第3話 巡礼者、静かな朝を歩む
夜明け前に、ふと目が覚めた。
夢は……見なかった。
少し残念かも。
ベッドから静かに起きて、窓のカーテンを開ける。
薄暗い空の下、森の木々がしんと立ち並び、冷たく澄んだ空気が肺をくすぐった。
(……穏やかな村)
こうしてひっそり暮らせたら、きっと幸せなんだろうな。
すべてを忘れて、誰にも見つからずに、静かに――
そのとき、ふと母の顔が頭に浮かんだ。
(あの人、今も泣いてるのかな)
……もう、笑った顔を思い出せない。
◇
あのときのことは、ずっと胸の奥に刺さっている。
――父の怒鳴り声。
――それにかぶさるようにかき消される、母のか細い声。
私は部屋の隅で膝を抱えて、ただただ耳をふさいでいた。
「ライラの髪は……私の家系にも、お前の家系にもいない! 銀など……蒼い瞳など……!」
「お願い……聞いて……! 私は……誓って……何もしていないの……!」
父の足音が、怒りと一緒に床を踏み鳴らしていた。
母は必死だった。でも、その声はどんどん震えていった。
私は、何もしていない。
ただ、生まれただけ。
なのに、なんでこんなに、苦しそうな声をさせてしまうの――?
『ごめんなさい』
言葉にならないその声が、胸の奥で何度も何度も反響していた。
◇
「……っ」
嫌なことを思い出してしまった。
孤児院に引き取られて、もう十年が経つ。
それでも、母のことは忘れられない。
元気でいてくれてたら、いいけど。
◇
朝の光が窓から差し込んできた。
鳥の声がかすかに聞こえる。
そろそろ、共同の祈りの時間だ。
私は修道服を身につけて、目元をベールで隠す。
首から太陽の聖印をかけ、静かに礼拝堂へ向かった。
◇
礼拝堂には、ラーヤ司祭がひとり、祈りを捧げていた。
私もそっと後ろの席に座り、手を合わせる。
(……あれ?)
共同の祈りの時間なのに、他に誰もいない。
年配の信徒が多い村だと聞いていたけど――
(おかしい……)
今まで多くの教会に潜入してきたけど、これは初めて。
教義の伝達が行われていない? それとも、礼拝軽視?
とにかく、司祭に話を聞いてみよう。
私は立ち上がり、祈るラーヤ司祭の肩にそっと触れた。
「おはようございます、ラーヤ司祭。祈祷中に失礼します。少し、伺いたいことがありまして」
ラーヤはゆっくり振り返り、やわらかな笑みを浮かべた。
「おはようさん、シスター・ローデリカ。……なんか聞きたいこと、あったんか?」
「はい。共同の祈りに、村の方々がいらしてないようですが……?」
「ああ、そのことかいな。えっとな……ここの村にはなぁ、足が悪かったり、体がしんどい人がようけおるんよ」
ラーヤは少しだけ困ったような顔をして、続けた。
「でもね、それだけは勘違いせんとってほしいんや。村の人ら、ちゃんと自分の家にアウラさまのお像を置いて、手ぇ合わせとるよ」
(……なるほど)
厳密には教義違反。
でも、合理的な事情があるなら、背信とは言い切れない。
ただ、この件は記録して報告しておいた方がいい。
「そうでしたか……納得しました。ありがとうございます」
「これもねぇ、先代の司祭が始めたことなんよ。すっかり村に根づいとるわ」
ラーヤはパンッと手を打って、声を弾ませた。
「さっ、朝ごはん食べて、ちゃっちゃと掃除と洗濯、やってしまおかねぇ!」
「はい、お手伝いします」
◇
朝食はパンと卵焼き、ハムとサラダ。
簡単だけど、誰かと一緒に食べると、不思議と温かい味がした。
◇
冬だから畑はやることがない、と思っていたけど……
甘かった。
霜が降りる前に土を整えたり、備えの作業が山ほどある。
「シスターにこんな土いじりさせるなんて……バ、罰が当たるんじゃねぇか?」
「い、いえ、これも信仰の務めですから」
村のおじいさん――エルドンさんが、心配そうに私を見ていた。
……いや、心配してるのは私じゃなくて、鍬の扱いが下手な私によって傷つけられる畑のほうかも。
ふと、聞いてみた。
「エルドンさんも、ご自宅で祈っておられるのですか?」
「ええ。かか(妻)の足が、もうだいぶ悪くてな」
彼は曲がった手を見せながら、淡々と語った。
「それに、わしのこの腕じゃ、もう重いもんも持てんのですわ。でもな、家のことは誰かがやらんとならんし……生きるってのは、そういうことやけんなぁ」
私は静かにうなずいた。
見渡すと、確かにこの村には高齢の人が多い。
足が悪い人、体に障がいがある人が目立つ。
子どもの姿も少しだけ見えたけど、保護者らしき人は……見当たらなかった。
「よければ、私が朝に伺います。一緒に祈りましょう」
「……ほんとに? ああ、ありがてぇ……助かります、シスター」
私が“正義”を振りかざせば、この人たちの生活は壊れる。
だからこそ、慎重に。
“誰かの祈り”を奪う権利が、自分にあるのかどうかを、見極めてからじゃなきゃ――
私は手にした鍬を、静かに振り下ろした。
【Tips:セルヴァリス】
ラメルダ州の州獣であり、伝説的な聖獣。
枝分かれした大きな角としなやかな体を持ち、人前にはほとんど現れない。
狩猟対象としても非常に難度が高く、見つけるだけでも幸運とされている。
八英雄ラメルダとの“七日間の死闘”は語り継がれる人気伝記となり、ソラリス帝国全土で愛読されている。