第32話 賢者の書斎
ウルサの街を後にして、旅馬車はゆっくりと西の交易路を進んでいた。最初は岩がごろごろした荒地だったが、少しずつ針葉樹が増えてきて、やがて一面の緑が広がる深い森へと景色が変わっていく。
夏の気配が近づいてきたこの季節、翡翠のような緑が太陽の光を浴びてキラキラと輝く。そんな森の先に、赤煉瓦の屋根がちらちらと見えはじめた。
その街の名は、――ソフィアリス。
八英雄のひとり、賢者メテウスが築いた「学問と秩序の都」だ。
空は真っ青で、北にはアルベド山脈の雪解け水が流れる。風は爽やかで、夏の入り口なのにひんやりと涼しい。
ステラヴィアみたいに無機質で堅苦しい雰囲気じゃない。温かくて、だけど凛としていて。なんだか心が静かに整っていくようだった。
「……よし、まずはメテウス様にご挨拶を。そのあと、図書館でのんびり読書でも……」
ううん、違う。その前にソル・リブレリア州教会でお祈りをしなきゃ。
そんなふうに小さく予定を立てながら、私は馬車の窓から目に映る景色を胸に刻んでいた。
◇
通りには知的な雰囲気を漂わせた人たちがカフェで討論――「ディスプテリウム」に興じていた。ご婦人も、子どもさえも、背筋がすっと伸びていて、落ち着いた目をしている。
なんだか、自分もちゃんとしなきゃって、無意識に背筋を伸ばして歩いていた。
教会と図書館が見えてきたとき、その巨大さに思わず息をのんだ。
街全体がまるで歴史の宝箱みたい。歩くだけで胸が高鳴って、目の前の世界に吸い込まれそうだった。
◇
教会に入ると、冷たい空気と静寂が心に染み渡る。
長椅子の列、説教壇、そして太陽神アウラの像。
私はいつも通り後ろの席に腰かけて、手を合わせ、高速で祝詞を唱え始めた――そのときだった。
「やあ、よく来たね。月の瞳の巡礼者さん。私の書斎においでよ。話をしようじゃないか」
耳元で、誰かが囁いた。
あわてて周囲を見回す。祈る信徒たち、神官たちの姿。声を発したような人はいない。
でも――。
私は自然と立ち上がっていた。行く先は、もちろん。
「……メテウス様の書斎」
心が引き寄せられるように、私は図書館へ向かって小走りになっていた。
◇
図書館の入り口には、八英雄の胸像が並んでいた。
私は、その多くと直接会って話をした。
けれど、今目にしている胸像――長い髪に、鋭い目。
賢者メテウスの像の前で、私は足を止めた。
緊張で喉がからからになる。今から話す相手は、帝国史上、最も偉大な知性の持ち主。
私なんかが、話をしていい相手なの……?
でも、私はメテウス様推し。
伝記は全部読んだ。論文も頑張って読んだ。
胸像の前を行ったり来たり、受付前で挙動不審。受付のお姉さんがこっちを見てる……!
い、いかなくちゃ……!
私は急いで名前を記入して、図書室の奥へと進んだ。
◇
本棚が連なる静かな空間。
白髪の受付の老紳士が私に笑顔を向ける。
「こんにちは。シスター。メテウスの書斎ですね?」
「はい、お願いします」
「何度かいらしてますね。メテウス様も喜んでおられますよ」
「……ありがとうございます」
心臓の鼓動がどんどん大きくなるのを感じながら、私は重たい木の扉を押して、中へと足を踏み入れた。
◇
小さくて、こぢんまりとした書斎。
でも、壁一面を覆う本の重みに、空気が静かに張りつめていた。
「いらっしゃい。こっちこっち」
声のする方を見ると、椅子の上に、紫色の光を放つフクロウがいた。
その大きな瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
「あなたは……メテウス様、ですか?」
「そうだよ、シスター・ローデリカ。私はメテウス。“賢者”と呼ばれていた者だ」
――!!!!
「わ、私のことを……知ってるんですか……!?」
「もちろん。キミ、ずっと私のこと調べてたじゃないか。受付に名前あったよ」
う、うわああああああああっ!!
やっぱり見られてたぁぁぁぁ!!!!
「“語りえぬものこそが、問うべき問いだ”――キミが言うと決まってて、かっこよかったね」
かああああっっ!!!
もう無理。私、ここで倒れる……。
「でも、ローデリカって偽名だよね? ノクタリカ州では聞かない名前だ」
「……わ、わたしはライラ=ロ=ノクタリカです!月の瞳の巡礼者です!」
「なるほど、ノクタリカ君の子孫か!はは、納得だ」
「ど、どうして私の出身が……」
「巡礼の証が六つ、アストラード州に入る直前。力仕事に慣れていない手、ガルガン州生まれじゃない。つまり、キミの出発地はノクタリカ州。見れば分かるさ」
さすが……。この短時間で私の出自まで見抜くなんて……。
私は、気を引き締めて、まっすぐ彼女を見た。
「私は、滅びの予言に立ち向かうために、ここまで来ました。メテウス様、どうかお力をお貸しください」
「――もちろん。でも……」
「……でも?」
「ただで渡すのもつまらない。私と遊戯をしよう。ディスプテリウム。“語りえぬ問い”の先へ、いっしょに踏み込んでみようじゃないか」
メテウスは翼を広げ、椅子から机にひらりと飛び降りた。
私に座るように促す。
「……わかりました。お相手いたします」
心は叫んでいた。
“やったぁぁぁあああ!!”
でも口元は、きゅっと真面目に。
脚は、尋常じゃないほどガクガク震えていたけれど。
【Tips:オオガラスフクロウ】
メテウス州の州獣。
黒い羽根を持ち、夜行性で高い知能を持つ。
「夜の賢者」とも呼ばれ、獲物を無音で狩る姿から、「洞察と観察の象徴」とされる。不正を見破る鋭い目を持つとも言われている。
【Tips:叡智の都ソフィアリス】
八英雄メテウスが築いた、ソラリス帝国随一の“知の都”。
遷都が行われなかった珍しい州都であり、知識と理性を象徴する建造物が多く立ち並ぶ。
裁判所、学問所、そして伝説の「メテウス大図書館」が所在する。
一方で、軍事面では弱く、八州中もっとも規模が小さい州軍を抱える。




