昨夜の事を聞いているのではありません。酷いのはどっちですか。俺が今までどれだけ我慢してきたか。……やはり、真希さんとは、素面の時に膝を突き合わせて話をする必要があるようですね」
マサキは片方の口角をあげて意地悪く笑うと、膝をベッドに乗せて真希に詰め寄った。
ゆっくりと伸びる彼の手に嫌な予感がして、ジリジリと後ずさった。獲物を追いつめた猫のように、マサキもゆるりと距離を詰める。
彼の顔がかなり近くきた所で、違和感があるのに気付いた。咄嗟に腕を伸ばして、ひとつひとつ確認をする。
「マサキさん? どうして口元の色が紫なんですか? 頬もなんだか傷が……。それに隈もありますよ。というか、全体的に傷だらけじゃないですか。一体なにが?!」
「覚えてないんですね。……突発的な嵐が局地的に吹き荒れたんですよ。いや、今はそんな事を話しているのではなく……」
顔に残る傷跡を辿る指を掴み、マサキは話題を元に戻すべく真希に詰め寄った。彼女が逃げられないように、指を掴んだまま、その身体を挟むように両手をついた。
座る真希に対してマサキは四つん這いになりながら、彼女の顔を覗き込むような体勢をとった。
互いの髪が絡み合う程の距離で向きあう。
「俺は離婚なんて承諾しませんよ。離婚届を持ってきても、何枚だって破り捨ててやる」
眉間に皺を寄せて睨むような視線を向けてくる彼を前に、真希は、昨夜なにが起こったのかと、頭突き以降の記憶があいまいなのを悔いた。
思い出せるのは、自分を宥める腕の温かさと、彼の服で鼻水を拭いた後に、慌てる彼の表情が可笑しくてボジョレーのボトルに口をつけた所だけだ。
起きたら起きたで、素っ裸だし。
彼は何故か傷だらけで、目には濃い隈があるし。
真希はますます訳がわからなくなった。昨夜の記憶巻き戻し装置があればいいのにと、あり得ない道具の存在を望んでしまう程に、彼女の頭はぐるぐると渦巻いた。
困惑して固まっている真希の肩を、不意にマサキが強く押す。ベッドの端に仰向けで倒れた彼女に覆いかぶさるように、マサキが圧し掛かった。
「……昨夜の事を忘れているそうなので、もう一度言います。篠田と浮気なんてしてません。単なるいとこで、恋愛感情を持った事なんて一度もありません。いいですね?」
眼の下の隈と血走った瞳が真希に見えない圧力をかける。言葉なんて、喉に張り付いて出てこない。というか、この状況に言葉が浮かんでこない。どうして今、彼が自分の上にいるのだろう。
真希は、こくこくと振り子のように、ただ頷く事しか出来なかった。
彼女の返事を見たマサキの瞳が少しだけ和らぎ、大きな手が真希の頬をそっと撫でた。
「俺が家事をやってしまうのも、真希さんが……」
何か思う所があるのか、少しだけマサキの口が止まった。そのタイミングを見計らったかのように、彼からアラームが鳴り響いた。
この、重いのか甘いのか解らない空気を醸す部屋にそぐわない陽気な音楽は、マサキが家を出る時間を知らせるためのものだ。恐らくスーツのどこかに、愛用のスマホをしまってあるのだろう。
彼は雰囲気を崩されたと言わんばかりに顔をしかめると、スーツの胸辺りをまさぐり煩い程のアラームを止めた。
「……さすがに遅刻は不味いので行きますが……。俺が居ないのを良い事に、離婚云々を考えて突っ走った挙句に、誰かを巻き込んで家出なんて考えないでくださいね。ちゃんと家にいてくれますか?」
「………………はい」
「随分と間がありましたが? ……油断ができませんね。家出はしないですよね?」
思考をことごとく読まれた気がするのは、どうしてだろう。真希は微妙な気持ちになりながら頷いた。
そんな彼女を見ながら、マサキはまあいいと呟くと、毛布がはだけてむき出しになった真希の胸元に唇を当てた。ふくよかな二つの膨らみの中心部分だ。
彼の赤い舌が肌を撫でたかと思うと、くすぐったいと思う間もなく、今度は強く吸い上げられた。
「―――ひゃぁ! なっ、ななななっ。マサキさん?!」
想像すらしていなかった事態に、悲鳴ともいえない声が出た。
慌てる真希をよそに、マサキの唇は真希の耳朶を掠める。思わず目を閉じてしまった。
切ない吐息が耳に掛かり、また舌でなぞられたと思うと、直ぐに首筋が吸われた。
耳のすぐそばから聞こえる彼の吐息が判断力を奪うのか、されるがまま、流されてしまいたい衝動に駆られて、真希が手を伸ばしてしまいそうになった時、不意に身体を覆うマサキの重みが無くなった。
なんだか寂しさを感じて見上げると、マサキは困った顔をして真希を見降ろしていた。眼の下の隈は健在だが、先ほどまでの冷淡だと感じた瞳を和ませて。
「では、いってきます。今日は、ちゃんと携帯の電池を確認してくださいね」




