第16話 緊張のプロポーズと屋上テラスの奇跡
『木漏れ日の宿』のフロントは、相変わらずの賑わいを見せていた。
私はといえば、商人ギルドのカイン氏(一体いつまでいるんだろう?)による「非効率だ!」という鋭い、けれど的外れな指摘を受け流しつつ、次々と訪れるお客様の対応に追われていた。
(ああ、疲れた。今日は熱い風呂に入って、ビールを一杯飲んで寝たい)
(この街の市場は活気があるな。明日は何を仕入れようか)
(宿屋の紬さん、今日も可愛いなあ。勇気を出して、今度お茶にでも誘ってみようかな……)
飛び交う心の声に、私は(ビール、いいですね!)(お魚がおすすめですよ!)(お気持ちだけ!)と、心の中だけで返事を返す。
カイン氏は、そんな私の様子を、フロントの隅から今日もじっと観察していた。
(……不可解だ。小鳥遊紬の接客ルーティンは、客によって微妙に異なる。マニュアル化されていない。だが、客の満足度は例外なく高い。……彼女の笑顔のパターンと客の満足度の相関関係について、データを取る必要があるな)
相変わらず、心の声までガチガチの理論武装である。
そんな日の午後、一人の若い男性が緊張した面持ちで宿屋に入ってきた。歳は二十歳そこそこだろうか。服装は質素だが、丁寧に仕立てられた清潔なシャツを着ている。彼は、手の中に小さいけれど上質な作りの木箱を、まるで宝物のように大事そうに握りしめていた。
「あ、あの! 予約していた、レオンと申します!」
「はい、レオン様。お待ちしておりました。お部屋にご案内しますね」
彼が宿泊名簿にサインする手が、小刻みに震えているのが見えた。よほど緊張しているらしい。何か、大切な用事でもあるのだろうか。
私はそっと、彼の心の声に耳を傾けた。
(よ、よし……! ついにこの日が来た! 彼女が、隣町からもうすぐこの宿にやってくる)
(この街で一番腕の良い宝飾職人の方に作ってもらった、この指輪……。給料の三ヶ月分どころか、俺の一年分の稼ぎだ。でも、彼女の笑顔のためなら安いもんだ)
(……問題は、場所だ。友人が『最高の夜景だ』と教えてくれて予約した、街一番のレストラン『星見の丘』が、なんと……料理人のギックリ腰で、急遽店を閉めることになった、とさっき連絡があった)
彼の心の中は、まさに絶望の淵だった。
(どうしよう! 彼女には「最高の場所で、大事な話がある」と伝えてあるのに! まさか、この宿の食堂で指輪を渡すわけにもいかない……!)
(ああ、もうダメだ。師匠にも、彼女にも申し訳ない。せっかくの大事な日が、台無しだ……)
指輪。大事な日。レストランのキャンセル。
……これは、一大事だ。でも、私がいきなり「プロポーズですね!」なんて言うわけにはいかない。
私は彼がお部屋に向かおうとする背中に、とびっきりの笑顔で声をかけた。
「レオン様! よろしければ、少しお時間いただけますか?」
「え……?」
「当店にいらっしゃってから、ずっと何かお困りのご様子でしたので……。もし、私でお役に立てることがあれば、何でもご相談ください。『木漏れ日の宿』は、お客様の旅を全力でサポートするのがモットーですから!」
私の言葉に、レオン様は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、張り詰めていた糸が切れたように、その場にしゃがみ込んでしまった。
「う……うわぁぁん! 紬さぁぁん!」
「ええっ!? だ、大丈夫ですか!?」
まさかの号泣! 私は慌てて彼をフロントの裏へと案内した。
カインさんが「(業務中に客を泣かせるとは、フロント失格だ……!)」と呆れた心の声を飛ばしてくるけど、今はそれどころじゃない!
「紬さん、聞いてください! 僕、今日、恋人にプロポーズするはずだったんです!」
裏の休憩室で、レオン様は泣きながら全てを話してくれた。指輪のこと、レストランがキャンセルになったこと、もうどうしていいか分からないこと。
「……なるほど。それは……大変でしたね」
私はこくこくと頷き、そして、ニッと笑った。
「レオン様、お任せください! その『人生最大の決戦』、当宿が全力で支援させていただきます!」
「……ということで、アンナさん、メアリさん! 『人生最大の決戦支援プロジェクト』発動です!」
「なによ、またあんたの無茶ぶりね!」
「面白そう! やるやる!」
厨房に駆け込むと、メアリさんは文句を言いながらも、すぐに「デザートは任せな!」と腕をまくり、アンナさんは「テーブルクロスとキャンドル、お花も必要ね!」と目を輝かせる。
私はレオン様に、宿の最上階、その奥にある小さなテラスを提案した。
昼間は洗濯物を干すこともある、ただのスペース。しかし、夜になれば、ここはこの街で一番、星空に近い場所になる。
「夜になれば、ここからは街の灯りと、満天の星空が一望できるんです。あの『星見の丘』レストランにも、負けないくらいの絶景ですよ」
「こ、こんな場所が……! 紬さん、ありがとう……!」
感激するレオン様。
宿屋の女性スタッフ(とおじさん)総出で、屋上テラスの準備が始まった。
……もちろん、その様子を、カイン氏は見逃さなかった。
「おい、小鳥遊紬! 従業員を通常業務から引き離し、何を画策している! しかも、備品であるキャンドルと高級リネンを無断で持ち出すとは! これは明らかな業務上横領であり、非効率の極みだ!」
(……まただ。また、あの笑顔で、何かを企んでいる。いったい、何を……? あんな殺風景な屋上で、何をする気だ?)
彼の理論武装された心が、予測不能な事態に混乱している。
「カイン様。これは、『未来への投資』ですよ。見ていてください」
私は彼にそう言い残し、準備の仕上げに取り掛かった。
その夜。
レオン様の恋人である、可愛らしい花のような女性が、不安そうな顔で宿に到着した。
「あの……レオンから、レストランがダメになったと聞きました。大事な話って、一体……」
「ようこそお越しくださいました。レオン様は、お客様のために、『特別な場所』でお待ちでございます。さあ、こちらへ」
私が彼女を屋上テラスへと導くと、そこには、昼間の殺風景な姿が嘘のような、幻想的な空間が広がっていた。
床には絨毯が敷かれ、テーブルには純白のクロスと銀の食器。無数のキャンドルが優しく揺らめき、テーブルの中央には、メアリさん特製の、チョコレートで『Will you marry me?』と芸術的に書かれたデザートプレートが鎮座している。
そして、その向こうには、息をのむような街の夜景と、満天の星空。
「わあ……! なに、ここ……夢みたい……!」
彼女は感激に声を震わせ、その先でタキシードに着替えたレオン様が、緊張の面持ちで立っていた。
「……来てくれたんだね」
「レオン……これ、全部……」
「君のために、紬さんたちが用意してくれたんだ」
レオン様は、私に一度、力強く頷くと彼女の前に進み出た。
そして、あの小さな木箱を震える手で開く。
「……君を、世界で一番、幸せにする。僕と、結婚してください!」
星空の下、指輪がキラリと輝いた。
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……はいっ! 喜んで……!」
抱き合う二人。
物陰からその様子を見守っていた私とアンナさん、メアリさんは、思わずもらい泣きしながら、盛大な拍手を送った。
(ちなみに、おじさんも物陰から号泣していた)
翌朝。
二人は、これ以上ないというほどの幸せそうな笑顔で、チェックアウトしていった。
「紬さん! 本当に、ありがとうございました! あなたは、僕の命の恩人です!」
「このご恩は、一生忘れません! 紬さんも、ぜひ私たちの結婚式に来てくださいね!」
遠ざかっていく二人の背中を見送りながら、私は心の底から温かい気持ちになった。
これだから、宿屋の仕事は辞められない。
「……ふん」
感動的な瞬間の後、フロントの隅から、いつもの不機嫌そうな声がした。
カインさんだ。彼は、いつものように手元の計算機(そろばん?)を叩き終えたところだった。
「……昨夜の臨時オペレーションコスト、推定150シルバー。従業員の残業代、備品の消耗費、食材費……。それに対して、あのカップルが支払ったのは、正規の宿泊代のみ。追加収益、ゼロ」
彼は私をキッと睨みつけた。
「……結果、宿としては、完全な赤字だ。経営者失格だな、君は」
その冷たい言葉とは裏腹に、私の耳に届いた彼の心の声は、かつてないほどに、混乱しきっていた。
(……赤字だ。理論上は、最悪の経営判断だ。……なのに、なんだ。昨夜のあの光景。幸せな顔をした客たち……)
(……くそっ、非合理だ! ……なのに、なぜか、胸が、熱い……)
カイン氏は、頭を抱えるようにして顔を伏せ、ぶるぶると小さく震えている。
その耳が、ほんのり赤くなっていることに、彼はまだ気づいていなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
一旦ここまでで連続投稿は止めさせていただきます!
この後も少し作成はしておりますが、またある程度出来次第投稿させていただきます!
その際はどうぞよろしくお願いします!
ちなみに、カインはいつまで木漏れ日の宿にいるんだろうなと書いてて作者の私ですら思ってしまいましたが、ああいう憎まれ役のキャラが昔から私は好きだったのが影響してるんだなと後から思いました(^^;;




