第42話 老冒険者の最後の旅と、錆びついた剣の記憶
秋の気配が深まり、冷たい風が吹き始めたある日の夕暮れ。
『木漏れ日の宿』の扉が、軋むような音を立ててゆっくりと開いた。
「……いらっしゃいませ」
私が声をかけると、入ってきたのは一人の老人だった。
ボロボロの灰色のマントを羽織り、白髪は伸び放題。足を引きずり、体中には無数の古傷が見える。
背中には、布に包まれた長い棒状のもの――おそらく剣だろうか――を背負っていた。
その姿は、失礼ながら「みすぼらしい」と言われても仕方がないほどだった。
ロビーにいた他の客たちが、眉をひそめてヒソヒソと話すのが聞こえる。
「おい、浮浪者か?」
「小汚いな……。宿の雰囲気が悪くなるぞ」
でも、私のスキル『ささやきヒアリング』が拾った彼の心の声は、そんな外見とは裏腹に、とても静かで、そして深い悲しみに満ちていた。
(……ここが、最後か)
(……エレン。バルガス。……ようやく、約束の場所に来たぞ。……お前たちが『いつか行きたい』と言っていた、この街へ……)
老人は、震える手でカウンターに銅貨を数枚置いた。
「……一番安い部屋でいい。……一晩、体を休めさせてくれ」
「はい、承りました。お部屋にご案内しますね」
私は、彼の差し出した銅貨が、大切に磨かれていることに気づいた。
おじさんが奥から顔を出し、老人の姿を見て一瞬驚いたようだったが、すぐにいつもの豪快な笑顔を作った。
「おう!旅の方か!今夜は冷えるからな、暖炉の近くの部屋を用意するよ。ゆっくりしていきな!」
「……ああ。すまない」
老人は短く礼を言い、重い足取りで部屋へと消えていった。
その夜。
私は、温かいスープと柔らかいパンを乗せたトレイを持って、老人の部屋をノックした。
「失礼します。夕食をお持ちしました」
「……置いておいてくれ」
部屋に入ると、老人は窓際の椅子に座り、窓の外の月を見上げていた。
その手には、背負っていた「布包み」が抱きしめられている。
私はテーブルに食事を置きながら、そっと彼の心の声に耳を傾けた。
(……俺だけが、生き残ってしまった)
(……あのダンジョンで、バルガスが俺を庇って死んだ時も。エレンが病で倒れた時も。……俺は、何もできなかった)
(……『鉄壁のガレン』なんて呼ばれて、多くの人を守った気になっていたが……本当に守りたかった仲間は、もう誰もいない)
ガレンさん。それが彼の名前らしい。
「鉄壁」という二つ名がつくほどの、名のある冒険者だったのだろう。
でも今の彼は、過去の栄光ではなく、喪失感だけに生きていた。
(……この剣も、もう錆びついてしまった。俺と同じだ。……明日の朝、街外れの丘に埋めよう。……俺の旅も、これでおしまいだ)
彼は、ここを「死に場所」として選んだのかもしれない。
そう思わせるほど、彼の心は冷え切っていた。
私は、何も言わずにスープの蓋を開けた。
湯気と共に、ミルクと野菜の優しい香りが広がる。
「……ガレン様」
私が名前を呼ぶと、彼は驚いたように振り向いた。
「なぜ、俺の名を……?」
「宿帳に書いてありましたから(嘘です、心の声です)。……ガレン様、一つだけお聞きしてもいいですか?」
「……なんだ」
「その剣。……とっても大切にされていたんですね」
私の言葉に、ガレンさんは布包みを強く握りしめた。
「……大切、か。……いや、これは呪いのようなものだ。守れなかった記憶の塊だ」
「でも」
私は彼の隣にしゃがみ込み、その布包みにそっと手を添えた。
「その布、何度も何度も縫い直してあります。……ボロボロになっても、捨てずに、ずっと背負ってここまで来られた。それは、ガレン様が仲間の方々を、今でもずっと愛していらっしゃる証拠じゃないですか?」
ガレンさんの瞳が揺れた。
(……愛している……? 俺が……?)
「きっと、お仲間の方々も、ガレン様がここまで連れてきてくれたこと、喜んでいると思います。……『約束の街』に、みんなで来られてよかったねって」
「ッ……!」
ガレンさんの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼は布包みに顔を埋め、子供のように肩を震わせた。
「……すまない……。すまない、エレン、バルガス……。俺だけが、生き残って……すまない……」
(……ずっと、責め続けていた。生き残った自分を。……でも、ここまで来るのが、俺の最後の役目だったのか……?)
私は、彼が泣き止むまで、背中をさすり続けた。
言葉はいらなかった。
ただ、温かいスープの湯気だけが、凍りついた彼の心を溶かすように揺れていた。
翌朝。
私がフロントに行くと、カウンターの上に、あの大切にしていた「布包み」と、一通の手紙が置かれていた。
ガレンさんの姿は、もうどこにもなかった。
『宿代にしては多すぎるかもしれないが、受け取ってくれ。……あんたのスープのおかげで、久しぶりに温かい夢を見られた』
『剣は置いていく。もう、俺には必要ないものだ。……だが、捨てるには忍びない。この宿の隅にでも、置いてやってくれないか』
手紙には、そう書かれていた。
私が布包みを開くと、中から現れたのは、鞘はボロボロだが、柄に美しい宝石が埋め込まれた、古びた剣だった。
その時。
宿の扉が開き、勇者アルド様がいつものように元気よく入ってきた。
「おはよう、紬さん! ……おや? その剣は?」
アルド様は、カウンターの上の剣を見るなり、目を丸くした。
「こ、これは……『守護騎士ガレン』の剣じゃないか!?」
「えっ、ご存知なんですか?」
「ああ!五十年前に活躍した伝説の冒険者だ!どんな激戦でも仲間を背に守り抜き、引退後は行方不明になっていたと言われていたけど……。まさか、ここにいたのか!?」
アルド様は、震える手でその剣に触れた。
「……刃は錆びついているけど、柄の手入れは完璧だ。……最期まで、騎士としての誇りを持ち続けていたんだな」
アルド様は、その剣に向かって、深く一礼した。
伝説の勇者が、名もなき老英雄に敬意を表した瞬間だった。
「紬さん。この剣、俺が預かってもいいかな? ギルドの博物館なら、英雄の遺品として大切に保管してくれるはずだ」
私は少し考えて、首を横に振った。
「いいえ、アルド様。……この剣は、ここに置いておきたいんです」
「え? でも……」
「ガレン様は、この剣を『守れなかった記憶』だと言っていました。でも、本当は『仲間との思い出』そのものだったんだと思います。……だから、博物館のガラスケースの中よりも、たくさんの旅人が行き交うこの宿の方が、きっと寂しくないと思うんです」
私は、おじさんがいつも磨いている「竜王の鱗」の隣に、その剣をそっと立てかけた。
朝日を浴びて、錆びついた刃が、まるで微笑むように鈍く光った気がした。
「……そうだな。ここなら、毎日賑やかだもんな」
アルド様も、優しく微笑んだ。
(……ガレンさん。あなたの守りたかった想い、ちゃんと紬さんに届いてますよ。……お疲れ様でした)
どこか遠くの空の下で、身軽になったガレンさんが、初めて穏やかな笑顔で歩いている。
そんな姿が目に浮かんだ。
『木漏れ日の宿』には、今日もまた一つ、語り継ぐべき物語が増えた。
錆びついた剣は、今日も宿の片隅で、旅人たちの安全を静かに見守っている。
ここまでお読みいただきありがとうございました!




