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第4話 噂は夜風に乗って

 穏やかな気持ちで眠りにつこうとした、その時。



 カラン、と階下のフロントで、来客を告げるベルの音が静かに響いた。



 こんな夜更けに、誰だろう。  



 宿の扉は夜間は施錠しているはずだ。常連のお客様なら、合図を決めてノックしてくれる。こんな風にベルを鳴らすのは、よほどの事情がある旅人か、あるいは…。



 胸の中に、ほんの小さな不安が芽生える。気のせいか、そのベルの音は、これから始まる新たな出会いの、そして波乱の幕開けを告げているような気がした。




 ベッドからそっと抜け出し、音を立てないように階段を下りていく。ランプの灯りが届かないフロントは薄暗く、静まり返っている。


 カウンターの向こう、宿の入り口に一つの人影が立っていた。  


 背の高いその人物は、旅装束のフードを目深に被っており、顔は全く見えない。外は雨でも降っているのだろうか、ローブの裾からはぽたぽたと雫が落ち、石の床に小さな染みを作っていた。



「……ごめんください。夜分に申し訳ありませんが、一晩、泊めていただけないでしょうか」



 聞こえてきたのは、少し掠れた低い声だった。その声色には、隠しきれない疲労とそして強い警戒心が滲んでいる。  


 私が返事をするより早く、奥の部屋から寝間着姿のおじさんが慌てた様子で出てきた。



「へい、いらっしゃい! いったいどうされたんで…おっと」  


 おじさんも、その客人の異様な雰囲気に言葉を詰まらせる。しかし、そこは長年宿屋を切り盛りしてきたおじさんだ。すぐにいつもの人の良い笑顔に戻り、カウンターの内側に入った。



「旅の方ですかい。大変でしたな、こんな夜更けに。どうぞ、お入りください。空いている部屋はすぐに用意しますんで」



 客人は無言で頷くと、ゆっくりと一歩、宿の中へ足を踏み入れた。その時、彼の動きが不自然に揺らぎ、壁に手をついた。



「お客様、大丈夫ですか?」  



 思わず駆け寄ると、鉄の錆びたような匂いが鼻をつく。


 血の匂いだ。

 私は息を呑み、彼の心の声に耳を澄ませた。



(……まずいな、傷口が開いたか。追手はまけたはずだが、油断はできん。この傷では遠くへは行けない。とにかく、一晩だけでも体力を回復させねば……)



(この宿は、確か……噂に聞く『心を読むフロント係』がいるとか。心を読むなんてありえないことだが、それでも噂になるぐらいだ。迂闊な思考は命取りになりかねん。あくまで、ただの旅人として振る舞わねば……)



 心を読むフロント係。それは、紛れもなく私のことだ。自分の噂が、こんな形で警戒の対象になるとは思ってもみなかった。  


 

 目の前のこの人は、何者かに追われ深く傷ついている。そして、私を警戒している。


 深入りすべきではない。下手に何かを探ろうとすれば、かえって彼を追い詰めてしまうかもしれないから。


 私は宿のフロント係。ならば、どんなお客様であろうと、まずは安全と安らぎを提供するのが仕事だ。



「お客様、お怪我をされているご様子ですね」



 私は努めて穏やかな声で言った。



「もしよろしければ、お部屋にお運びする前にこちらで応急手当をいたしましょうか? 清潔な布とお湯をお持ちします」



「……余計な世話だ」  



 フードの奥から、拒絶するような低い声が返ってきた。しかし、彼の心は別の言葉を叫んでいた。


(……ありがたい。だが、素直に人の親切を受けるわけにはいかない。この世界で隙を見せることは、死を意味する。ありえないだろうが、この娘が例のフロントで本当に心を読むというのなら、俺の警戒心にも気づいているはずだ。どう出る……?)



 試されている。

 私は彼の心の声を聞かなかったふりをして、にこやかに微笑んだ。



「かしこまりました。では、お部屋に救急箱をご用意しておきますね。どうぞ、ご自由にお使いください。それから、厨房に残り物ですが、温かいスープがございます。冷えたお体にはそれが一番ですから、後ほどお持ちしてもよろしいでしょうか」



 私の言葉に、客人はしばらく黙り込んでいた。フードの奥から、探るような視線を感じる。やがて、彼は小さく、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「……好きにしろ」とだけ呟いた。



 おじさんが用意した鍵を受け取ると、彼は壁伝いに、引きずるような足取りで二階へと上がっていった。



 その背中を見送りながら、おじさんは心配そうに眉を寄せた。



「紬ちゃん、なんだかワケありのお客さんみたいだな。大丈夫かい?」



「大丈夫ですよ、おじさん。どんなお客様でも、うちに来たからにはゆっくり休んでいただかないと」



 私は彼に約束した通り、温かい野菜スープと救急箱を持って、そっと部屋の前に置いた。ノックには応えがなかったがそれでいい。今はただ、彼が少しでも心を休められることを願うだけだった。



 翌朝、私が出勤した時には、あの旅人の姿はもうどこにもなかった。


 チェックアウトは静かに行われたらしい。私が彼の部屋の片付けに行くと、ベッドは綺麗に整えられ、私が昨夜置いたスープの器は空になっていた。そして、テーブルの上には、正規の宿泊代と一緒に、小さな銀貨が一枚、チップとして置かれていた。


 救急箱の包帯が少しだけ減っているのを見て、私はほっと胸をなでおろした。



 窓を開け、新鮮な朝の空気を取り込む。



 ふと、部屋の隅に、昨夜の彼が残していった手紙が置いてあった。



 『助かった。あのスープは、凍えた体によく染みた。噂の通り、君は私の心の声を聞いてくれてるようだった。感謝する』



 その温かい手紙に、私の心もじんわりと温かくなる。彼が誰でどこへ向かったのかはわからない。でも、この宿で過ごした一夜が、彼の過酷な旅路の、ほんの少しの癒やしになったのなら嬉しい。



 この出来事をきっかけに、私は自分の噂が、自分でも知らないほど遠くまで、様々な形で届いていることを実感するようになった。



 領主様が利用するようになってから、宿を訪れる客層は目に見えて多様化していった。王都から来たという豪商、古代遺跡を巡る旅の学者、各地の英雄譚を歌い歩く吟遊詩人、騎士団を引退し、旧友を訪ね歩く老人。



 彼らは皆、『木漏れ日の宿』の評判、そして『心を読むフロント係』の噂を聞きつけてやってくる。



「噂のフロント係は君かね。わしは北の国の生まれでな。故郷の『羊肉の煮込み』が恋しくてたまらんのだが、この国ではなかなか食べられんのだ」



 そう言って寂しそうに笑う行商人の男性には、彼の心に浮かんだ家庭料理のイメージを頼りに、メアリさんと相談して、豚肉を使ったアレンジレシピをディナーに出した。



「こ、これは…! 味付けが、まさしく故郷の味だ! まさか、この国で食べられるとは…!」



 涙を浮かべて喜ぶ彼の姿に、厨房の皆で胸を熱くした。



 研究に行き詰まり、何日も部屋に籠もりきりの学者さんには、彼の心の声が求める「静寂」と「閃き」が味わえそうな、あえて宿から少し離れた見晴らしの良い丘の上を散歩コースとしてお勧めした。


―・―・―

※ちなみに実際に見晴らしのいい場所に行くとひらめき力が上がると言われているのは本当らしいです。

―・―・―


「君に言われた通り丘に登ってみたら、素晴らしい着想が湧いてきたよ! ありがとう! この論文が完成したら、謝辞に君の名前を載せさせてもらうよ!」



 そう言って興奮気味に研究室に戻っていく彼の背中は、来た時とは別人のように活力に満ちていた。



 またある時は、昔の武勇伝を誰かに聞いてほしくてうずうずしている退役騎士のおじい様がいた。



(この武勲、誰かに語りたくてたまらんのじゃが、若いもんは興味がないようじゃし……)


 そんな心の声を聞きつけた私は、宿の地下にある酒場で、聞き上手で歴史好きな常連客の席へと、そっと彼を案内した。案の定、二人はすぐに意気投合し、夜が更けるまで冒険譚に花を咲かせていた。



 一つ一つの、本当にささやかなおせっかい。



でも、その積み重ねがお客様たちの心に確かな満足を刻んでいく。  



 口コミは人を呼び、『木漏れ日の宿』は、いつしか単なる「領主様御用達の宿」ではなく、「どんな旅人でも、心からの安らぎと満足を得られる特別な宿」として、国中にその名を知られるようになっていった。



 そんな、忙しくも平和な日々が続いていたある日のことだ。



「つ、紬ちゃん! 大変だ! 大変なことになったぞ!」



 おじさんが、一枚の羊皮紙を握りしめ、血相を変えてフロントに駆け込んできた。その手は、興奮のあまりわなわなと震えている。



「どうしたんですか、おじさん。そんなに慌てて」



「こ、これを見ろ!」



 おじさんからひったくるように渡された羊皮紙には、流麗な筆記体で文章が綴られ、末尾には見たこともないほど格調高い家の紋章が、深紅の蝋で封をされていた。



「予約状…ですか? ずいぶん立派な紙ですね。……差出人は、ええと……」



 そこに記された名前に、私は自分の目を疑った。



「ライオネル・フォン・シルフィールド……?」



 シルフィールド家。それは、この国でも指折りの大貴族であり、王家に古くから仕える名門中の名門。そしてライオネル様は、その若き当主だと聞く。


 そんな雲の上の人が、なぜうちに?



 私の疑問に答えるように、おじさんがゴクリと唾を飲んで言った。



「シルフィールド様は、天才的な頭脳を持つ学者としても有名でな。だが、極度の人間嫌いとしても知られている。そんな方が、わざわざ王都から、こんな田舎の宿に……」



 予期せぬ大物の名前に、私の心臓は早鐘を打ち始める。  


領主様とはまた違う、本物の大貴族。一体、どんな人なんだろう。







ここまでお読みいただきありがとうございました!


実は、この話以降も紬が『心の読めるフロント』という噂を聞きつけた人物たちが沢山来ますが、皆さん、紬が本当に心が読めるとは思っていません。紬のことは、そのような噂が出るくらい気配りができる人物と思っています。


ちなみに補足で、一応、魔族がいる世界なので魔法とかはありますが、心が読めるスキルというのは歴史上、この世界には出てきてないので、心が読めるスキルがあることはありえないと皆さん思っているという設定です!


次の話は、本日18時投稿予定です!

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