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11月20日 誤字訂正。
―――必ず幸せにできるとは誓えません。幸せの定義は人それぞれ違うので。
―――誓えるのは、幸せも不幸も嬉しさも悲しみも、全部をあなたと分かち合いたいという想いを、生涯持ち続ける事だけです。
―――共に笑って泣く瞬間を、真希さんの隣にいる時間を、これから先の全部を俺に分けてくれませんか。
ひとりで寂しかったのだと実感した途端、なぜだか最初のプロポーズの言葉を思い出した。
見合いの席で互いの両親が「後は若いふたりで」と、定番の言葉を残して去った後に、皺ひとつないグレーのスーツを着こなした彼に言われた言葉だ。それも、初対面で二人きりになった直後に。
冷酷さを感じさせる表情とは逆に、その酷薄そうな口から紡がれた言葉はとても温かくて、ひとつの熱として心に残った。
もしも、彼の釣書を見ずに見合いを受けていたら、真っ赤になって頷いていたかもしれない。
切れ長の一重を和ませて、こちらに向けられた外に誘う長い指に、己の手を乗せていたかもしれない。
それほどにその時の言葉は温かくて、彼と結婚するのだけは嫌だと見合い前から言い張っていた頑なだった心を溶かされそうだった。
もちろん、座卓をひっくり返しそうな勢いで断ったが。「初対面で、いきなり幸せにできない宣言のプロポーズとかふざけんな」と叫びも入れて。流れても何ら構わない見合いだったからこその所業だ。むしろきれいさっぱり流れて欲しかった。
だから、情が湧いても困るからそれ以降は顔をあまり見ないようにしていた。正直、その直後に彼が勤務先に呼び出された瞬間は安堵の息が出た。
彼以外の見合いではそんな事はしていない。結婚する気はさらさらなかったが、親の顔を立てる為におしとやかに慎ましく、翌日疲れるのを覚悟で始終営業スマイルを顔に張りつけていた。
真希がマサキを極端に拒んだのは、他人から見れば、恐らく「そんな理由で?」と十人中十人が皆顔を曇らせるに違いない理由だ。けれど、当時の彼女はそれがどうも納得できなかった。彼と結婚すれば、それが一生ついて回るのだ。
どこへ行こうとも、紛らわしいそれから逃れることはできない。そんなのは嫌だった。
医師という職を持ち、性格も問題なくて年齢もまだ若い。マサキは見合いなんて必要ない人種だ。けれど彼は「真希が良い」と彼女の親に言い募り、また彼女の親も、その性格に絆されて真希を説得に回った。逃げる真希の首根っこを引っ掴んで「言えない位の小さな理由なら我慢なさい」とピシリと叱りつけて。
それからは、親が出しゃばっての付き合いが始まった。
つきあい事態が全く乗り気では無く、マサキの顔さえもあまり見ていなかった。結婚前提の付き合いというよりも、真希の心情的には、親にせっつかれるのが鬱陶しいからだった。
見合いの席でガサツな女を演じて駄目だった。だったら、その逆に何の面白味も無く、いつも笑っているだけの女を演じて飽きてもらおうと思った。
多分直ぐに終わるだろうと高をくくっていた。
それなのに、徐々に心の中にしみ込んでくる彼の愛情。
いつしか当初に彼を拒んでいた理由なんてどうでもよくなった。逆に、どうしてそんな事に拘っていたのかと過去の自分に疑問すら感じて、彼の事を手放したくなくなっていた。
でも、結婚後の事を考えれば、彼の愛情は受け入れがたかった。普通の主婦にはなれそうにないから。
結婚したら絶対に彼に迷惑をかける。優しい彼に迷惑をかけたくは無かった。だからこそ、心に芽生えた何かを、自分でも忘れるほどの奥底へ隠して、彼を拒絶し続けた。
……なのに、不覚にも二度目のプロポーズの言葉と、彼の表情にときめいてしまったのだ。
―――真希さんが泣ける場所にさせてください。その涙を拭く権利をください。一緒に泣かせてください。一緒に居させてください。
あまりに彼が優しいから、つい甘えてしまった。
ついつい受け取ってしまった指輪。
ついつい返してしまった返事。
つい、という過ちで彼と結婚してしまった。
自分は結婚に向いていない人間だというのに。
だから、もしも彼が自分に辟易して、外に女性を作ったら潔く身を引こうとずっと考えていた。
恐らく今がその時なのだ。
彼の傍に、別の女性の影がある今が―――。
(なのに、何でこんなにイラつくの?!)
心配だと言いながら、のぞきこむマサキの顔を前に、訳も無く苛々して頭を掻きむしりたくなった。
酒のせいだろうか、真希の思考がふわふわと定まらない。
(どうして、あの時の事ばかり思い出すの?! どうして嘘つきって言いたくなるの?!)
鼻の奥がツンとした。
酒がかなり回ったのか、顔が熱い。
胸にも何かが詰まっているようだ。
そのすべてが何の前兆なのか解っている。
真希はそれを隠すように、マサキの服を掴むと睨んだ。
睨まれたマサキは、そこまで真希が怒っているのかと思い、しゅんと肩を落とした。
「……ひとりにさせて、すみませんでした。俺もまだ食べて無くて、だから一緒に……真希さん?」
肩を落として謝るマサキの服を、真希は細い腕で力の限り思いっきり引っ張っり、真希自身もそちらに身体を傾ける。
勢いの付いたマサキの額に、真希のそれがぶつかる。硬い物同士が当たった鈍い音が静かな空間に響き、両者に平等の痛みを与えた。目がチカチカと光が瞬く程の痛みを。
「……嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つきっ!」
「ま、まきさん?」
ぶつかった額を痛そうに押さえたマサキを、真希は首元の服を引いて揺する。
酔った勢いか、子供の癇癪の様にどす黒い感情は止まらない。自分が今どんな表情をしているのか知らない真希は、叫ぶように想いのたけを口から放つ。
「マサキさんなんて嫌い! いつも突然『帰宅が夜中になるメール』を送ってくるマサキさんなんて嫌いっ! メールの返事をしなくても、何も言わないマサキさんなんて嫌いだっ!」
「……え?」
「いつも優しくて、家に帰ってこれない程忙しいくせに家事やっちゃって、どうせわたしは何も出来ない人間だよ! 朝も起きれなくて家事が満足に出来なくて、……こんな人間を嫁に迎えて毎日が葬式気分かもしれないけど、毎日喪服を着る事無いじゃない! 当てつけなわけ?!」
黒い服に包まれた胸元を何度も拳で叩きながら、真希は更に言い募る。言葉が堰を切ったように溢れてくる。自分でも、言っているのが支離滅裂だとわかっているが止まらない。
マサキは驚きからか、目を見開いて微動だにしない。自分の赤くなった額に触れる腕を降ろして、真希にされるがままになっている。
「どうしていつも敬語なわけ?! 他の人には普通なのに……なんで、わたしだけ他人行儀なんだよ! それに、他の女の人に腕なんて絡ませないでよ! ちゃんと突っぱねろよ! 浮気相手は気安いかもしれないけど、後輩公認の相手だろうけど、今はまだわたしがマサキさんの嫁でしょうが?! ―――ふざけんなよっ!」
ドン、とひときわ強くマサキの胸を叩く拳が、彼の長い指に包まれた。
据わった目で荒い息を吐く真希とは対照的に、マサキの持つ空気は冷静だ。その生まれ持った涼しげな顔は、眉尻が下がって困惑顔になっているが。
「……かなりの誤解が生じている気がするのですが」
「ああっ? 誤解だぁ?」
「大いなる誤解です。俺の毎日は天国ですよ、葬式な訳ないでしょう。他の全部も誤解です。第一、浮気相手って何ですか。篠田の事ですか? 今すぐに全部の誤解を解きたいのですが、……その前に、あなたを慰めさせてください」
真希の拳を包んでいた指が解かれ、今度は彼女の両頬を覆うように置かれた。
親指が目尻を拭い、そこで真希は自分が泣いていた事に気付いた。
慌てて自分の手で拭うが、マサキの手がそれを邪魔をする。
酔って赤い筈の真希の顔が更に赤くなり、わたわたとマサキの腕を掴む。
「―――こっ、コレは、さっきの頭突きが痛くて……!」
「はい。泣くほど寂しい想いをさせてしまってすみません。もう少し早くこちらに来たかったのですが、後輩たちが邪魔を……。すこしばかり灸を据えてきたので、その手続きで遅くなりました」
「だから違うって言ってるでしょ! 頭突きが……」
「そうですね。こんなに飲んで酔っ払って、頭突きをしたくなるほど寂しかったのでしょう? 本当にすみません」
悲しそうに微笑むマサキの唇が、慌てる真希を宥めるように頬を撫でた。何度も謝罪の雨を真希に降らせて、啄むようなキスをひとつ唇に落とすと、そっと黒い服の胸に彼女をかき抱いた。
胸に顔をうずめて、声を殺して震える彼女の背を優しく撫でる。甘えて欲しいというように。
結婚する前の真希の頑なな心を溶かした時のように、髪を梳く手の温もりが、ジワリと彼女の心に染み入って来る。
やがて、真希の手がマサキの背にそろりと回った。
恐る恐る、触れてはいけない者に指を伸ばすといった風に、彼の服を掴んだ。




