02『最も暗い夜にこそ、星は探しやすい。最も深い絶望にこそ、希望は生まれる』
神殿での日々は穏やかだった。
オリオンはアポロに、このアルカニア大陸のこと、禁域と呼ばれるこの森の危険性、そして女神アルテアの教えについて、ゆっくりと語って聞かせた。
神殿には、オリオンの他に、ハイエルフの民が数家族、人間と共に暮らしていた。最初にアポロに剣を向けたエルロンもその一人で、妻のアルテミスと共に神殿の警護を担っていた。彼らは最初こそアポロを警戒していたが、オリオンの取りなしと、アポロが静かに回復に努める姿を見て、少しずつ態度を軟化させていった。
「おきゃくさま、これ、あげる」
ある昼下がり、アポロが中庭で黙考に耽っていると、小さな手が彼の膝をつついた。見下ろすと、そこにいたのは、白百合のように可憐な、人間の少女だった。歳は五つか六つほど。銀色に近い金髪を揺らし、大きな碧眼でアポロをじっと見上げている。彼女の手には、摘んできたばかりの白い花が握られていた。
「…お嬢ちゃんは?」
「エステル! あのね、これ、聖域にしか咲かないお花なの。痛いの痛いの、飛んでけーって、お母様が」
少女、エステルは、たどたどしい言葉でそう言うと、アポロの包帯が巻かれた左目の近くに、そっと花を置いた。花の甘い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「客人に対し、礼を欠いて申し訳ありません。ありがとうエステル優しいのね。」
慌てて駆け寄ってきつつも、きちんとした礼を欠かさない、エステルによく似た、優美な佇まいの女性だった。オリオンの妻であり、エステルの母であるセレーネだ。
「いや…」
「この子は人見知りをしないもので…。さあ、エステル。お父様がお呼びですよ」
セレーネに手を引かれながら、エステルは何度もアポロを振り返り、小さく手を振った。その純真な笑顔に、アポロの胸の奥が、チクリと痛んだ。忘れてしまった自分にも、あんな風に笑いかけてくれる誰かがいたのだろうか。
「エステル様は、太陽のようだ」
ふと、背後から声がした。そこに立っていたのは、エルロンとアルテミスの息子である、エステルより少し年上に見えるハイエルフの少年、フィンだった。
「僕たち森の民は、人間をあまり信用しない。でも、オリオン様やセレーネ様、エステル様は別だ。彼らは、僕たちを同じ『家族』として見てくれる」
フィンの言葉には、幼いながらも強い信頼が込められていた。アポロは、この神殿が様々な種族にとっての聖域であることを、肌で感じていた。
だが、穏やかな日々は、アポロの心の空虚さをより際立たせるだけだった。
自分だけが、この世界の理から弾かれた異物。過去も未来もない、根無し草。その焦燥感は、夜ごと悪夢となって彼を苛んだ。
ある満月の夜、眠れずに神殿の聖壇にいたアポロに、オリオンが静かに声をかけた。
「眠れぬかね、アポロ」
「…オリオン様。俺は…俺は、何者なんでしょう。この手も、この身体も、戦うことしか知らないようだ。だが、何のために戦うのか、誰のために剣を…いや、銃を握るのか、何もわからない。空っぽのまま、ただ生きていることが、こんなにも苦しいとは…名をいただいて少しはマシになったのですが・・・」
アポロは、初めて心の内の絶望を吐露した。オリオンは、黙ってその言葉を受け止めていたが、やがて、夜空に輝く月を見上げながら言った。
「アポロ。君の親というか先人の受け売りになるかもしれんが、聞いてくれるかね」
「…親?」
「ああ。君と同じような絶望の淵で、それでも光を探そうとしていた、気高い魂の言葉だ」
オリオンはアポロの隻眼をまっすぐに見つめ、語り始めた。その声は、厳かで、力強かった。
「『最も暗い夜にこそ、星は探しやすい。最も深い絶望にこそ、希望は生まれる』…アポロ、絶望の中で己の良心と向き合え。過去や未来に惑わされるな。お前が何者であるかは、問題ではない。お前がこれから、何者になるかだ。その答えは、他人が与えるものではない。お前の内なる意識の心…魂に問いかけるのだ。そこに、普遍の価値基準となる、お前だけの答えがあるはずだ」
その言葉は、雷のようにアポロの魂を撃ち抜いた。
空っぽだと思っていた自分の中に、確かに存在する「何か」。良心、魂、あるいは意志。それに従い、これからの自分を創り上げていけばいい。
思えばこの世界に来たときから聴こえていたあの声だ。
「生きろ」と・・・




