第6話 古代魔法と不器用な優しさ
氷の貴公子、ライオネル様の離れでの滞在が始まってから、三日が過ぎた。
私の仕事は、彼が研究に集中できるよう完璧な環境を整えること。具体的に言うと、「気配を消すこと」に全力を注いでいた。
食事は、指定された時間に極力音を立てずに部屋の前に置く。掃除は、彼が庭の散策に出かける僅かな時間を見計らって、嵐のように終わらせる。それ以外は、彼からの呼び出しがない限り、離れには一切近づかない。
まさに、忍者か黒子のような働きっぷりだ。
その徹底した「放置」プレイが功を奏したのか、ライオネル様の心の声は、日に日に穏やかなものになっていった。
(静かだ……素晴らしい。誰にも邪魔されないというのは、これほどまでに思考をクリアにするものか)
(食事も美味い。私の好み……いや、健康を考えた、薄味だが素材の味を活かした料理。なぜわかるんだ?)
(あの紬というフロント係、実に気が利くな。それでいて、決して前に出てこようとしない。不思議な娘だ)
彼の心の声を聞くたびに、私は「よしっ!」と心の中でガッツポーズをする。
どうやら私のおもてなしは、彼の求める「最高のサービス」の基準をクリアできているらしい。
しかし、彼が完全に心を開いているかというと、そうではなかった。
私が食事を運んだり、庭の手入れをしたりして、彼の視界に偶然入ってしまった時、彼の心は一瞬、ピリッとした緊張感を帯びるのだ。
(……見られている。……いや、違う。彼女はただ仕事をしているだけだ。わかっている。だが、慣れない……)
彼は、人と接すること自体に慣れていないのだ。それは、彼が今まで生きてきた環境がそうさせたのかもしれない。名門貴族の若き当主。
周りは常に、彼に何かを求める人間ばかりだったのだろう。だから、何の魂胆もなくただそこにいるだけの私のような存在が、逆に彼を戸惑わせているのかもしれない。
そんなある日の午後。
私は庭師の手伝いで、離れの庭の草むしりをしていた。ライオネル様は書斎に籠もりきりで、窓越しに見えるその美しい横顔は、見たこともないほど複雑な文字がびっしりと書かれた古文書に真剣に向けられている。
(……くそ、この一文が解読できない。この古代ルーンが、どうしても文脈に繋がらない。前後の意味から推測するにも、情報が足りなすぎる……!)
彼の心の声は、珍しく焦りと苛立ちに満ちていた。天才と名高い彼でも、解けない問題があるんだな、と少し意外に思う。
その時、一陣の風が吹き抜け書斎の窓から数枚の羊皮紙がひらひらと舞い上がり、庭に落ちてしまった。
「あっ!」
ライオネル様が声を上げるのと、私が駆け出すのは、ほぼ同時だった。
そのうちの一枚が、すぐそばにあった小さな池に落ちそうになる。私は夢中で手を伸ばし、紙が水面に触れる寸前で、なんとか掴み取ることができた。
「……! 大丈夫か!?」
書斎から飛び出してきたライオネル様が、目を見開いて私を見ている。
「はい、なんとか。……こちら、お返しします」
私が濡れずに済んだ羊皮紙を差し出すと、彼はほっとしたように息をつき、それを受け取った。
「……助かった。これは貴重な資料の写しだ。濡れていたら、取り返しがつかなかった。それに君も無事で安心した」
「いえ、お役に立ててよかったです」
私が立ち上がろうとした時、ライオネル様の視線が、私の差し出した羊皮紙に釘付けになっていることに気づいた。その羊皮紙には、彼が頭を悩ませていた、あの古代ルーン文字が書かれている。
そして、私の脳裏にも、その文字がはっきりと焼き付いていた。
(……この文字、どこかで……)
そうだ。異世界に来てすぐ、女神様が私の脳内に直接スキルを授けてくれた時。あの時に見えた、光の粒子が集まってできた文字の形に、とてもよく似ている。
まさか。
私は、ほとんど無意識のうちに口を開いていた。
「あの、シルフィールド様。この文字……もしかして、『繋がり』とか、『絆』という意味ではありませんか?」
「……なに?」
ライオネル様のサファイアの瞳が、驚愕に見開かれた。彼の心の中が、嵐のように揺れ動くのが伝わってくる。
(馬鹿な!? なぜ彼女がこのルーンの意味を!? これは失われた古代魔法文明の中でも、ごく一部の者にしか伝わらなかった特殊な文字だ! 解読できる者は、この大陸にすら存在しないはず……!)
しまった! また、おせっかいが暴走してしまった! スキルを授かった時のイメージだなんて、説明できるわけがない。私は慌てて言い訳を探した。
「い、いえ、その! なんとなく、そう見えただけで! 文字の形が、こう、手と手を取り合っているみたいに見えたものですから! すみません、出過ぎたことを……!」
私がぶんぶんと首を横に振って謝罪すると、ライオネル様はしばらくの間、羊皮紙と私の顔を交互に見比べ、やがて、深いため息をついた。
「……いや。君の言う通りだ」
「え?」
「『繋がり』……そうか、そういう意味だったのか。文脈と繋がらないはずだ。私はこのルーンを、ずっと『束縛』や『契約』といった、強制的な意味合いで解釈していた。だが、『絆』と解釈すれば、この前後の文……古代の精霊との交信方法についての記述が、全て繋がる……!」
彼はまるで雷に打たれたかのようにその場に立ち尽くし、やがて、恍惚とした表情で羊皮紙を見つめた。
「……すごい。何年も解けなかった謎が、今、解けた……」
その純粋な喜びに満ちた横顔は、氷の貴公子というより、ずっと追い求めていた玩具を手に入れた少年のようだった。
私は、彼のそんな表情を見られたことが、なんだかとても嬉しかった。
その出来事があってから、ライオネル様の態度は、少しだけ柔らかくなったように思う。
私と顔を合わせても、以前のようにあからさまな警戒心を見せることはなくなり、時折、書斎から私に声をかけてくるようになった。
「紬。このハーブティーは美味いな。どこの茶葉だ?」
「紬。庭に咲いているあの青い花の名前は、なんという?」
質問はいつも唐突で、用件だけを伝えるぶっきらぼうな口調は変わらない。でも、その声には、以前にはなかった穏やかな響きが混じっている。
そして、彼の心の声は、さらに雄弁だった。
(……この娘と話していると、なぜか心が乱されない。不思議だ)
(……彼女の淹れる茶は、なぜこうも俺の好みに合うんだ? 甘すぎず、渋すぎず、完璧だ)
(……もう少し、話してみたい。だが、何を話せばいいのか、わからん)
不器用な人。
それが、今の私が彼に対して抱いている印象だった。 きっと彼は、今まで自分の興味があること以外、誰かと世間話をするような経験がほとんどなかったのだろう。
そして、あっという間に、彼の滞在最終日がやってきた。
チェックアウトのためにフロントに現れた彼は、来た時と同じように涼やかな顔をしていたけれど、その雰囲気は明らかに違っていた。人を寄せ付けなかった氷の壁が、少しだけ薄くなっているような気がした。
「世話になった。実に有意義な滞在だった」
「お役に立てたのなら、光栄です」
私が深々と頭を下げると、彼は懐から一枚の栞を取り出し、私の前に差し出した。それは、銀細工でできた、繊細で美しい栞だった。
「これは、魔力を通すと文字が光る栞だ。古代魔法の応用でな。……君にやろう」
「え、よろしいのですか? こんなに綺麗なものを」
「ああ。君のおかげで、私の研究は大きく進んだ。その礼だ」
彼の心の声が、少しだけ照れたように聞こえてくる。
(……本当は、また会うための口実なんだがな。さすがにそれは、言えん)
その不器用な優しさが、なんだか可愛らしくて、私は思わず笑みをこぼした。
「ありがとうございます。大切にします」
私が栞を受け取ると彼は満足そうに頷き、そして最後にこう付け加えた。
「次に王都に来る機会があれば、私を訪ねてくるといい。君となら、有意義な話ができそうだ」
そう言って、ほんの少しだけ微笑んだライオネル様の顔は、とんでもなく美しかった。
これは……いわゆる、攻略対象の好感度が上がったというやつでは?
豪華な馬車に乗り込み、去っていく彼を見送りながら、私は手の中にある銀の栞をぎゅっと握りしめた。
氷の貴公子が残していった、小さな温かい『絆』。
私の異世界宿屋ライフは、また一つ、忘れられない思い出を重ねたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
ライオネルのように、これはきっとこういう意味だ、と思い込んでしまうと、いつまで経っても解決できないことってありますよね。ライオネルは1人で研究していたからこそ、こういう事象に何年も囚われてしまったのかなと思います!
紬のファインプレイで解決できて良かったです!




