第42話 月の舞踏
まだ夜も明けきらないうちに、私は目を覚ました。
帝都リステラの空は薄明るく、どこかで鳥たちがさえずりはじめている。
今日は……とても大切な日。それなのに、ぐっすり眠れたのが不思議だった。
ベッドから起き上がり、いつものように顔を洗い、髪をとかす。鏡の前の自分に、そっと微笑んだ。
「少し、髪が伸びたかも……そろそろ切らないとね」
昨日買った白と青のワンピースに袖を通す。仮面は三日月型、白い花の髪飾りは、巡礼者としての証。
そして、月の瞳はうまく陰に隠れていた。
――どこから見ても、ただの“普通の女の子”。
「……少し早すぎたかな」
着替えを終えたものの、手持ち無沙汰。仕方なく、私は早朝の街を歩くことにした。
◇
まだ朝霧の残るリステラの大通りには、屋台の準備をする人々の姿。仮面はしていても、顔のベールを外したまま外を歩くのはやっぱり緊張する。でも、みんな忙しそうで、誰も私のことなんて気にしていない。
きっと今日だけは、誰もが“誰でもない人”でいられる日なのだ。
私はひとり、リステラの街を歩き続ける。
でも、不思議と寂しさはなかった。ただ、なんでもない朝が、少しだけ特別に思えた。
気づけば、空がほんのり金色に染まり始めていた。
「そろそろ、ヒリンス様の拝見の時間ね」
私は足早に、ソル・アルカ大教会へ向かった。
◇
すでに教会前は人でぎゅうぎゅう詰め。
ちょっとジャンプしても、見えるのは人の頭ばかり。
――出遅れた。まぁ、声だけでも聞こえればいいか。
どこかの椅子に腰かけ、人々の熱気の中に身を預ける。
その時、太鼓の音が響き、拍手の波が押し寄せた。
始まった。
「照らされし我らが民よ。今こそ、影と共に祈りの時を迎えましょう……」
ヒリンス様の声が、鐘のように街へと響く。
その声に、ざわついていた空気が静まっていくのが分かる。
「名も、顔も、立場も忘れて、今日だけは“誰でもない自分”として――太陽と向き合いましょう」
彼女の言葉は、あたたかくて、力強かった。
拍手が雨のように降り注ぎ、人々は、誰が誰かも分からないまま、同じ方向を向いて祈っていた。
◇
演説が終わると、人々はぞろぞろと散っていく。
私もその流れに身をまかせながら、屋台をのぞいたり、演劇を見たり。帝国中の出店が集まり、まるで小さな巡礼の再現みたいだった。
「次は……もっとゆっくり旅してみたいなぁ」
ぽつりとこぼしながら、私は夕暮れの街を歩き続けた。
◇
そして――夜。
広場には大きな篝火が焚かれ、賑やかだった音楽も、落ち着いた旋律へと変わっていく。
(……夢と、同じ)
その瞬間だった。
視界の隅で、炎の中に“彼”を見つけた。
赤い髪に、黒と金の燕尾服。陽の仮面、そして……金の瞳。
レオン。
熱気の中でただ一人、太陽の残り火のように、静かにこちらを見ていた。
仮面越しに、目が合う。
なにも言わずに見つめてくる彼に、私はちょっとキツく言ってしまった。
「……なにか?」
「……あ、いや。綺麗だなって、思って」
え?
えええええええっ!?!?!?
「……そ、そう。じゃあ、見惚れるのは……ここまでにして」
(なにを言ってるの私ぃぃぃっ!?)
焦りすぎて、踵を返して逃げ出しそうになった――そのとき。
「待って!」
レオンの声に、ぴたりと足を止めた。
お願い、誰か勇気を……!
「……その、踊らない?」
鼓動が跳ね上がる。
「……私と? どうして?」
「理由なんて、今はなくていい。なんとなく、君と踊ってみたいって、そう思ったから」
音楽が、ふわりと変わった。
静かで、でも確かなリズムを刻む、祝祭の音。
私は、意を決して振り返った。
「……踊り、知らないわよ?」
「だったら、教える。ちょうどいいだろ?」
彼はそう言って、そっと手を差し出した。その指先が、かすかに震えているのを見て、私も自然と笑った。
手を取る。
温かくて、少し汗ばんでいて――でも、それがとても人間らしくて、嬉しかった。
◇
祭囃子が始まった。
彼の手が私の腰へ。私の手は彼の肩へ。
踏み出す、旋回する、ふわりとスカートが舞う。
何も知らなかったはずなのに、自然と足が合う。何度も一緒に踊ったように、私たちは一つのリズムを刻んでいた。
手拍子が広がっていく。まるで、広場全体が舞台になったみたい。
風が吹いた。
花びらが舞う。
赤と銀が重なり、そして離れる。また近づいて、見つめ合う。
レオンの赤髪が宙を舞い、私の“月”を照らす。
彼の瞳の奥に、私がいた。
音楽が速くなる。気づけば、距離が縮まっていた。
言葉もいらない。目を合わせるだけで、すべてが通じ合っていた。
最後の音が鳴った瞬間――
二人の動きが、ぴたりと止まる。
ただ、呼吸だけが、私たちをつないでいた。
◇
拍手が湧き上がる中、私はそっとレオンから身を離す。
そして、髪飾りの白い花を、彼の胸に残して。
「……ちょっと、待って」
レオンの手が、空をつかむ。
……ごめんね。でも、ありがとう。
この一瞬だけは、きっと永遠になる。
さようなら、レオン。
私は、どんな未来になろうとも、貴方を守る。
そう、決めたから。
彼の姿はもう見えない。だけど、夢にまで見た美しい記憶は、胸の中に灯っていた。
【Tips:英雄歴程(10枚目)】
予言者エル・セフィアが遺したとされる“失われたページ”。そこにはこう書かれていたという――
「蒼き瞳の罪を赦す者」
真偽は定かでない。




