あの雨の日、俺は拾われたんだ
雨の匂いって、こんなに生々しかったっけ――。
びちゃびちゃに濡れた地面を、俺は小さな足でよたよたと歩いていた。草むらがチクチクする。しっぽの先がぴくりと跳ねるたび、水滴が飛び散るのがわかる。
自分が、自分じゃないような感覚。視界の端で揺れるのは、黒くて柔らかい――……耳? いや、待て、これは……。
「…………にゃ」
変な声が漏れる。俺が出したとは思えないほど、小さくて、情けない声。
身体が重い。冷たい。寒い。
それでも、動かなきゃって思った。理由はわからない。ただ、ここにいちゃいけない気がして――
その時だった。
視界の上から、すっと差し込む傘の影。
ふわりとした白い指先が、俺の小さな体を抱き上げた。
手のひらは温かくて、優しくて、どこか……懐かしい。
顔を上げると、そこには見慣れた――いや、どこかで見た気がする、派手な制服姿の少女。
濡れた前髪の隙間から、大きな瞳が俺を覗き込んでいた。
「…………」
少女は何も言わなかった。
ただ、柔らかく微笑んで、俺の体を胸元へと抱き寄せた。
心臓の音が、近くて、強くて。
まるで、どこかに帰ってきたような――そんな気がした。
•
ここから始まった。
俺の、“猫としての”生活が。
◆
「おーい、オタクー。今日も今日とて暗い顔してんじゃん?」
いつもの教室、いつもの席。
そして、いつものギャルの声――星川るか、だった。
茶髪のゆる巻き。きらきらのピアス。くっきりアイラインの奥で笑ってる目。
俺みたいな根暗からしたら、ギャルのテンプレみたいな女だ。というか、実際そうだ。
「アンタさ、マジで損してるって。せっかく同じクラスなんだから、もっとギャル活しよ?」
「……ギャル活ってなんだよ……」
「ほら、放課後プリとか? チルっとタピるとか? あと、ウチのこと“るかぴ”って呼んでいいから♡」
「絶対にイヤだ」
机をぐっと引き寄せて、視線をノートに落とす。るかは肩をすくめて、面白そうに笑った。
まるでこっちの拒否反応すら“ご褒美”だとでも思ってるような顔。
……めんどくせぇ。
るかに限らず、このクラスのギャルどもは基本テンションが高い。
「かわいいは正義☆」とか「キモいけどギリ許す〜」とか、会話に品がないし、距離感もおかしい。
誰にでも馴れ馴れしくて、誰にも本音を見せない。俺はそう思ってる。
だから俺は、るかの笑顔にも意味なんか見出さない。
そう決めてた。
•
放課後、空はやけに暗かった。
俺は傘を持ってなかったけど、わざわざ買う気もなかった。どうせ濡れたって、誰も困らない。
ポツポツと雨粒が制服に当たる。
家まで歩いて帰るだけの時間。傘もささずに、ただ黙って。
……俺の人生、ずっとこんな感じだ。
そんな風に思いながら、いつものように河川敷を通りかかった、その時だった。
――小さな、鳴き声が聞こえた。
雨脚が強くなるなか、俺は足を止めた。
「……今の、鳴き声か?」
ざらりとした風とともに、かすかに聞こえたそれは――間違いなく、猫の声だった。
草むらの奥。土手の下、コンクリートの縁にちんまりと、黒い塊がうずくまっていた。
一歩、二歩と近づく。
黒くて、小さくて、ずぶ濡れの体。呼吸も浅く、今にも消えそうな姿だった。
「捨て猫かよ……」
ふと、制服のポケットに手を突っ込んだが、タオルなんて入ってるはずもない。
スマホを出して調べようかと思ったその時――
「……にゃ」
その黒猫が、弱々しく鳴いた。
鳴かれた瞬間、俺の心がなぜかズキンとした。
――ああ、もう。放っておけねぇな。
自分で思って、ちょっとだけ驚いた。
そういうの、俺が一番しないタイプだと思ってたのに。
「おい、大丈夫か……?」
ゆっくりとしゃがみ、手を差し伸べる。
その時だった。
ピシャアアァッ――
突然、空を裂くような閃光が辺りを包んだ。
反射的に目を閉じた――つもりだった。でも、なぜか閉じられなかった。まぶたの裏が焼けつくほどの光。
その光の中で、ぐにゃりと、何かが歪んだ。
地面の感触が変わる。
手の平の感覚が消える。
全身を覆うような、ざらついた、何か――毛?
「っ……!?」
喉がひくついた。声を出そうとしたのに、出てこない。
いや、違う。――出たのは、俺の声じゃなかった。
「……にゃあ」
低く、小さく、猫の鳴き声。
次の瞬間、世界がずっと遠くなったような、足元から沈んでいくような感覚に襲われた。
視線を動かせば、見慣れたはずの風景が、やけに大きく見えた。
手を見る。いや、“手”じゃない。黒くて小さい――前足。
(……な、に……これ……)
身体を見渡す。
ふわふわの黒い毛に覆われている。足も耳も尻尾も、完全に――
(……猫、じゃん……)
頭の中が真っ白になる。いや、逆に妙に冷静な自分がいた。
こんなわけのわからない状況でも、現実逃避できないのが俺らしい。
ぬかるんだ地面に足を取られながら、なんとか起き上がろうとする。が、四本足の使い方がわからず、ぐしゃりと尻もち――いや、しっぽもちをついた。
(なんだこれ……意味わかんねぇ……っ)
しゃがみこむことすらまともにできない。体が重くて、バランスも取れない。
でも、もっと問題なのは――
(人間に……戻れるのか?)
その恐怖が、じわりと背筋を這った。
何が起きたのか、どうしてこんなことになったのか、まったくわからない。
ただ一つ、確かなのは。
この世界で、俺は――もう、“早坂ゆう”じゃない。
•
「……どしたの? こんなとこで」
その声が聞こえたのは、俺が動けずに固まっていた、まさにその時だった。
ヒールの音。水たまりを踏む軽い音。
そして、傘の下から見下ろす顔。
茶髪にゆる巻き。雨に濡れないようフードを深くかぶっていたけれど、見覚えのある顔だった。
星川るか、だった。
「わ、めっちゃ濡れてる……大丈夫?」
その声に、なんでか安心してしまいそうになる。
でも、すぐに思い出した。俺は今、“猫”だってことを。
にゃあと鳴くしかできない。名乗ることも、拒否することもできない。
そんな俺に、るかは微笑んだ。
「……よし。拾い決定♡」
そう言って、俺の体を、ふわりと抱き上げた。
びくりとする。思わず、体が強ばる。
だけど、彼女の胸元は温かくて――
その鼓動の音は、雨よりも優しく響いていた。
・
「うっわ〜……ほんっとにベチャベチャじゃん、かわいそ〜」
柔らかく、けれど手際よく、俺の体はタオルで包まれた。
すっかり冷えきっていた黒猫ボディが、少しずつ温かくなっていく。
というか……。
(いやいやいやいや! ちょっ、待て、待ってくれ!?)
狭い風呂場、湯気の立ち込める空間。
その中心で、星川るか――ギャル中のギャルが、全裸にエプロンみたいな姿で俺をゴシゴシしていた。
「お風呂入れなきゃ風邪ひくもんねー。……あれ? しっぽめっちゃピンってなってる。緊張してんの〜? ふふっ」
(するだろうがッ! そっちは裸で、こっちは猫だぞ!?)
ちがう。裸の問題じゃない。
いや、裸だけど。問題は、俺の心だ。魂だ。
「よーし、きれいにしようね〜。まずはおしりから、ぬるっといきますっ!」
(やめろやめろやめろやめろぉおお!!)
さっきからずっと羞恥心が限界突破してる。
たぶん人間だったら、顔真っ赤どころか過呼吸でぶっ倒れてた。
でも、猫の体ってズルい。表情も赤面もないから、感情が隠せてしまう。
るかは俺の肉球をぷにぷに触ったり、体の匂いをくんくん嗅いだりと、やりたい放題だった。
「……ふふ。なんかさ、初めて会った気がしないんだよね〜。不思議だね?」
(それ、俺が言いたいセリフだよ……)
心の中でツッコミを入れながら、されるがまま。
しかもるかの顔が近い。めちゃくちゃいい匂いがする。シャンプーの香り。ミルクの匂い。ちょっとだけ、泣きたくなるような、あったかい匂いだった。
•
風呂あがり、ふわふわのバスタオルで体を包まれ、そのままドライヤーへ。
るかの膝の上に乗せられて、耳を乾かされる。
(女の膝って……柔らか……)
いや、考えるな。考えたら終わりだ。
これは猫なんだ。マッサージとか、愛撫とか、ぜんぶペットに対するそれなんだ。
「よし、完成っ☆ めっちゃふわふわ〜〜! ぬいぐるみみたいじゃん♡」
るかが顔を近づけて、俺の頬にスリスリと頬擦りしてくる。
そのたびに、体がカッと熱くなる。
「なあに、恥ずかしいの? かわい〜」
(ちがう、俺は猫じゃねえええええ!!)
心の中では叫んでいるのに、口から出るのは「にゃ……」という間の抜けた鳴き声。
このどうしようもないギャップが、俺の理性をどんどん削っていく。
•
「さてと、ごはん食べたら、寝よっか?」
いつの間にか夜になっていた。
ホットミルクと、ちゅ〜るらしきものを小皿に用意してくれるるか。
……ちゅ〜るはうまかった。悔しいけど認める。
「ふふ。ゆうくん、食べるの上手〜。えらいえらい♡」
その声にびくっとなった。
(……今、なんて?)
「ゆうくん」――そう聞こえた。俺の名前。
たまたまか? 偶然なのか?
「ウチ、猫飼うの初めてなんだ〜。でもさ、なんか変な感じ。はじめてなのに、全然こわくないし」
るかがそう言いながら、俺の頭をぽんぽんと撫でた。
その仕草が、なんか……妙に、懐かしかった。
――いや、気のせいか?
(いや、名前の件は……まさかな……)
思考の中、再びスリスリと頬を寄せてくるるか。
その唇が、ちょっとだけ俺の耳に当たって、変な電気が走った。
「これから、いっぱい仲良くしよーね?」
その声は甘くて、優しくて、どこまでも無邪気だった。
俺はただ「にゃあ」と鳴くことしかできず――
その夜、るかの腕の中、俺は初めて「ペット」として眠った。
•
ベッドの隣には、ぬいぐるみと並んで、小さな猫のストラップが置かれていた。
雨の日に落として、泣きながら探してたあの時のように――
でも、今の俺はそれに気づけなかった。
ただ、少しだけ。
何かがおかしい。そう思ったのは、確かだった。
・
翌朝、目覚めた時には、もう彼女の腕の中だった。
るかの寝息が、近い。
すぐ隣でスヤスヤ眠っている彼女の胸元に、俺の頭がすっぽり埋まっていた。
(……近すぎるって)
しかもその胸、柔らかすぎる。猫の体でも分かるくらいに。
温かくて、ほんのり甘い匂いがして、触れるたびにこっちの思考がバグる。
もがいて抜け出そうとしても、猫の腕力じゃ微動だにできない。
俺はただ、朝っぱらから人間としての理性の試練に晒されることになった。
「ん……おはよ、ゆうくん……」
(……え?)
彼女が、寝ぼけた声で呟いた。
「ゆうくん……好き……」
俺の中で何かがカチッと鳴った。
(な、なんで、俺の名前を……!?)
偶然だ、と思いたかった。
でも“ゆう”という名前は、そんなにありふれてない。
ましてや、拾ったばかりの猫に「ゆうくん」と呼びかけるなんて、あまりにも――
(まさか……バレてる?)
一瞬、冷たい汗が流れた。
が、次の瞬間、彼女はムクリと起き上がり、あくびをしながら言った。
「……あっ、名前まだ決めてなかったわ。うーん、どしよっかなー」
(……は?)
「なんかさー、黒くてシュッとしてるから、“クロ”とか“くろべぇ”とか考えたんだけどー……」
(……うん、それでいいんじゃないか? マジで)
「でも……ウチ、ずっと好きだった名前があるんだよねー」
そう言って、るかは俺の頭を撫でた。
その目は、どこか遠くを見ていた。
「“ゆうくん”っていうんだ。なんかね、やさしくて、ちょっとすぐいじけるけど……でも、ウチの宝物、って感じ」
(…………)
喉がつまる。
言葉を返せないのが、もどかしい。
なんでそんなこと知ってるのか、問いただしたい。
でも俺は猫で、彼女は人間で――この壁は、触れるほどに分厚くなる。
「ってことで、君の名前は“ゆうくん”に決定っ☆」
ぱちん、と指を鳴らし、るかは無邪気に笑った。
その顔があまりにも自然すぎて、“何も知らない”ように見えた。
……いや。
あれは“知ってて、何も言ってない顔”だ。
でも、そんな疑念を抱いた次の瞬間、俺の頬に彼女の指がそっと触れた。
「ウチさ、猫と暮らすの、夢だったんだ〜。かわいい彼氏とね?」
彼女の言葉に、体がぴくっと震えた。
「……って言っても、彼氏は猫になったりしないか〜〜、あはは」
るかはそう言って笑う。でも、その笑顔の裏側に何があるのか――見えない。
(……本当に、何も知らないのか? それとも……)
答えは、どこにもなかった。
あるのは、胸の奥に引っかかる違和感と、妙な懐かしさだけ。
•
夜。窓辺に座って外を見た。
雨のにおいはもう消えて、夏の夜風がカーテンを揺らしている。
その下、机の上に転がっているのは、小さな猫のストラップ。
どこかで見たような気がする。誰かが大切にしていたもの。……そんな気がする。
でも、はっきりとは思い出せない。
(もしかして、俺たち……)
ふと、そんな言葉が浮かびかけて、やめた。
そんな都合よく、物語みたいな運命があるわけがない。
るかはただ、偶然俺を拾って、偶然名前が一致しただけ。
そう、偶然だ。全部、偶然なんだ。
(……だよな?)
なのに、なぜか背中にひやりとした風が通った。
まるで、見えない何かが、すぐそばにいるような。
そんな夜だった。
・
「ふふ〜ん、今日はスペシャルマッサージの時間で〜す♡」
ソファの上、俺はひっくり返されていた。
腹、耳、しっぽの付け根――指先がやたらと器用にツボを押さえてくる。
こちとら猫になってるとはいえ、中身は高校男子である。理性の残りライフが風前の灯火。
(あっ、そこは……変なとこ感じる……!)
「ゆうくんってば、ほんっと敏感だね〜♡ あっ、こことか……」
スッと指が喉元をなぞると、勝手に「ぐるにゃっ」て情けない音が漏れる。
くそ……この体、反応しすぎだろ……。
「ん〜……にしても、アンタほんと不思議な子だよねぇ」
るかがマッサージをやめ、ぽふっと俺の体に覆いかぶさる。
その距離、ゼロ。
彼女の柔らかい髪がふわりと顔にかかって、体温がじかに伝わってくる。
「初対面なのに、なんか懐かしいっていうか。……てか、ウチのこと、最初から知ってた感じがするんだよね」
(ドキッ)
「ん〜、気のせいかな? でも……ふしぎ。たぶんさ、ウチ、アンタのこと……前から知ってたんだと思う」
囁くようなその声が、耳の奥に染み込む。
その瞳が、まっすぐ俺を見ていて――猫の仮面じゃ隠しきれない、何かが、心の奥を揺らす。
「……そういえばね、ウチ、昔ひとりで泣いてたことあったの。河川敷でさ」
突然、るかがぽつりと語り出した。
「小学校の時だったかな。猫のストラップ、落としてさ。お気に入りだったのに、どこ探しても見つかんなくて……で、泣いてたの」
その横顔は、いつものギャルのノリとはかけ離れていて、やけに静かだった。
「そしたら、男の子が来てくれたの。『一緒に探してやるよ』って」
(……!)
俺の中で、なにかがカチリと噛み合った。
その光景、俺は知ってる。忘れてたけど――確かに“いた”んだ。あのとき、俺はその場に。
「すごい意地っぱりで、でも優しくてさ。名前、聞きそびれちゃったけど……その時から、忘れられなかったんだよね」
るかは静かに笑っていた。
あのストラップを、今も大事にしていた理由。それが、今ようやく繋がる。
(じゃあ、やっぱり……るかは、俺のことを――)
「……でね、その子の名前、後から聞いたの。高校で再会して、クラス名簿見て、やっとわかった」
(えっ?)
「“早坂ゆう”って言うんだって。すごいでしょ、運命みたいじゃん?」
るかは照れたように笑って、俺の額にキスを落とす。
「だから、ウチはアンタに“ゆうくん”って名づけたの。忘れないように。……いや、もう忘れられないけど、ね」
俺の心臓が、バクンと跳ねた。
それは、喜びとか感動とか、そういうものではなかった。
言いようのない緊張感。
足元からゆっくりと冷たい水がせり上がってくるような――そんな、妙な恐怖。
•
その夜、彼女は俺を腕に抱き、静かに寝息を立てた。
白い指先が、胸の上でゆるく動く。
その寝顔はとても穏やかで、純粋で、まるで――
(……あれ?)
不意に、彼女の笑顔が、どこか“完璧すぎる”ように見えた。
違和感。
いや、違う。これは――既視感?
なぜだろう。俺はずっと、何か大切なことを、見落としている気がした。
でもその答えは、猫の姿のままでは、どうしても届かなかった。
――そして、俺はまだ気づいていない。
この全ての“出会い”は、偶然なんかじゃなかったことに。
•
「ゆうくんが……いなくなったの」
その声を聞いた瞬間、俺の時間が止まった気がした。
るかの部屋。
テレビはつけっぱなしだったが、音は消されていた。
薄暗い部屋の中、無音の画面に字幕だけが流れている。
【高校生男子行方不明】
【最終目撃地点:河川敷】
【黒髪/メガネ/制服姿】
見慣れた、俺の顔写真。
制服姿のそれが、世間から“失踪者”として扱われているのが、なんだか遠い世界の話のようだった。
「……先生も、警察も……みんな、心配してて」
るかは俺を膝に乗せたまま、ぽつぽつと話していた。
その手はいつもより少しだけ、強く俺を撫でていた。
「だけどさ、ウチは……わかるよ」
俺の体がピクリと反応する。
「だって、ここにいるもん。……ウチの“ゆうくん”が」
抱きしめられる。柔らかく、でもしがみつくような強さだった。
俺は――何も言えなかった。
喉から出たのは、やっぱりただの「にゃあ」という鳴き声だけで。
•
その夜。
ベッドの中、るかは眠った。
目元に残る涙の跡が、かすかに月明かりに濡れている。
俺はそっとその胸元から抜け出して、窓辺へ移動した。
夜風がカーテンを揺らし、少しだけ涼しい空気が部屋に入り込む。
(……俺、どうしてこうなったんだっけ)
人間に戻る方法も、理由も、何もわからない。
でも不思議と、焦りはなかった。むしろ、どこか納得している自分がいた。
ギャルが嫌いだった。
うるさくて、軽くて、何を考えてるかわからないから。
でも今、すぐ後ろで眠っている彼女は――とても、あたたかい。
(俺は……ただ、見た目だけで判断してただけなんじゃないか)
たったそれだけのことに、ようやく気づいた。
馬鹿みたいだ。そう思ったら、少しだけ笑えてきた。
彼女は俺を見つけて、助けて、名前をつけてくれた。
それが偶然だとしても、運命だとしても――
今の俺は、その名前を大事にしたいと思った。
•
翌朝。
「おっはよ〜、ゆうくん♡」
昨日の泣き顔が嘘みたいに明るくて、まるで何事もなかったかのように抱きしめてくる。
「今日もウチ、頑張って学校行ってくるね! ゆうくんはおうち守ってて?」
俺は「にゃあ」と短く鳴いた。
るかは嬉しそうに笑って、俺の額にキスを落とす。
「……いい子。ウチのかわいい、ゆうくん♡」
彼女の言葉が、胸に染みた。
もしかしたら、このままずっと人間に戻れないかもしれない。
でも、それでも――いいと思えた。
彼女のそばにいるだけで、胸の奥があたたかくなる。
それだけで、十分だった。
(俺は、ここにいる。彼女のとなりに)
小さく喉を鳴らしながら、俺は再度彼女のもとへ向かった。
そして、静かにその体に寄り添う。
こうして、俺と彼女の生活が、またひとつ続いていく。
・
それから数日後。
朝、るかはいつものように目を覚まし、
俺に「おはよ〜、ゆうくん♡」と声をかける。
カーテンを開けた窓からは夏の日差しが差し込んで、
部屋の中をあたたかな光で包んでいた。
「今日は〜、ちゅ〜るの新しいやつがあるんだよ〜」
るかが袋をカサカサと鳴らすと、自然と俺のしっぽが反応する。
やめてくれ。情けないことに、もうこの体が完全に猫仕様だ。
けれど、それが嫌ではなかった。
彼女の笑顔と、柔らかな手のひらが、いつだって隣にある――
その事実だけで、俺の世界は、充分すぎるほど満たされていた。
•
「ねえ、ゆうくん。ウチね、最近すごく幸せなんだよ」
るかがそんなことを言いながら、ソファに腰を下ろす。
俺はその膝の上に乗って、ゴロゴロと喉を鳴らす。
「学校ってさ、めんどいし疲れることも多いけど……でも、おうち帰ってくると、ゆうくんがいるってだけで、救われるっていうか〜」
彼女は俺の耳の後ろをくすぐるように撫でて、くすりと笑った。
「……ちょっと、ズルいよね。ウチばっかり癒されてる気がする」
そんなことない、と言いたかった。
けれど、俺は「にゃ」としか言えなくて、だから代わりに彼女の指に顔をすり寄せた。
「……ふふ、ありがと」
小さな声で、そう囁いてくれる。
この部屋には、もう他に何もいらない。
たぶん、俺も彼女も、それを分かっていた。
•
夜。布団の中。
彼女の腕に包まれながら、俺は目を閉じる。
彼女の心臓の音が、規則正しく響いてくる。
俺は思う。
(ギャルって、うるさくて軽い存在だと思ってた)
(でも――)
見た目で決めつけていた俺が馬鹿だった。
誰よりもまっすぐで、誰よりも優しくて、誰よりも……強くて。
(こんなふうに誰かの隣で、何も考えず眠れるのって……)
初めてかもしれない。
彼女が俺を見つけてくれて、本当に良かった――
心の底から、そう思っていた。
•
やがて部屋は静かになり、
カーテンの隙間から差し込む月光だけが、彼女の寝顔を照らしていた。
俺はそのぬくもりに寄り添ったまま、
そっと目を閉じた。
•
そして――物語は、静かに終わる。
……かに、思われた。
◆
時は、あの日より少し前に遡る。
・
空は重たく曇り、遠くのほうで雷鳴が鳴っていた。
まだ雨は降っていないのに、湿った風が、少女の長い髪をゆらりと揺らしていた。
河川敷の斜面に、星川るかはひとり、膝を抱えて座っていた。
いつものギャルっぽい口調も、明るい笑顔も、そこにはなかった。
ただ、伏せた瞳と、薄く震える指先だけが、その感情を物語っていた。
「……なんなの、あれ」
誰に言うでもなく、吐き出すように呟く。
「ウチが、からかってたのにさ。なんで……なんで、他の子までオタクいじりとか言って真似し始めてんの」
つい先日。
彼女の仲間たちが、クラスの男子――早坂ゆうに対して、面白半分でちょっかいを出し始めた。
「星川の好みって、意外と地味メン系〜?」
「じゃあウチも“ゆうくん”って呼んじゃおっかな〜♡」
笑いながら言われたその言葉に、るかは表情を保つのがやっとだった。
「やめてよ……ウチだけの、ゆうくんなのに……」
声が震える。爪が、草を掴むようにして土を引っかいた。
「誰にも渡したくない……あの子は、ウチのもんなんだよ……」
その時だった。
風が変わった。
誰もいないはずの河川敷。
そこに、ふわりと舞うように現れた白い影があった。
風にそよぐ純白のワンピース。年齢不詳の少女のような容姿。
けれどその目は、何かを全て見透かすように澄んでいた。
「……恋って、難しいわよね」
突然の言葉に、るかは目を見開いた。
「誰……?」
「私は“愛の女神”よ。名前なんて、どうでもいいでしょう?」
そう言って、女は芝の上に座り込んだるかの隣に膝をついた。
「……あなた、好きな人に素直になれないのね。からかうことでしか近づけなくて、気づけば他の子まで巻き込んでしまった」
るかは何も言えず、唇を噛むようにうつむいた。
「でも安心して。私、あなたみたいな子を見ると放っておけないの。――ねえ、願い事、叶えてあげましょうか?」
女神の目は優しかった。まるで、純粋に“恋の手助けをしたい”と願うような。
「ふたりがちゃんと向き合えるように、素直になれるチャンスをあげるわ」
その言葉に、るかは一度だけ、ふっと笑った。
どこか壊れかけた、かすれた笑みだった。
「じゃあ……彼を、猫にして」
女神のまばたきが止まった。
「……え?」
「猫にして。この河川敷に捨てて。そしたらウチが拾う。そばにいられる。誰にも渡らない。飼い主とペットなら、ずっと一緒だもん」
その言葉に、女神は一瞬だけ――本当に、一瞬だけ、絶句した。
「……あなた、正気?」
るかは静かに微笑んだ。
その笑顔は、優しく、でも――どこか歪んでいた。
「好きすぎるだけだよ」
風が止む。
女神はしばらく何も言わず、じっとるかを見つめていた。
そして、肩をすくめるようにして、小さくため息をついた。
「……いいわ。面白そうだし」
「……ほんと?」
「でも、代償はあるわよ。彼は、もう人間には戻れない。……それでもいいのね?」
るかは答えなかった。ただ、頷いた。
「じゃあ――次の雨の日。またこの場所に来なさい」
女神は、空を見上げる。
「そのとき、猫になった彼が、この河川敷に捨てられているわ」
「……わかった」
「忠告しておくけど、これは“愛”じゃない。“執着”って言うのよ」
「ふーん。じゃあ、執着でいい」
女神はまた少しだけ笑った。そして、言葉を残し、霧のように姿を消した。
「……ほんとに困った子ね。――でも、そういう恋も、案外長く続くのかもしれないわね」
•
数日後――雨。
空の色は灰色で、あの日と同じ。
るかは傘を差して河川敷に現れた。
草むらの中、黒く濡れた毛並みを震わせている、小さな猫。
「……迎えに来たよ」
そっと抱き上げ、胸に抱きしめる。
「これで、ずっと一緒。ね、ゆうくん♡」
少女の声は甘く優しく、
その腕の中で眠る黒猫は、小さく喉を鳴らした。
物語は――この瞬間から、始まった。
・
その日を境に、
一匹の黒猫と、一人の少女が暮らす家があった。
ふたりだけの、秘密の生活。
それはとても静かで、とても優しくて――
誰にも壊せない、永遠の愛のかたちだった。
【完】
最後まで読んでくださった皆さま、ありがとうございました!
後半ちょっと……いや、けっこう急ぎ足だったかもしれません(泣)
本当は「まさかのメンヘラギャルかよ!」って読者が思わずザワつく展開を目指してたんですが、
やっぱり伏線って難しいですね……まだまだ実力不足です!
この話を書こうと思ったきっかけは、猫とギャルとメンヘラ――
いやまあ、作者の記憶のどこかに「メンヘラちゃんとの淡い思い出」があったのかも?しれません(遠い目)
ともあれ、楽しんでもらえてたら嬉しいです!
これからも精進していきます!感想とかくれたら泣いて喜びます!