第5話 銀髪の貴公子と静寂の願い
ライオネル・フォン・シルフィールド。
その、舌を噛みそうなほど長くて格式高い名前は、まるで嵐の前の静けさのように『木漏れ日の宿』に緊張感をもたらした。
予約状が届いてからというもの、おじさんは片時も落ち着かず、宿の中を行ったり来たりしている。
「おい、アンナ! 絨毯のシミは取れたか!?」
「メアリ! シルフィールド様のお食事は、王都の一流レストランにも負けないものを用意するんだぞ!」
「紬ちゃん! カウンターの花はもっと気品のあるものに! そう、もっとこう、シュッとしたやつだ!」
おじさんの指示は、日に日に抽象的かつ大げさになっていく。普段は「ガハハ」と笑っている豪快なおじさんが、まるで恋する乙女のようにそわそわしている姿は、少し面白い。
それもこれも、シルフィールド家というのが、それほどまでに特別な存在だからだ。領主のアルフォンス様ももちろん高貴な方だけれど、シルフィールド家は王族に連なる血筋であり、その権力は一地方領主の比ではないという。
「ねえ、紬ちゃん。シルフィールド様って、どんな方なのかしら…」
フロントの掃除をしながら、アンナさんが不安そうな声で私に尋ねてきた。
「噂では、息をのむほどの美青年だけど、氷のように冷たいお方ですって。少しでも気に障ることがあれば、一族郎党、街ごと魔法で消し去られるとか…」
「そ、そんな物騒な噂なんですか!?」
どこから仕入れてきたのかわからない情報に、私の背筋もすっと寒くなる。
私のおせっかいが、彼の逆鱗に触れてしまったら?
宿屋が木っ端微塵になるどころか、私のセカンドライフが即終了してしまうかもしれない。
ごくり、と喉が鳴る。私の地味スキル『ささやきヒアリング』は、果たして氷の貴公子に通じるのだろうか。
そして、運命の予約当日。
宿の前には、領主様の馬車とは比べ物にならないほど豪華絢爛な馬車が、音もなく滑るように停止した。黒曜石のように磨き上げられた車体に、銀糸でシルフィールド家の紋章が刺繍されている。
もう馬車からしてオーラが違う。
おじさんを先頭に、私たち従業員一同が緊張の面持ちで出迎える中、従者にエスコートされて馬車から降りてきた人物を見て、私は息を呑んだ。
陽光を浴びてキラキラと輝く、プラチナのような銀髪。陶器のように滑らかな白い肌。そして、全てを見透かすような、深いサファイアの瞳。噂に聞いていた以上の、現実離れした美しさだった。まるで、精巧に作られた芸術品が、命を宿して歩いているかのようだ。
彼の周りだけ、空気が違う。ひんやりと澄み切っていて、誰も寄せ付けない絶対的な結界が張られているかのようだった。
「ライオネル・シルフィールドだ。予約している」
鈴を転がすような、涼やかで低い声。彼は最低限のことしか口にせず、私たち従業員には一瞥もくれない。その冷たい態度に、アンナさんが小さく身を震わせるのがわかった。
「よ、ようこそお越しくださいました、シルフィールド様! わたくしが主人の…」
「部屋へ案内しろ」
おじさんの挨拶を、ライオネル様は無慈悲に遮った。その声に、おじさんの顔がひきつる。
まずい、これはかなり気難しいお客様かもしれない。私は冷や汗をかきながら、そっとスキルに意識を集中させた。
彼の心から聞こえてきたのは、その氷のような態度とは裏腹な、あまりにも切実な心の叫びだった。
(……ああ、まただ。どこへ行っても、この値踏みするような視線と過剰な歓迎。うんざりする)
(頼むから、そっとしておいてくれ。私はただ、趣味の古代魔法の研究書を、誰にも邪魔されず、静かに読みたいだけなんだ……)
(この宿のフロント係は、客の心を読んで最高のサービスを提供すると聞いたが……本当か? もしそうなら、私のこの願いを叶えてみろ。さもなければ、時間の無駄だ)
……なるほど。
クールを装っているんじゃなくて、本当に一人が好きで、過剰な干渉を嫌う人なんだ。そして、私の噂を聞きつけてそれを試しに来た、というわけか。
なんだか、少しだけ親近感が湧いてしまった。日本にいた頃の私も、休み時間は一人で静かに本を読んでいるのが一番好きだったから。
望むところじゃないの!
「静かに過ごしたい」というお客様の願いを叶えることこそ、宿屋の腕の見せ所だ。
私は緊張で固まっているおじさんの前に、そっと一歩踏み出した。
「シルフィールド様、ようこそお越しくださいました。『木漏れ日の宿』の小鳥遊紬と申します」
私が名乗ると、彼のサファイアの瞳が、初めて私を捉えた。その視線は、まるで私の魂の奥底まで見透かそうとしているかのように鋭い。
「お客様には、当宿で最も静かにお過ごしいただけるお部屋をご用意しております。本館から少し離れた庭の奥にございます、離れのお部屋はいかがでしょうか」
私の提案に、ライオネル様の形の良い眉が、わずかにピクリと動いた。
「……離れだと?」
「はい。離れには専用の書斎もついております。蔵書は多くありませんが、大きな机と長時間座っても疲れない椅子をご用意しておりますので、読書や書き物には最適かと存じます。庭の木々が喧騒を遮ってくれますので、誰にも邪魔されることなく静かにお過ごしいただけます」
私はにっこりと微笑んで続けた。
「お食事も、ご希望の時間にお部屋までお持ちいたします。お掃除などでスタッフがお部屋にお邪魔する際も、必ず事前にご希望の時間を伺いますので、お客様の時間を妨げることはございません。いかがでしょうか?」
私の言葉を聞き終えたライオネル様は、しばらく無言で私を見つめていた。その表情は相変わらず涼やかだが、彼の心の中は、驚きで揺れていた。
(……ほう。私が何も言わぬうちから、的確にこちらの望みを……。書斎だと? 食事の時間まで配慮するとは。これは、期待以上かもしれん)
(私の心を読んだとでも言うのか? いや、まさか。そんな魔法は存在しないはずだ。だが、これほど的確に私の望みを理解した者は初めてだ。……面白い娘だ)
どうやら、私のおもてなしは彼の心に響いたらしい。 計画通り! と心の中でガッツポーズをする。
やがて、ライオネル様はふっと、ほんの少しだけ口元の表情を緩めた。
「……悪くない提案だ。その離れにしよう」
「かしこまりました。では、お部屋までご案内いたします」
私は彼から荷物を受け取ろうとした従者をやんわりと制し自分で彼の荷物を持つと、離れへと案内を始めた。
本館を抜け、手入れの行き届いた中庭を横切る。木々の葉がさらさらと風に揺れる音と、小鳥のさえずりだけが聞こえる、静かな空間だ。
一番奥まった場所に、その離れはひっそりと佇んでいた。
「こちらでございます」
扉を開けると、木の香りと日当たりの良い部屋の匂いがした。リビングの奥には、壁一面に本棚が作り付けられた小さな書斎が見える。窓の外には、緑豊かな庭が広がっていた。
「……静かで、いい部屋だな」
ぽつりと呟かれた言葉には、偽りのない満足感が込められていた。
(素晴らしい。これなら研究に集中できる。王都の自室よりも、むしろ落ち着くかもしれん)
彼の心の声を聞いて、私は自分の仕事に誇らしい気持ちになった。
「お気に召したようで、何よりでございます。何かご入用でしたら、お部屋のベルでお呼びつけください。それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
私が一礼して部屋を出ようとした、その時。
「待て」
呼び止められて、私は振り返った。
ライオネル様は、書斎の机に分厚い本を置きながら、私に視線を向けていた。
「君、古代ルーン文字は読めるか?」
「え? こだい、るーんもじ…ですか?」
聞き慣れない言葉に、私は首を傾げる。ファンタジー小説で読んだことがあるような気はするけれど、もちろん読めるはずもない。
「いえ、まったく……」
「そうか。……いや、いい」
彼はそれだけ言うと、再び本に視線を落としてしまった。
何だったんだろう。彼の心の声は、深い思索の海に沈んでしまっていて、もう何も聞こえてこなかった。
私は静かに部屋の扉を閉めると、そっとその場を後にした。
こうして、氷の貴公子ライオネル様との、奇妙な主従関係(?)が始まった。
私の仕事は、彼が研究に没頭できるよう、完璧な環境を維持すること。
それはまるで、繊細で気難しい生き物の生態を観察するような緊張感と、ほんの少しの好奇心に満ちた日々の始まりだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
この辺からそれぞれのキャラとの初対面パートに行きます!
ちなみに、今回の話のように1人のキャラの心の声が連続で描写される箇所がございますが、心の声だからこそ饒舌になってるんだなと解釈していただけると助かります…!




