第32話 国王陛下の涙と、新たに任命された役職
ゴロゴロゴロ……。
重厚なワゴンの車輪の音が、静まり返った王城の廊下に響く。
私の前には、銀のドームカバーに覆われたお皿。そこからは、隠しきれない甘く香ばしい香りが漂っている。
隣を歩くのは、銀縁眼鏡をくいっと押し上げ、なぜかドヤ顔のカインさん。
「……計算通りだ、紬。現在のパイの温度は推定65度。人間の味覚が最も甘みと香りを感じやすい温度帯だ。謁見の間までの距離と歩行速度を逆算すれば、陛下が口にする瞬間に、このパイは『最高の一口』となる」
「カインさん、頼もしいですけど、プレッシャーかけないでください……!」
私の胃は、さっきの厨房バトルで一度回復したものの、謁見の間が近づくにつれて再びキリキリと痛み出していた。
だって、これからこれを食べるのは、この国一番の権力者なのだから。
大きな扉の前に立つ。
衛兵たちが、鼻をヒクつかせながら扉を開けた。
「――小鳥遊紬、並びにカイン・スターリング、参上!」
宰相閣下の声と共に、私たちは再び、あの広大な空間へと足を踏み入れた。
玉座には、威厳はありながらもやっときたかと待ち遠しそうな(そしてお腹を空かせた)国王陛下。
その両脇には、心配そうにこちらを見るエドワード様と、無表情ながらも視線が熱いライオネル様。
私がワゴンを押して進むと、その香りに気づいたのか、陛下のピクリと眉が動いた。
「……待っておったぞ」
陛下は、威厳を保とうと必死に背筋を伸ばしているが、私のスキル『ささやきヒアリング』は、その心の叫びを容赦なく拾ってしまう。
(……来た!来たぞ!なんだこの香りは!厨房の換気口から漏れてきた匂いだけで、余は三回も唾を飲んだぞ!早く!早く余の前に!)
……陛下、心の声が駄々っ子みたいになってます。
私は玉座の前の階段下にワゴンを止め、震える手で銀のカバーを開けた。
ふわり、と湯気が立ち上る。
黄金色に焼き上がった網目模様のパイ生地。その隙間から覗く、飴色に煮詰められたリンゴ。
「……ほう」
陛下が身を乗り出した。
宰相閣下が毒見をしようと手を伸ばすが、陛下はそれを手で制した。
「よい。……その娘の目は、嘘をつく者の目ではない。それに、この香り……毒など入っていれば、これほど澄んだ香りはせぬ」
(……というのは建前で、毒見などさせてたまるか!一刻も早く食べたいんじゃ!宰相、下がっておれ!)
食欲が毒味というセキュリティを凌駕してしまっている。陛下それでいいんですか……。
気を取り直して私は、切り分けたパイを、一番美しい金縁のお皿に乗せ、おずおずと差し出した。
「……どうぞ、陛下。木漏れ日の宿特製、アップルパイでございます」
陛下は、震える手でフォークを手に取り、パイの角をサクッと崩した。
湯気とともに、シナモンの香りが弾ける。
そして、その一口を、ゆっくりと口に運んだ。
サクッ。
静寂の広間に、軽やかな音が響く。
陛下が、目を閉じて咀嚼する。
……沈黙。
永遠にも感じる数秒間。
私の心臓が破裂しそうになった、その時だった。
「…………あ…………」
陛下の口から、言葉にならない吐息が漏れた。
そして、閉じた瞳の端から、一筋の涙がツーッと頬を伝ったのだ。
「へ、陛下!?」
宰相閣下が慌てて駆け寄ろうとする。
エドワード様もライオネル様も、目を見開いている。
しかし、陛下は静かに手を上げて彼らを止めた。
(……ああ……これだ……)
陛下の心の声が、さっきまでのコミカルなものから、深く、切ない色へと変わっていく。
(……余がまだ、王位継承権の末席にいた頃。……厳しかった母上。いつも『王らしくあれ』『弱音を吐くな』と、余を叱り続けた母上……)
(……だが、余が高熱を出して寝込んだ夜。母上は、侍女も下がらせて、一人で寝室に来てくれた。そして、自ら焼いたという、不格好なアップルパイを、フーフーと冷ましながら、食べさせてくれた……)
(『……私の可愛い息子。お前は、強い子ですよ。……さあ、お食べ。早く元気になるのですよ』)
(……あの時の味だ。バターの香りも、シナモンの強さも、リンゴの甘酸っぱさも……。余がずっと、心の奥底で求めていた、母上の『優しさ』の味だ……)
陛下の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
一国の王が、子供のように泣いていた。
「……美味い」
陛下は、掠れた声で呟いた。
「……本当に、美味い。……余は、この味を、ずっと探しておったのだな……」
私は、胸が締め付けられるような思いで、その姿を見つめていた。
王様だって、一人の人間だ。
重圧に耐え、孤独に耐え、それでも強くあろうとする中で、心のどこかに「甘えたい」「癒やされたい」という場所を探していたんだ。
(……よかった。メアリさんのレシピ、陛下に届いたんだ……)
私が安堵の息をついていると、陛下は涙を拭い、スッと顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの疲れ切った色はなく、王としての強い意志の光が宿っていた。
そして、私をまっすぐに見据えて、とんでもないことを言い放った。
「――小鳥遊紬よ。余は決めたぞ」
「は、はい」
「そなたを、王城へ召し抱える!」
「え?」
「役職は……そうだな。『王室専属・心の管理官兼おやつ係』だ!今すぐ宿屋を畳んで、城に部屋を用意させよ!毎日、余のためにパイを焼き、その皆を虜にする不思議な魅力で余の愚痴を聞くがよい!」
「ええええええええ!?」
私は、今日何度目かわからない絶叫を上げた。
心の管理官!?なんですかその謎の役職!しかも毎日愚痴を聞けと!?
私の平穏な宿屋ライフが、一瞬にして「王様のカウンセラー」にジョブチェンジ!?
「待ってください、父上!!」
最初に声を上げたのは、やはりエド様だった。彼は玉座の前に飛び出し、両手を広げて私を庇うように立った。
「紬は、僕のお客さんです!そして、いずれは僕の妃として迎えるつもりだったのに、父上の専属係だなんて、認められません!」
「黙れエドワード!お前にはまだ早い!余の胃痛を癒せるのは、この娘だけなのだ!」
「僕の初恋の人なんですよ!?父上の胃薬代わりにしないでください!」
親子喧嘩が始まった!そして、エド様の初恋が私ということも唐突に知ってしまった。急すぎて驚きを通り越してしまっている。
すると、今度はライオネル様が、静かに、しかし冷徹な足取りで進み出た。
「……陛下。恐れながら、申し上げます」
「なんだライオネル公爵。そなたも余の邪魔をする気か」
「邪魔など滅相もございません。……ただ、非合理的であると申し上げているのです」
ライオネル様は、眼鏡の位置を直すような仕草で淡々と言った。
「彼女の才覚は、料理だけではありません。彼女の『直感』は、我が国の古代魔法研究に革命をもたらす可能性を秘めています。単なる『おやつ係』として囲い込むのは、国家的損失……。よって、彼女は私が預かり、シルフィールド家の研究室で、その能力を最大限に活用すべきです」
(要約:紬と毎日研究室で二人きりでお茶をしたいので、陛下には渡しません)
心の声がダダ漏れです、公爵様!
「ふん! 魔法研究など、二の次だ! 余の健康こそが国家の最優先事項であろう!」
「父上! 紬は僕のものです!」
「いや、私の研究パートナーだ!」
王様と、王太子と、公爵。
国のトップ3が、私一人の所属を巡って、謁見の間で醜い言い争いを始めてしまった。宰相閣下が「あーあ……」と遠い目をしている。
どうしよう。このままでは、私は強制的に城に軟禁されてしまう!
私が助けを求めてキョロキョロしていると、私の隣で、ずっと黙って計算機を叩いていたカインさんが、パン! と手帳を閉じた。
その乾いた音が、口論をピタリと止めた。
「……非効率極まりない」
カインさんの冷ややかな声が響く。
彼は、臆することなく玉座に近づくと、王族たちに向かって言い放った。
「陛下、殿下、並びに公爵閣下。……議論の前提が、間違っております」
「……なんだと?商人風情が、余に意見するか」
「監査役として、事実を述べさせていただきます」
カインさんは、翡翠色の瞳で私を一瞥し、そして宣言した。
「小鳥遊紬は、現在、商人ギルドによる『重要監査対象』であります。彼女が所属する『木漏れ日の宿』の経営実態には、未だ解明されていない重大な謎があり、その調査が完了するまで、彼女の身柄を他組織へ移管することは、ギルド規約により認められません」
「な、なんだと……?」
「つまり!彼女は、監査が終了するまで、宿屋のフロントに居続けなければならないのです。それが、法であり、経済のルールです!」
カインさんが、堂々と嘘(?)をついた!
そんな規約、絶対ない!
でも、彼のあまりの自信満々な態度と、「経済」という言葉の重みに、世事に疎い(?)王様たちは「うっ」と怯んだ。
「そ、そうなのか……?ギルドの規約ならば、致し方ないのか……?」
「……ううむ。商人の法を曲げれば、流通が止まる恐れもある……」
陛下が動揺している。カインさんは畳み掛けるように言った。
「それに、陛下。彼女を城に閉じ込めれば、この『母の味』は失われます」
「なに?」
「このアップルパイの味は、あの宿屋の厨房、あの街の空気、そして彼女が『多くの旅人をもてなす』中で培った経験から生まれるものです。城という閉鎖的な環境では、この味は再現不可能。……記録がそう示しております」
もちろん、そんな記録はない。カインさんの即興のハッタリだ。
でも、陛下には効果覿面だった。
(……確かに。母上も、城の堅苦しさを嫌っておった。……この温かい味は、自由な場所でこそ生まれるものなのかもしれん……)
陛下は、名残惜しそうにパイの最後の一口を食べ、深いため息をついた。
「……よかろう。スターリング支部長の言葉、理がある」
「父上!」
「その代わりだ!小鳥遊紬!そなたに『王室御用達・特別おもてなし名人』の称号を授ける!」
「えっ」
「今後、余が疲れた時は、お忍びでそなたの宿へ行く!その時は、今日のようなパイと、そして……余の愚痴を聞く時間を、最優先で確保せよ!これが妥協案だ!」
結局、来るんかーい!
でも、城に軟禁されるよりは、百倍マシだ。
「……謹んで、お受けいたします」
私が深々と頭を下げると、エドワード様は「宿なら僕も行ける!」と喜び、ライオネル様は「……まあ、宿なら通い慣れているからな」と納得し、事態はなんとか収束した。
帰り道。
王城の回廊を歩きながら、私は隣を歩くカインさんに、こっそりと声をかけた。
「……カインさん、助けてくれて、ありがとうございました」
「……ふん。勘違いするな」
彼は、眼鏡を直しながらそっぽを向いた。
「お前を城に取られたら、俺の監査(宿屋の謎解き)ができなくなる。それだけだ。……それに」
「それに?」
「……城の飯は、上品すぎて口に合わん。……やはり、お前の宿の、あの雑多だが温かい料理の方が、俺の舌には合っているようだ」
彼の耳が、真っ赤になっている。
私は、くすりと笑ってしまった。
「……はい。宿に戻ったら、とびきりのジンジャークッキー、焼きますね」
「……砂糖は多めで頼む。今日は、頭を使いすぎた」
やけに素直でちょっと驚いてしまった。
こうして、私の波乱万丈な王城デビューは、カインさんの「計算高い嘘」と「本音」のおかげで、なんとか「王室御用達」という新しい(そして面倒な)看板を手に入れるだけで幕を閉じた。
しかし、平穏はまだ遠い。
門の外から、ピーマンキーホルダーをぶら下げた、あの「熱すぎる方」の声が聞こえた気がした。
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