第2話 シド村、小さなほころび
ノクタリカ州の山を南に越えて、木々の茂る森の道を進んでいく。
揺れる馬車の中、私はしんしんと冷えた空気を頬に感じながら、じっと外を見ていた。
目指すは、ラメルダ州の西端にある小さな集落――シド村。
州都ファットーリアを経由して、そこからさらに馬車で移動しないといけない。
滞在予定は五日間。
本来なら安息週間だったはずなのに……この指令のせいで、完全にパーだ。
「……はぁ」
思わず、ため息が漏れる。
でも、もう慣れた。これが、私の“現実”なんだ。
◇
半分眠っているような、でも意識ははっきりしてるような……そんな不思議な感覚に包まれているうちに、馬車が止まった。
「到着です」
御者の声で顔を上げると、木造の門が目に入った。
ファットーリアだ。複雑な組み木で作られた城門に、水の張られた堀。
石造りの建物が多いノクタリカ州とは違い、木の香りとぬくもりが漂う街だ。
停留所で馬車を降りると、腰がギシリと悲鳴を上げた。
私は小さく伸びをして、すぐに次の馬車を探した。
見つけたのは、小ぶりな二輪の馬車。若い御者に太陽の聖印を見せると、すぐに乗車を許可された。
乗り心地は……まるで床に座ってるみたいで、正直つらい。
「……もう少しの我慢」
私はつぶやいて、静かに目を閉じた。
◇
森へと入ると、視界は緑一色に染まった。
置いていかれたら、きっと生きて帰れない。
そんなことを考えていたとき――
「おやまあ、シスターさん……見てごらんなさい。セルヴァリスですよ、めったに出んやつが」
御者の声に目を向けると、立派な角を生やした鹿が木々の間に立っていた。
「あれが……セルヴァリス」
ラメルダ州の州獣。慎重で、人前にはなかなか現れないと聞いていた。
「きっと、シスターさんが乗ってるからですよ。太陽さまの加護ですわ」
「そうかもしれませんね。ありがたいことです」
御者は手を合わせて祈っていた。
……ふふ、いい人。私の分まで祈ってくれたら助かるな。
馬車は揺れ続ける。日が落ちて、だんだんと空気も冷たくなってきた。
私は外套をきゅっと体に引き寄せて、小さく丸くなる。
◇
シド村に着いた頃には、辺りはすっかり夜の帳が下りていた。
村の中は静まり返っていて、聞こえるのは松明の燃える音だけ。
木造の家々がぽつぽつと並び、どこか懐かしいような香りがした。
畑と水路の間に、小さな教会がぽつんと建っているのが見えた。
私は扉を開け、そっと中に入った。
中では、若い女性の司祭が祝詞を唱えていた。
その後ろの席に静かに座って、私も手を合わせる。
(誰にも会わずにここまで来たけど……なんだか、少し不自然)
祝詞が終わったようなので、私は声をかけた。
「こんばんは、司祭様。私はローデリカと申します。巡礼中の修道女です」
これは、異端審問官としての“偽名”だ。
「まあ、こんな山奥までよう来はったなぁ。寒かったやろ」
振り向いた司祭は、笑顔の似合う快活な女性だった。
「私はラーヤって言います。シド村の教会で司祭をしとります」
「よろしくお願いします、ラーヤ司祭」
私は太陽の聖印を掲げて、丁寧に礼をした。
「五日間、こちらでお世話になります。……すみません、少し旅の疲れが出てしまって。客間をお借りしても?」
「もちろんやで、シスター・ローデリカ。ついてきてな」
ラーヤ司祭はにこやかに手招きして、客間へ案内してくれた。
部屋は、ベッドと机と暖炉だけの質素なつくり。
でも、木のぬくもりがあって、どこかほっとする空間だった。
「今日はゆっくり休んでなぁ」
そう言って、ラーヤは礼拝堂に戻っていった。
◇
カーテンを閉め、部屋に鍵をかける。
私はベールをはずして机に放り、太陽の聖印もその上に投げた。
「……ふぅ」
思わず、声が漏れた。
この解放感。
修道女という“仮面”を外して、ようやく息ができる。
背伸びをすると、背中がバキバキ鳴った。
(まだ、何もわかってない)
この村に背信の疑いがあるという通報があった。
でも、来てみたら静かで、穏やかで、まるで“平和”そのものだった。
司祭のラーヤも、優しそうな人だった。
でも――何度も見てきた。
“いい人”の裏に潜んでいた、恐ろしい真実を。
信用なんて、簡単にできない。
(……今日はもう寝よう)
私は修道服を脱ぎ、軽装に着替えると、ベッドに倒れ込むようにして寝転んだ。
こんなときは、夢を見よう。
夢の中なら、私にも居場所がある。
赦されなくても、愛されなくても――少なくとも、自由でいられる。
毛布にくるまって、目を閉じる。
今日は、どんな夢が見られるだろうか。
【Tips:ラメルダ州】
ソラリス帝国西部に広がる、森林と自然の州。
「ソラリスの肺」とも呼ばれ、豊かな自然と共に生きる文化を持つ。
紋章は鹿と角笛。木材や農作物の生産が盛んで、中央のアストラード州と交易関係にある。
【Tips:太陽の聖印】
ソル・アルカ教における“巡礼者の証”となる神聖な印章。
この印を持つ者は、帝国内の教会施設で祈りを捧げる資格を持ち、旅馬車の乗車や都市の門の通過も認められる。
ひたむきな信仰を持つ者に与えられるものであり、審問官が潜入調査を行う際の“身分偽装”にも使われることがある。