第2話 吸血鬼とは
◇◇◇
「…う、うーん…」
やばい。
頭が痛い。
なんだ?
ここはあの世か?
…なんか、思うように動けないな…
なんだこれ…
…なんで、手が後ろに…?
長い夢を見ていた気がして、気がつくと、そこはコンビニの駐車場だった。周りはすっかり日が暮れてて、チカチカと点滅する外灯が群がる虫の中心に見えた。遠くには車の音が聞こえる。涼しい風が、さやさやとあたりの草むらを揺らしていた。
…えっと
目が覚めてしばらくは、頭の中がぼーっとした。記憶が混濁してて、さっきまで自分が何をしてたかをすぐには思い出せなかった。
…なん…だ…?
…一体、何が…
ガシャガシャッ
フェンス…?
…つーか、なんで、俺はここに…?
少しずつ記憶が蘇ってきて、思わずハッとなってしまった。そうだ。さっきまで俺はコンビニにいた。コンビニにして、変なおっさんが目の前にいて……
目まぐるしいフラッシュバックが、火花を散らしたように蘇った。あり得ないくらいの近さで、さっきまでの時間が覆い被さってきた。
ナイフ…!
そうだ。
俺は確か…
「目が覚めた?」
おもむろに傾けた視線の先で、俺は自分が「幻覚」でも見ているのかとさえ思ってしまった。声がした方を見ると、そこには「人」が立っていた。コンビニの店員。青と白のツートンカラーの制服。俺のよく知っている、——女の子が。
「…天ヶ瀬…?」
自分で自分を疑った。思わず、目を見開いた。天ヶ瀬なわけがないと思った。彼女は俺のクラスメイトだが、ここは学校じゃない。第一…
ついさっきまであった記憶が、少しずつ鮮明になっていく。
…そういえば、さっき天ヶ瀬を見た気がした。意識が途切れる間際だった。俺を呼ぶ声がして、苦しくなっていく自分がいて…
「ほんと、余計なことしてくれたね」
…は?
わけがわからないまま、胸の方に視線を移す。
…あれ?
…ナイフは…?
なんで、…刺さってないんだ?
シャツは赤かった。でも、そこにナイフはなかった。痛みも、息苦しさもない。あるのは混濁する意識と、夜の静けさだけで。
ガシャ
ガシャガシャッ
思うように動けないと思ったら、後ろにあるフェンスに手が縛られていた。力を入れると、手首が痛い。紐か何かが食い込んでくる。
…一体、なんだ…?
状況が飲み込めなかった。だいたい、俺はさっきまでコンビニにいた…よな…?ナイフで刺されて……それで……
頭の中がキーーーンとした。まるで、冷たいもんでも口の中にぶっ込んだかのようだった。
「夢」じゃない。
咄嗟に感じたのは、目の前の出来事に対する感情だった。ありありと“それ”は残っていた。さっきまでのことや、胸に残る感触。
どうして目の前に天ヶ瀬がいるのか、その理由はわからなかった。わからないっていうより、「なんで?」って感じかな……。それよりも、ナイフがどこにいったのか気がかりだった。体のどこも痛くないけど、ぶっ刺さってたのは間違いない。見間違いなんかじゃないはずだ……。シャツが赤く染まってるのだって……
「くそッ、天ヶ瀬…!これ、解いてくれない??」
何で縛られてんだ…?動いてみたけどダメだった。全然びくともしないし、抜け出せるような感じもない。……あの男の仕業か?だとしたら、やばくないか……?周りにいる気配はなさそうだった。コンビニの駐車場には、車の一台も停まってない。あるのは、原付バイク一台だけ。
…警察
天ヶ瀬にお願いしようとした。俺のポケットにスマホが入ってるはず。それを使って、早く助けを…
「悪いけど、解くわけにはいかない」
「…ん?」
「キミがクラスメイトじゃなきゃ、そのまま森に捨てたんだけど」
…何、言って…
俺はとにかく訴えかけた。必死にだ。やばいやつが近くにいる。うまく呂律は回らなかったが、とにかく「やばい」って伝えた。早くここから逃げないとまた同じような目に…
「変な男?」
「そうだ!」
「どんな感じの?」
「…えっと、小太りの…」
「スーツ姿のおじさん?」
「そうそう!近くにいたのか??」
「あの人ならもう帰ったよ。ここにはいない」
…帰った?
帰ったってどこに?
どういうことなのか、いまいち理解できなかった。
…そうか
俺を縛ったのも、警察を呼ばれないためか?
盗むもんだけ盗んでどっか行ったってことか?
…じゃあ、ひとまず安心…なのか?
「店員さんは…?!」
「店員?」
「中にいたんだ。男に脅されてて」
「私のことでしょ」
「へ??」
「私、ここでバイトしてるの。見ればわかるでしょ」
そう言って、彼女は制服を指差す。
…そうか
そういうことか
帽子を被っててよくわかんなかった。見たことある子がいるなとは思った。ただ、ぶっちゃけそれどころじゃなかった。おっさんにばかり気を取られてて、よく見てなかったんだ。
まさか、天ヶ瀬だとは…
「とりあえず解いてくれ…ッ。めっちゃ痛くて…」
「ダメだって」
「??…なんで…?」
「縛ったのは私だから」
………………………………はい?
縛ったのは私?
って、どういうこと??
こんな時に冗談言ってる場合じゃないって。いくら天ヶ瀬でも笑えない。やばい状況だってわかるだろ??さっきだってそうだ。脅されてたじゃないか…!どこに行ったのか知んないけど、また戻ってくる可能性だってあるだろ?!今のうちに逃げるのが得策だって!だから、、、
焦る俺を横目に、彼女はポケットからある「物」を取り出した。見覚えのあるものだ。赤く染まってて、日常的には見かけないものだった。見た瞬間にそれが俺のすぐ目の前にあったものだって気づいた。
男が持ってたもの。
俺の胸を、貫いた“ナイフ”。
…………………………は?
…なんで、彼女が…?
つーか、どうやって??
「それ…」
「覚えてる?刺されたこと」
コクコクッと頷く。
覚えてる。
——鮮明に。
信じたくはなかった。思い出そうとすると、全身から力が抜けた。血の気が引くような感じだった。どうしようもないくらいの悪寒が、背筋に張り付いていた。
だって、…そうだろ?
ナイフで刺されるなんて、そうそう起こることじゃない。ましてや、その「大きさ」だ。彼女の手にあるナイフは、サバイバルナイフかっていうくらいでかい。深く刺さったんだとわかるような、血の跡。多分心臓に届いてた。……いや、わかんないよ?ぶっちゃけ刺さった後のことは混乱してて、覚えてることと覚えてないことの差が激しい。思うように動けなくなって、周りの景色が雪崩みたいに崩れてきたんだ。
わけがわかんなかった。
「キミは死んだんだよ。ついさっきね」
……………………………
……………………………死んだ?
……………………………誰が?
彼女の目は冷たく、言葉は“冷めて”いた。いつもの彼女とは違う。どこかそんな気さえして、不意に視線がよろめく。でも、それどころじゃなかった。頭の中ではわかってた。
“何かがおかしい”って。
ただ、突拍子もない彼女の言葉に、俺は意識を奪われてた。それ以外のことはさっぱりだった。少なくとも、目の前で起こってることの「大半」は。
「…………………死?」
「覚えてるんでしょ?刺されたの」
「…覚えてるっていうか、……え??」
「だから、そういうこと」
「…そう…いう…?」
言葉にならない。
彼女が何を言ってるのかがわからない。
死んだ?
俺が…?
そんなバカな
わからないわけじゃなかった。
自分がナイフに刺されたことも。
“死ぬかもしれない”って、思ったことも。
けど、「死んでる」?
見ての通りピンピンしてる。
痛みだってないし、ナイフだって…
「キミの心臓はもう動いてない。胸に手を当ててみて?あ、今は無理か」
…ハハ
動いてない、だって?
じゃあどうやって今天ヶ瀬と話してるんだ?
生きてなきゃおかしいだろ?
こうして息してるのだって——
彼女は、混乱する俺にナイフを突き立てた。突然すぎて、何が何だかって感じだった。急に“刺して”きたんだ。
さっきと同じような「場所」に。
「うわぁぁぁぁッ!!」
激痛が走る。さっきとはまるで違う感触。今まで感じたこともないような痛みが、上半身に流れた。周りに響き渡るほどの声を上げてしまった。声を荒げながら、俺は暴れた。フェンスがギシギシ揺れていた。なんで急にそんなことをされたのかわからなかった。何が起こったのかさえも。“今の状況”も。
彼女はしっかりとナイフの柄を握りしめていた。刃先が胸に触れた後だった。後ろのフェンスに背中が食い込むほど、グッと押し込まれたのは。
「そんなに痛がらなくてもいいじゃん」
「…ハアッ…ハアッ…」
「キミが死んでる証拠を、今から見せてあげる」
「…何、…言って…」
気でも触れたのか…?
あまりの痛さに、意識が朦朧とした。
うまく息ができなくて、口からは涎が出た。“逆立つ”って言った方がいいんだろうか?全身の皮膚が引っ張られたようにピンと立って、筋肉という筋肉が押し固められるように硬直した。そこらじゅうから汗が出た。それはただの汗なんかじゃなくて、ジトッとへばりつくような汗だった。とめどない刺激が体を襲う。ピリピリするような熱さ。蠢くような吐き気。血が滴り落ちてくる。溢れ出てくるのがわかった。はっきりと。
それでいて——…
ザッ
刺さったナイフを抜くこともなく、彼女は俺に近づいてきた。痛みで前を向くこともできなかったが、彼女の髪の毛が、サラッと頬に触れた。暴れる俺を制止するように首を掴んできた。
「力を抜いて」
そう言って、首元の襟を掴んだんだ。
それから、思いっきりそれを引っ張った。
ビリッ
服が引き裂ける。引っ張った途端に、紙切れのようにTシャツが破れた。一枚しか着ていなかった。だからすぐに胸元が露わになった。ナイフの刃先がしっかり食い込んでいるのが見えた。心臓のあたりだった。
「全く、運が悪いね。キミも」
彼女の行動は理解不能だった。意味がわからなすぎて、戸惑うことすらできなかった。痛みに耐えようと必死に歯を食いしばってた。むしろ、それしかできなかった。じっとなんてしていられなかった。少しでも気を抜けば、意識が持っていかれる。軋んだ歯の感触が、顎の奥で膨らんでいく。
ビチャッ
血が、宙に舞った。彼女はナイフを掴み直してた。柄の部分に触れると同時に、神経を撫でられるような痛みが走った。声を挙げる間もなかった。彼女の細い指が、するりと柄に巻き付くように伸びてきた。
一体、なにが…
開いた口が、うまく閉じれない。
流れるようにそれは起こった。
状況に追いつけていない中で、滑らかな動作が瞳の中を駆け抜けていく。
ズッ
ナイフを、思いっきり引いた。
躊躇はなかった。
彼女は伸ばした指をキュッと引き締め、まるで糸を引くように真っ直ぐ腕を縮めた。
声にならない声が、栓を抜いたようにスッと洩れた。
裂けるような激しい痛みが、全身を襲い。
「…うああああああっ——!」
血が、溢れてくる。
胸に穴が空いている。
ナイフが刺さっていた場所は、ちょうど刃の大きさに重なるように黒ずんでいた。ボタボタッと、赤い水滴が地面に落ちていく。強い痛みが、頭の奥を揺らす。ありありとした現実が、少しずつ確かな線をたどっていく。浮き上がったのは「実感」だった。結び目もわからないほどの硬直が、柔らかい質感を帯びつつ。
「息を吐いて。しっかり意識を保って」
落ち着いた声色が、アンバランスな時間差の底に落ちてくる。ふくよかな感触が肌の先に掠める。尖った先端が降り注いでくる。
押して、引いて。
交互にすれ違う、軋みのような厚み。
今、何が起こってるのかの理解は、遥か遠い場所にあった。彼女の言葉の大部分は、繋ぎようのない破片となって散らばっていた。それは「言葉」だけじゃなくて、もっとずっと、身近に動いているもので…
「……………くっ」
刺すような痛みが、そこらじゅうで起こってた。グワングワンする頭が、地響きのようにうねってた。どうすることもできなかった。手は縛られてるし、動くことすらままならない。
…本当に、俺は死んだのか…?
不意にそう思ってしまったのは、目の前の「現実」が、あまりにも“剥離”していたからだ。
こんなこと、起こるはずがない。
ここは地獄か何かで、俺は今「あの世」に…?
まさか、…夢…?
目の前にいるのは天ヶ瀬だ。それは間違いなかった。ただ、だからこそあり得なかった。天ヶ瀬がどんな子なのかは、まだよくわかってない。出会って数ヶ月だし、同じクラスってだけで、そんなに話したこともない。接点だってほとんどない。たまたま隣の席ってだけで、たまたま、“共通の趣味”があるってだけで。
…だけど、「変な子」じゃないっていうのはわかる。クラスのみんなは天ヶ瀬の虜になってる。容姿端麗で、成績は優秀。おまけに明るい性格ときた。付け入る隙なんてなかった。
ガッ
髪を掴まれて、無理やり顔を持ち上げられる。抵抗もできないまま、俺は痛みに耐えるしかなかった。彼女は俺の目を見て、必死に何かを訴えかけた。その全部を拾い切ることはできなかった。
「大丈夫だから」
そう言っていることは、確かに聞き取れた。突っぱねるようで、どこか静かな“温かみ”を、——持ちながら
ドクンッ
…なんだ…?
…体が、…熱く…?
目の焦点も合わないままに伸縮する景色。夜の静けさの中に伸びていく暗闇が、“ポツン”と、視界の背後を覆っていた。
不思議な感覚だった。
時間がゆっくり動く。
それは「感覚」であって、実際の“出来事”なんかじゃなかった。ただ、目の奥を引っ張るような張りが、糸を張り巡らせたようにそこらじゅうに伸びていた。
血が流れていく振動。
ゴボッという破裂音。
通り過ぎる「時間」を追いかける。ほとんど思考は停止していた。考えるだけの隙間は、どこにもなかった。目を動かす動作の中心に溢れる、——光。その光は“形という形の一切”を解くように広がっていた。一つの場所にとどまることもなく、ポツポツと空間の中を漂っていた。
ジグザグに。
それでいて、まばらに。
スローモーションに動く。
瞳の先に映る全ての景色が、泡ぶく色の中に溶け込んでいく。
何かが研ぎ澄まされていく。
…ただ、その「何か」は——
ギュルッ
一瞬、耳を疑った。疑ったのは、鼓膜の内側に響く「音」だけじゃなかった。感覚。さっきも言ったように、それは意識の中にある“反応“だった。すれ違う景色の中で、今まで味わったこともないようなノイズが流れた。色が変わるとか形が変わるとか、そういうはっきりとした変化をありありと残しながら、煙のように掴みどころのない輪郭を広げていた。体の「中」で起こった出来事だった。少なくとも、目の前に通り過ぎていく“全ての事象”は。
「キミは今、生と死の間にいる。だから、ナイフで刺されても痛いんだよ」
痛みが消えていく。そう感じたのはものの数秒のことだった。わからなかったんだ。何が起こってるのかは、”すぐ“には。感じたこともないような感覚が頭に掠めて、視界が揺れるような歪みが意識を持ち上げるように倒れた。バタバタッと慌ただしい時間が、垂直に横たわっていた。
力が抜けていく。
そういう感覚にも近かった。
激しい痛みとは裏腹に、薄く引き伸ばされていく筋肉。
絹のような滑らかさを持ちながら、ぼそぼそと弾力のない繊維の繋ぎ目が、鋭い弧を描きながら浮かんでいた。足元が“すくんで”いた。深い水の中で、足がつかないような状態だった。体を支える接点がないまま、フワッと全身が浮かぶ。そういう掴みどころのない感触だった。空気が軋むようなほんのわずかな「時間」の中では。
視線を、落とした。ほとんど無意識だった。何が起こっているのかの整理は、ついにできないままだった。それでも意識ははっきりしていた。目が覚めるような鮮明さが、目の前に染み渡っていた。
色。
空気。
光の加減。
——外灯。
…ああ、と、予期していない息が漏れた。
視線がゆり動いたのは、前に倒れてくる時間が、硬直した意識を解きほぐしたからだった。優しい感触さえ、“手前”にあった。それがどれくらいの近さを持っているかはわからなかった。けれど、ナイフで刺すような鋭さだけは、そこにはなかった。
…傷が、…無い…?
血は滴り落ちている。剥き出しになった胸の辺りは、真っ赤だ。溢れ出てくる血が、左半身の肌を覆うように流れていた。ズボンも赤く染まってた。大量の血が流れていることは、一目瞭然だった。
けど…
「穴」が、無い
それは「視覚」から得た情報というよりも、むしろ体の内側から得た情報だと認識すべきだった。激しい痛みが頭の片隅には残ってた。ほんの数秒前のことだ。記憶が立体的な形状を保つだけの時間は、まだ、そこにはあった。ただ、それ以上にはっきりと浮かび上がる感覚が、体の内部から押し寄せていた。まるで津波だった。大量の水飛沫を帯びながら、圧縮された「堆積」が、細やかな密度を運んでくる。
——熱い
皮膚の上側には、ナイフが触れた時の感触が残ってた。鉄の硬い質感。研ぎ澄まされた手触りが、体の深くに残っていた。杭が胸の奥に食い込んでいるような太さだった。抜こうにも抜けない違和感。そして、息苦しさ。
「…なんだ…これ…」
唖然としたのは、穴が空いていたはずの胸が、綺麗に塞がっていたことだった。目を疑った。何度か瞬きをして、できるだけそれを近くで見ようとした。血は止まってた。止まってるっていうか、傷口がなくなってることで、大量に流れた血の跡が不自然にさえ見えるほどだった。鮮明に見えたわけじゃない。辺りはもうだいぶ暗い。すっかり夜が来て、外灯の灯りがほのかに周りを照らしているくらいだ。ちょうど真上に灯りがあるおかげで、なんとか目視できるくらいだった。傷口だって、はっきりと塞がってるかどうかは、実際に手で触れてみないことにはわからなかった。
ただ、“わかった”んだ。なんとなくとかじゃなく、ましてや、「見た目」とかじゃなく。それは感覚よりも、ずっと近いところにあった。さっきよりもずっと、意識がはっきりしてる。何もかもが鮮明に見える。その“明瞭さ”は、自分が知っている感覚とはまた違う場所にある気がした。ある意味不自然だった。捉えどころのない”距離感”。もしくは、印象。
例えば、——そうだ
パズルのピースがハマった時のような。
紐と紐が綺麗に結び合わさった時のような。
近づいてくる景色があった。
確かな重量と感触があった。
真っ平らな景色の淵に浮かび上がってくる何か。
その「何か」を、手のひらに掬う。
“届いた”のは濃艶だった。
限りなく“濃い”なにか。
はっきりとしていて、かつ、——繊細な。
「キミは“死んで”る。それはもう理解できた?」
…え?
理解できたか…って?
できるわけないだろ。
俺は気が気じゃなかった。ほとんどパニックだった。どうして傷が塞がってるかも、なんで痛みが消えているのかも、——全部。
“普通じゃない”ことが起きてる。
あのおっさんを見てからずっとそうだった。
『死んでる』
その言葉の意味が、いまいち分からなかった。「死ぬ」っていうのは、多分こういうことじゃない。わからないけど、…多分違う
(仮に死んでるんだったら…)
そう思う感情のそばで、どうしても拭いきれない疑問点があった。それは意識があるとか、想像と違うとか、理由はなんでもいい。とにかく、あり得ないと思ったんだ。目の前で起きてることがなんであれ、これは「現実」じゃない。現実じゃないけど、…だけど…
「最後に言い残すことはない?」
「…へ?」
最後に…?
…どういうことだ?
俺はブンブン首を振った。彼女の言葉に対してじゃない。怖いくらいに頭が冴えざえしてる。胸の痛みだって、もうどこかへ。首を振ったのは、多分条件反射だ。吐き気がするほどの倦怠感が、意識の底をつくように蠢いていた。訳もわからない気だるさが、火で炙ったようにはためいていた。
気持ち悪い。腹の底から、何かが込み上げてくる。汗がすっかり乾いて、カラカラに萎れた喉が水を欲してた。彼女の目さえ、見る気が起こらなかった。それどころじゃなかった。どうすればいいかもわからなかった。手も足も、…意識も、自分のものじゃないみたいだった。
「あのまま死なせておくのは、忍びなかったからさ?」
「…わけわかんねーよ」
「うん?」
「わけわかんねーって言ってんだよ!一体何が起こってんだ?!」
「…はあ。これだから“人間“は」
「ああ!?」
「大体、キミが悪いんだよ?へんな正義感をかまして近づくから、こういうことになる」
「…どういう…」
「なんで近づいたりしたの?」
「…なんでって、そりゃ…」
「助けられると思ったの?」
「…わかんないけど、ただ…」
「ただ?」
「ただ、なんとなく」
「…はあ」
「なんだよ…」
「くだらないね。本当に」
「くだらない?」
「自分の身も守れないくせに、誰かを助けようと思うわけ?」
「…は?そんなんじゃねーよ!」
「じゃ、何?」
「なんつーか、…その」
「もういい。とにかく、最後に言い残すことがあるんだったら、どうぞ」
「…ちょ、ちょっと待て!言ってる意味がわからないんだが!?」
「言葉通りの意味でしょ。キミはもう死んでるの。こうして話ができるのは、私が“血”を分け与えたから」
「…はい??!」
「説明するのもめんどくさい。時間は無駄にしたくないの。何もないんだったら、このまま楽にしてあげる」
会話は成立しなかった。……成立しないっつーか、会話にならなかった。天ヶ瀬は天ヶ瀬で、別人みたいだった。いつもの彼女じゃない。天ヶ瀬はこんなこと言わない。“口調”だってそうだ。声のトーンが明らかにおかしい。どこか尖ってて、どこか、…攻撃的で。
言ってることの意味がわからなかった。理解しようとはした。俺なりに、彼女の言う言葉の一つ一つを拾い集めようとした。けど、ダメだった。
「待て待て!!」
俺は咄嗟に声を荒げた。
彼女はナイフを握り直し、刃についた血を舌で舐める。
…なんで舐めた?
いや、そんなことより…
もう一度刺してくる。
不意にそう感じた俺は、言いようもない身の危険を感じていた。
すぐにでも逃げ出したかったが、それができなかった。
(…どうすればいい?)
打開策は見つからない。
身動きも取れないし、何もかもが「変」だ。
これが夢じゃないなら、なんとかしなきゃいけない。
なんとかして、抜け出さなきゃ。
けど、どうすれば…
「何?」
叫ぶ俺を見てか、彼女の動きが止まった。
それを見て、俺は頭をフル回転させた。
無我夢中だった。
「お前ほんとに天ヶ瀬か?!」
「…違うって言ったら?」
「違う?じゃあ誰だ??」
「会話するつもりはないんだけど」
「やってること犯罪だってわかってる?!」
「キミは死んでるんだって」
「…意味わかんねーって」
「わかってるでしょ?何が起こってるのかくらい」
「何…って、何が??」
「刺されたことだよ。さっきも言ったけど」
「…わかってるけど」
「じゃあ、わかった。単刀直入に言うよ。“バンパイア“って知ってる?」
「バンパイア??…吸血鬼のこと?」
「そう」
「…知ってる…けど」
「私は吸血鬼なの。意味、わかる?」
……?
……………はい?
…………吸血鬼?
吸血鬼って、………あの吸血鬼??
詳しく知ってるわけじゃなかった。だけど、どういう「存在」かは知ってた。誰だって一度は聞いたことがあるんじゃないかな?絵本に出てたこともあるし、テレビか何かで、見た記憶もある。背中に翼が生えてて、口には血を吸うための牙があって。
ただ、だからなんだって話ではあった。
『吸血鬼』
自分がその存在なんだって言われても、はいそうですかって言えるわけがない。
夢じゃないとは思ったけど、まさか…
「夢」……なのか??
色々ぶっ飛んでて、ますますこんがらがってしまった。
うまく咀嚼できない何かが、口の中でゴロゴロ転がってた。
見る感じ翼も生えてないし、牙だってない
…っていうか、そもそもそんな「生き物」がいるってこと自体、あり得ないわけで…
「ごめん。…なんて言った?」
「だから、私は吸血鬼なの」
「…へぇ。…ははは」
この際なんでもいい。目の前にいる彼女は天ヶ瀬じゃない。それが”吸血鬼”だろうがなんだろうが、今は話を合わせるべきだ。じゃないと“殺られる”。今にもあのナイフが向かってきそうだった。変に機嫌を損ねないようにしなきゃ、また…
「…わ、わかったわかった!吸血鬼…なんだな!?それで??」
「…本当にわかってる?」
「わ、わかってるって!」
「…ふーん。まあ、いいや。で、どうするの?」
「どうするって??」
「家族に何か伝えたいこととかあるんだったら、今のうちだけど?」
ちょっと待ってちょっと待って。
本格的に殺る気じゃないか。
……家族に「何」か…??
遺言でも言えってのか?!冗談じゃない!
「一旦落ち着いてくれ!」
「それはこっちのセリフ」
「…な、なあ、一旦話しあわないか?何が起こってんのかは正直よくわかんない。…けど、わかるだろ?」
「なにが?」
「やっていいことと悪いことがあるって話!」
「聞き分けが悪いなぁ。傷が塞がったの見たでしょ?」
「塞がっ…、ああ、…そうだな…」
「キミの今の“状況”は、さっきも説明した通り。ナイフで刺されて、死んで、それから私が血を分け与えた。ここまでオーケー?」
「お、おっけー…じゃない!!」
「まだ、何かわからないの?」
「わからないことだらけだって!!!大体“血を与えた”ってなんだ!?」
「吸血鬼のことは知ってるでしょ?」
「…うん」
「吸血鬼に噛まれた人間は、同じように吸血鬼になる。吸血鬼は不死身で、心臓を持たない。それは知ってる?」
「な、なんとなくは」
「じゃあ話が早いじゃん。つまり、そういうことだよ?」
??
つまり、どういうことだ??
吸血鬼に噛まれたら吸血鬼になる?
問題はそこじゃなかった。
「吸血鬼」がどんな存在かはなんとなく知ってる。
不死身なんだろ?
不死身で、バカ強くて、歳も取らなくて。
…でも、それが?
吸血鬼なんているわけがない。そう考えることのほうが自然だった。そんなのは存在しないし、噛まれたらどうなるかなんて知らない。そういえば、そんな”設定”だった気もする。
“吸血鬼に血を分け与えられた人間は、吸血鬼になる”
記憶は曖昧だったけど、多分そんな感じだった…よな?
仮に本当に吸血鬼なんだとしたら、彼女が言う「血を分け与えた」って言うのは、ようするに“与えられた人間が吸血鬼になってる”ってことで。
ということは、だ。
その「対象」は俺で、俺は「吸血鬼」に…?
…………………
………………いやいやいや
…………………………いやいやいやいや
「もしもし」
彼女はポケットからスマホを取り出して、電話に出たみたいだった。ポケットの中で軽快な着信音が流れてた。はっきりと、それは聞こえた。スマホの画面を開くと同時にナイフをくるっと回し、気だるそうに腕を組む。
ふと、想像してしまう自分がいた。何をって、…そりゃ、目の前の彼女が「吸血鬼」だっていうことを。現実離れしすぎてて、考える気にもなれなかった。逆に難しくないか?真面目に考えることのほうが。正直言って今は、他に考えることが山積みだった。俺の腕を縛ったヤツが誰であれ、なんで縛られてるのかを知りたかった。
…そもそもあのおっさんはどこに行ったんだ?
天ヶ瀬が変なのは、ここがワンチャン夢の世界だからって考えられなくもない。ようするに俺は今死の淵を彷徨ってて、夢の中で幻覚を見てるってわけ。
…そのほうがずっと自然だな…。下手に考えるよりも、自然に考えたほうがいいのかもしれない。夢を見ているにしちゃ色々とはっきりしてるが、まあ、それはどうにでも説明がつく。
とにかく、だ
「…はあ、めんどくさいことになった」
「え??」
「キミを埋葬するのは少し先延ばしになったみたい。一度連れてこいってさ」
電話が終わった後、むすっと顔でそう言った。誰と電話していたのかはわからないが、どうやら、何かよくないことがあったみたいだった。それよりも、さらっとすごい事を言ったような気もしたが…
「おとなしくしてるって約束できる?」
「…って言うのは…?」
「キミをこれから協会に連れて行くんだけど、下手に逃げ出したりしない?」
言ってることが怖すぎるんだけど。逃げ出したりしないか…って?つーか、「協会」ってどこのことだ??状況が状況だけに、今すぐにでも逃げ出したかった。それが“本音”だった。でもそれをそのまま伝えたらやばい気がした。
…なんて答えるのがいいんだろうか…
いや、ここは最善の行動をしよう。何が最善なのかはわからない。ただ、彼女を怒らせるようなことはしたくない。だから俺は、首を何度か縦に振った。
「じゃあ、縄を切ってあげる」
(…まじか)
もしかして、これはチャンスなんじゃ…?
…いやいや、下手に逃げ出さないほうがいい。相手が女子高生とは言え、油断はできない。俺の直感がそう囁いている。今は様子を見よう。せめてナイフを奪い取れればだけど、……でも
「大体さ、なんでこんなところに来たわけ?」
「…え?」
「ここって家からだいぶ遠いでしょ?この前言ってたじゃん。北八王子の方に住んでるって」
「…ああ、うん」
「なんで?」
…なんでか、って?
自分がここにきた理由を、今更ながら思い出した。
アイツに会うために来た。
…「会う」って言っても、実際には意味が違うけど。
うまく説明できなかった。この状況で動画を見せてくれなんて言えない。今は身を守ることが先決だし、バカ正直に事情を説明するのも…
適当に誤魔化すか…
そう思いつつ、当たり障りのない事を伝えた。
当たり障りがないって言っても、まあ、それなりの理由は考えたが。
「ちょっと行くところがあって…」
「どこ?」
「高尾山…」
「はあ??なんで?」
「夜景が見たくて…」
高尾山の麓にあるこのコンビニから、展望台に行くための駅が少し進んだ先にある。「駅」といっても、そこで動いてるのは電車じゃなくてケーブルカーだった。確か夜の9時くらいまで営業してたはずだった。時々、アイツと一緒に見に行ってた。高尾山の頂上にある、夜景を見に。
…つっても、最後に行ったのは1年も前だけど。
ブチッ
ナイフでロープを切ってくれた。手がヒリヒリする。ずっと食い込んでいたせいで、ロープの縫い目がくっきりとついてた。自由になった俺を見て、天ヶ瀬は改めてナイフを俺に向けた。向けながら、「変な気起こしたら…」と、念を押すように忠告してきた。俺は頷くしかなかった。
怖かった。
純粋に。
…っていうか、”まじ“で。
俺にはどうしても信じられなかった。目の前にいる彼女が、「天ヶ瀬」だっていう事を。顔も声も、仕草も、全部普段の彼女のままだった。それは、見たまんまの印象だった。どっからどう見ても天ヶ瀬だった。だけどさっきも言ったように、口調も振る舞いも、俺の知ってる彼女とは正反対の印象だった。それが一つの視覚の中で“同時に”起こってた。まるで天ヶ瀬の体の中に、「誰か」が入ってるみたいだった。そうじゃなきゃ説明がつかなかった。ナイフを手に持ってる事だってそうだ。
「じゃ、着替えてくるから」
そう言うと、彼女はコンビニの中に戻って行った。逃げ出すには最高のチャンスだった。でも、俺は逃げれなかった。理由はわからなかった。怖かったって言うのももちろんある。だけどそれ以上に、何か得体の知れない不安みたいなものがあった。…よくはわからなかった。それがなんなのかは、具体的には。
ただ、確かだったのは、信じられないくらいの静けさが、あたりに横たわっていたことだった。
街外れの場所と、シミだらけのガードレールと。
夜の暗闇の中に横たわる清陰とした淋しさが、背筋を伸ばしたように広がっていた。
息もできないくらい張り詰めていた。
色褪せた空気や、錆びれた景色にある“落ち着き”が。
嘘みたいにしんとしていた。
街全体が、息を潜めているかのようだった。
足を踏み出せなかったんだ。
どこまでも暗く沈んでいく道の向こうに、手に触れられない“何か”が、横たわっている気がして。




