第5話 その祈りに、神は宿るか
とても穏やかな気持ちで目が覚めた。
頭の中がすっかり晴れて、まるで夢のなかで掃除でもされたかのように、心が軽い。
(夢だった……また、あの子と街で遊んでた)
昨日の夢では、帝都の大通りを歩きながら、友達とたわいない話をしていた。
私はそこで「太陽の戦士になりたい」なんて言っていたっけ。
「赦されざる者が太陽の戦士になるなんて、前代未聞ね」
思わず苦笑いがこぼれた。
でも……あの男の子は、私の目が好きだって言ってくれた。
「選ばれたかどうかじゃなくて、どう生きるかが大事」――
あの言葉は、まだ胸の奥であたたかく響いている。
もし願いが叶うのなら、私は自由になりたい。
教会も、家族も、“赦されざる者”という呪いも、全部忘れて……のんびり夢だけ見ていられたら。
私は、それでいい。それだけで、いい。
カーテンを少し開けると、空がだんだん白んできた。
「エルドンさんの家に行かなくちゃ」
私は修道服に袖を通し、太陽の聖印を首にかけ、ベールを深くかぶった。
◇
教会の外は、氷の粒みたいな朝の空気で満ちていた。
息を吸い込むたび、肺の奥まで冷たさが染み込んでいく。
畑のあぜ道を歩き、小さな木の家がぽつぽつと並ぶ集落を抜ける。
エルドンさんの家は、確かここだったはず。
扉の前に立ち、そっとノックする。
「おはようございます。ローデリカです。祈りを捧げに参りました」
すぐに足音が近づき、扉が開いた。
「おはようさんです、シスターさん。来てくださって、ほんに嬉しゅうて……」
エルドンさんは笑顔で出迎えてくれた。
「はい。ご招待いただいて、ありがとうございます」
家の中は質素だけど、きちんと片付けられていて、ほのかに土の匂いがする。
居間の隣に、小さな部屋。そこに簡素な祭壇があった。
「ああ、あれが……」
「シスターさん。こっちがわたしの連れ合い、エルザですわ」
祭壇の前に座っていた女性が、深く頭を下げる。
私も礼を返し、祭壇に目をやった。
アウラの像。木製だけど丁寧に彫られていて、ぬくもりを感じる。
「このアウラ様のお像は……どなたが?」
「前の司祭さまが作ってくれたもんです」
なら、教義からの逸脱はないか…
「そうですか。素敵な像ですね。きっと立派な方だったんでしょう」
エルザさんは両手を合わせて静かに言った。
「あの方の言葉がのう、わしらには、神さまの声そのものやったんですわ」
「どんな言葉を残されたのですか?」
エルザさんは、少し懐かしそうな表情で答えた。
「“神が命じたのではなく、人が祈り続けたから、神はそこに居続ける”って……」
……これは。
「素晴らしいお言葉ですね」
言葉を選びながら、そう返した。
本来なら、明確に教義違反。
神の臨在は人間の祈りによって左右されるものではなく、教会の秘跡と典礼を通じて現れるべきもの。
けれど――
あの言葉を否定してしまうのは、今この場所ではあまりにも残酷だ。
「ところで……ラーヤ司祭は、そのお言葉をご存じなのでしょうか?」
「いえ、あの方はまだ日が浅いさかい……知らんかったんやろなと思います」
つまり、意図的に見逃しているわけではなかった。
けれど、このまま報告すれば……シド村の存在そのものが危うくなる。
(この村が、なくなる)
「……それでは、お祈りを始めましょうか」
私は静かに膝をつき、両手を組んだ。
「祝詞は、私が唱えます」
エルドン夫妻は緊張した面持ちで、黙ってうなずいた。
目を閉じ、息を整える。
「アウラの御名において祈る。
汝、暁を導きし光の母。
闇を祓い、大地に命を注ぎたまえし御方よ。
我ら、誓いと共に太陽の円に立つ。
この身、この心、すべてを日輪に捧げ、歩まん。
願わくば、アウラの加護が遍く在らんことを」
「アウラの加護があらんことを」
三人の声が重なった。
あたたかな光が、祭壇の窓から差し込んでいた。
「これで祈りは捧げられました。神に届いているはずです」
(……本当は、届いてない。教義的には不完全な祈り)
でも――彼らの瞳には、確かな信仰が宿っていた。
「こんなに心から祈れたの、何年ぶりじゃろか……ほんに、ありがとう、シスターさん」
「お力になれたなら、嬉しいです」
エルザさんが、じっと私の顔を見つめた。
「……あんた、前の司祭さまに、よう似ておいでですなぁ」
「……そう、ですか?」
「火の粉が降ろうが、病が流行ろうが……
“信仰を捨てなかった人々の祈りが、神の恵みを引き寄せ続けた”って、あの方は言ってた」
「病、ですか?」
「ええ。あれは、まだ皆が教会に集うてた頃のこと。
急に疫病が来てな、司祭さまが“集まるのはやめなされ”って……」
(そんな話、ラーヤ司祭からは聞いていない)
「教会に人が来ないのは、足腰が悪いから……と」
「それもあるでしょうけど、きっかけは疫病ですわな」
私は静かにうなずいた。
(……これも、記録しなきゃ)
その時、エルザさんの声がひそやかになった。
「……ローデリカさん。あんた、“赦されざる者”なんとちゃいますか?」
ドクンッと、心臓が跳ねた。
「……どうして、そう思われたんですか?」
エルドンさんがつぶやいた。
「昨日の雨で、ベールが濡れたとき……その、目の色が……蒼く見えたような」
しまった。油断していた。
これが広まれば、任務は即終了――いや、それだけでは済まない。
「どうか、このことは、心の中だけに留めてください」
私は深く頭を下げた。もはや、誤魔化す余地はなかった。
「……ええ、言いませんよ。
あんたが、赦されざる者やったとしても……私たちには、関係あらへん。
それに、あんたがここに来てくれて、祈ってくれて……ほんまに嬉しかったんや」
「そうや。赦されざる者にしてなお、祈りを捧げるあなたは……やはり、あの方に似ておいでです」
二人は私に向かって、深く手を合わせた。
◇
帰り道、私はずっと、俯いたままだった。
あの光の中で祈っていた二人の姿――
あれが、“神のいない場所”だったと、誰に言い切れる?
「……人々の信仰が、神の臨在を感じさせた」
そう思った瞬間、私の胸の奥で何かが揺れた。
私はベールを深くかぶり直し、少し速足で教会へ戻った。
【Tips:赦されざる者】
蒼い瞳を持つ者、すなわち太陽神アウラの加護を受けられなかった者に対する蔑称。
教会は彼らに対し、神職や教団関連の職業を禁じている。
信仰心の厚い者たちは「穢れた目」として軽蔑と憐憫を交えて扱う。
一方、多くの若年層はその存在すら知らず、無意識に差別を助長することもある。