1.
あなたは
秋の澄みわたる薔薇色の 美しい空。
けれども私の胸の中に
悲しみが 潮のように満ちて来て、
その汐の引くとき、
私の陰鬱な脣の上に
苦い泥土の焼け爛れる思出を 残す
―― ボードレール ――
金木犀が強く薫っていた。
蒼く冴えた空に朱が滲み、赤煉瓦の道に並んだ銀杏は風にざわめいて、金色の光を荘厳に放つ。
東京から電車で小一時間。
聖クレマティス学園へのスクールバスが発着する葛篭錦駅前に戻って来て、天川忍はほおっと息を吐いた。
山のふもと。田舎の駅である。
バブル時代のばらまきで駅前の道は整備されているが、小さな商店街がならぶだけの、閑散とした駅だ。
それでも夕暮れの時間は通勤客や通学客で、ゆいいつのにぎわいを見せる。
天川忍は腕時計をみた。
バスの時間まではまだ小一時間ある。
せわしなく行き交う人の流れに左へ右へと流されながら、裏通りにはいってほっと肩から力を抜いた。
頬までのびた薄茶色のコシのない髪を、耳の後ろへ流す。
表通りの喧騒が幻覚のように、静かである。
平屋の小さな住宅、こじんまりとしたアパートやどこかの会社の社宅が並ぶ、古くも新しくもない、地味でこじんまりとした、ありふれた住宅地だ。
スクールバスまでの時間、人ごみを避けてここで避難していようと、忍は塀にもたれた。
野菜を煮込む、湿っぽい匂いが漂っている。遠くで猫が鳴いた。
陽はもう落ちて、灰色を薄く溶いたような空気が、忍の視界を覆っている。
薄闇の中に少年がひとり、立っていた。
膝の高さにつくられた植え込みに、白い花が植えてあり、少年は上体を前に傾けて、白い花を弄んでいた。
忍とおなじくらいの年齢だろうか。
スリムジーンズにセーターを着、カラフルな大きいスポーツバッグを肩から斜めに下げている。
浅黒いひきしまった肌に、意志のはっきりした眼。
ぞっとするほどの美少年だ。
いちど見たら忘れられそうにない顔だった。
少年はちらりと忍を見て、茎を切ろうとしている指先に力をこめた。少年の手首に触れた白い花が、禁忌を破ろうとする処女のようにわなないている。
少年は白花をちぎりとると、顔をあげた。
白目の部分が青みがかって、澄んだ、意志の力と理性を宿した瞳で忍を睨みながら、右手に持った花を顔に近づける。
花が、少年の凛々しい口元を隠す。不思議と薄闇に溶けることなく、哀しくなるほど、鮮やかに白い。
花の向こうにある双眼は、忍を見すえたままだ。
風が少年の前髪を揺らして、吊り上りぎみの一文字の眉と、形のよい、広いひたいを、忍に見せた。
「花盗人」
忍はつぶやいた。
少年は光る瞳で忍を見つめたまま、早くもなく遅くもない足取りで、忍に近づき、白い花を突きだした。
忍がたじろいで身をひくと、少年は忍の指をこじ開け、白い花を握らせた。
「共犯」
言い捨てて、少年は通りすぎた。
手のひらに残された花盗人の犯罪の証を、天川忍は持てあました。
これはあの少年の好意か悪意か悪戯か。
そのどれもでない気がするし、全てでもある気がする。
迷ったが捨てることはできずに、忍は掌に白花をくるんでスクールバスに乗りこんだ。
学校に戻る最終バス。
忍のほかに乗客はいない。
中ほどに窓際に座って、日没後のほんのり朱い街並みとその向こうの山並みを眺める。
運転手がドアを閉めて発車しようとした時、先ほどの少年が駆けこんできた。
「クレマティス生?」
運転手がびっくりして言う。
乗車はクレマティスの関係者が原則だし、生徒なら校則で、外出時には制服着用が義務付けられている。
私服だとしても見覚えのない顔。
これだけの美少年なら、学園内にいたら噂になっているはずだ。
「そうです。明日から」
少年は通る声で応えて学生証らしきものをみせ、物怖じすることなくバスに乗り込んできた。
中ほどに座っている忍を一瞥することなく、まっすぐに通路を奥にすすむ。
バスが動き出した。
忍は体がすくんだ。
後方の座席に座った少年が、あの強い瞳で座席を通して忍を見ている気がする。
気のせいだ。
忍の考えすぎ。
妄想。
いちど後ろを振り返って、少年が寝ていたり別の方を見ていたりするのを確認すればいいのに、怖くて身じろぎできない。
膝の上。
水を掬うように半球を作った両手に、さきほどの白い花が乗っている。
その花のしっとりとした重さに、精神がざわめく。
バスが学園に着くまでの半時、天川忍は全身をずっと緊張させつづけた。
先に少年が降りるのを待ってから、忍はバスから降りた。
少年が自分の前を歩いて行くので、ほっとする。
歩調を調整して少年からどんどん距離をとった。
少年はまっすぐに第三寮に歩いていく。
忍とおなじ寮だ。
明日から生徒というのは、本当らしい。
聖クレマティス学園は全寮制の中高一貫校だから、転校生は珍しい。
とくに、10月からというのは妙に半端な時期である。
何年生なのだろう。
どういう事情なのだろう。
何にせよ、あれだけの美少年なら明日には閉鎖された学園の注目を一身に浴びるだろう。
少年が寮に入ってから数分待って、忍は寮に入った。
初老の寮監と先ほどの少年が、快活に話しこんでいた。
目を細め、くったくのない明るい笑顔で陽気に話している。
通り過ぎようとした忍に、寮監が気づいて呼びとめた。
「天川君、紹介しておくよ。
今日から天川君とおなじ部屋になる、藤枝紫朗君だ。学年はひとつ下だよ」
藤枝紫朗は忍を見て驚いた顔をしたが、ひとなつっこい笑顔をつくり、礼儀正しく頭を下げた。
「藤枝紫朗です。今日からよろしくお願いします」