表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

あの雨の日、俺は拾われたんだ

作者: きなこもち




雨の匂いって、こんなに生々しかったっけ――。


びちゃびちゃに濡れた地面を、俺は小さな足でよたよたと歩いていた。草むらがチクチクする。しっぽの先がぴくりと跳ねるたび、水滴が飛び散るのがわかる。

自分が、自分じゃないような感覚。視界の端で揺れるのは、黒くて柔らかい――……耳? いや、待て、これは……。


「…………にゃ」


変な声が漏れる。俺が出したとは思えないほど、小さくて、情けない声。


身体が重い。冷たい。寒い。

それでも、動かなきゃって思った。理由はわからない。ただ、ここにいちゃいけない気がして――


その時だった。


視界の上から、すっと差し込む傘の影。

ふわりとした白い指先が、俺の小さな体を抱き上げた。

手のひらは温かくて、優しくて、どこか……懐かしい。


顔を上げると、そこには見慣れた――いや、どこかで見た気がする、派手な制服姿の少女。

濡れた前髪の隙間から、大きな瞳が俺を覗き込んでいた。


「…………」


少女は何も言わなかった。

ただ、柔らかく微笑んで、俺の体を胸元へと抱き寄せた。


心臓の音が、近くて、強くて。

まるで、どこかに帰ってきたような――そんな気がした。



ここから始まった。

俺の、“猫としての”生活が。




「おーい、オタクー。今日も今日とて暗い顔してんじゃん?」


いつもの教室、いつもの席。

そして、いつものギャルの声――星川るか、だった。


茶髪のゆる巻き。きらきらのピアス。くっきりアイラインの奥で笑ってる目。

俺みたいな根暗からしたら、ギャルのテンプレみたいな女だ。というか、実際そうだ。


「アンタさ、マジで損してるって。せっかく同じクラスなんだから、もっとギャル活しよ?」


「……ギャル活ってなんだよ……」


「ほら、放課後プリとか? チルっとタピるとか? あと、ウチのこと“るかぴ”って呼んでいいから♡」


「絶対にイヤだ」


机をぐっと引き寄せて、視線をノートに落とす。るかは肩をすくめて、面白そうに笑った。

まるでこっちの拒否反応すら“ご褒美”だとでも思ってるような顔。


……めんどくせぇ。


るかに限らず、このクラスのギャルどもは基本テンションが高い。

「かわいいは正義☆」とか「キモいけどギリ許す〜」とか、会話に品がないし、距離感もおかしい。

誰にでも馴れ馴れしくて、誰にも本音を見せない。俺はそう思ってる。


だから俺は、るかの笑顔にも意味なんか見出さない。


そう決めてた。



放課後、空はやけに暗かった。

俺は傘を持ってなかったけど、わざわざ買う気もなかった。どうせ濡れたって、誰も困らない。


ポツポツと雨粒が制服に当たる。

家まで歩いて帰るだけの時間。傘もささずに、ただ黙って。


……俺の人生、ずっとこんな感じだ。


そんな風に思いながら、いつものように河川敷を通りかかった、その時だった。


――小さな、鳴き声が聞こえた。


雨脚が強くなるなか、俺は足を止めた。


「……今の、鳴き声か?」


ざらりとした風とともに、かすかに聞こえたそれは――間違いなく、猫の声だった。

草むらの奥。土手の下、コンクリートの縁にちんまりと、黒い塊がうずくまっていた。


一歩、二歩と近づく。

黒くて、小さくて、ずぶ濡れの体。呼吸も浅く、今にも消えそうな姿だった。


「捨て猫かよ……」


ふと、制服のポケットに手を突っ込んだが、タオルなんて入ってるはずもない。

スマホを出して調べようかと思ったその時――


「……にゃ」


その黒猫が、弱々しく鳴いた。

鳴かれた瞬間、俺の心がなぜかズキンとした。


――ああ、もう。放っておけねぇな。


自分で思って、ちょっとだけ驚いた。

そういうの、俺が一番しないタイプだと思ってたのに。


「おい、大丈夫か……?」


ゆっくりとしゃがみ、手を差し伸べる。

その時だった。


ピシャアアァッ――


突然、空を裂くような閃光が辺りを包んだ。

反射的に目を閉じた――つもりだった。でも、なぜか閉じられなかった。まぶたの裏が焼けつくほどの光。


その光の中で、ぐにゃりと、何かが歪んだ。


地面の感触が変わる。

手の平の感覚が消える。

全身を覆うような、ざらついた、何か――毛? 


「っ……!?」


喉がひくついた。声を出そうとしたのに、出てこない。


いや、違う。――出たのは、俺の声じゃなかった。


「……にゃあ」


低く、小さく、猫の鳴き声。


次の瞬間、世界がずっと遠くなったような、足元から沈んでいくような感覚に襲われた。


視線を動かせば、見慣れたはずの風景が、やけに大きく見えた。

手を見る。いや、“手”じゃない。黒くて小さい――前足。


(……な、に……これ……)


身体を見渡す。

ふわふわの黒い毛に覆われている。足も耳も尻尾も、完全に――


(……猫、じゃん……)


頭の中が真っ白になる。いや、逆に妙に冷静な自分がいた。

こんなわけのわからない状況でも、現実逃避できないのが俺らしい。


ぬかるんだ地面に足を取られながら、なんとか起き上がろうとする。が、四本足の使い方がわからず、ぐしゃりと尻もち――いや、しっぽもちをついた。


(なんだこれ……意味わかんねぇ……っ)


しゃがみこむことすらまともにできない。体が重くて、バランスも取れない。

でも、もっと問題なのは――


(人間に……戻れるのか?)


その恐怖が、じわりと背筋を這った。


何が起きたのか、どうしてこんなことになったのか、まったくわからない。

ただ一つ、確かなのは。


この世界で、俺は――もう、“早坂ゆう”じゃない。



「……どしたの? こんなとこで」


その声が聞こえたのは、俺が動けずに固まっていた、まさにその時だった。


ヒールの音。水たまりを踏む軽い音。

そして、傘の下から見下ろす顔。


茶髪にゆる巻き。雨に濡れないようフードを深くかぶっていたけれど、見覚えのある顔だった。


星川るか、だった。


「わ、めっちゃ濡れてる……大丈夫?」


その声に、なんでか安心してしまいそうになる。

でも、すぐに思い出した。俺は今、“猫”だってことを。


にゃあと鳴くしかできない。名乗ることも、拒否することもできない。


そんな俺に、るかは微笑んだ。


「……よし。拾い決定♡」


そう言って、俺の体を、ふわりと抱き上げた。


びくりとする。思わず、体が強ばる。


だけど、彼女の胸元は温かくて――

その鼓動の音は、雨よりも優しく響いていた。

 


「うっわ〜……ほんっとにベチャベチャじゃん、かわいそ〜」


柔らかく、けれど手際よく、俺の体はタオルで包まれた。

すっかり冷えきっていた黒猫ボディが、少しずつ温かくなっていく。


というか……。


(いやいやいやいや! ちょっ、待て、待ってくれ!?)


狭い風呂場、湯気の立ち込める空間。

その中心で、星川るか――ギャル中のギャルが、全裸にエプロンみたいな姿で俺をゴシゴシしていた。


「お風呂入れなきゃ風邪ひくもんねー。……あれ? しっぽめっちゃピンってなってる。緊張してんの〜? ふふっ」


(するだろうがッ! そっちは裸で、こっちは猫だぞ!?)


ちがう。裸の問題じゃない。

いや、裸だけど。問題は、俺の心だ。魂だ。


「よーし、きれいにしようね〜。まずはおしりから、ぬるっといきますっ!」


(やめろやめろやめろやめろぉおお!!)


さっきからずっと羞恥心が限界突破してる。

たぶん人間だったら、顔真っ赤どころか過呼吸でぶっ倒れてた。


でも、猫の体ってズルい。表情も赤面もないから、感情が隠せてしまう。


るかは俺の肉球をぷにぷに触ったり、体の匂いをくんくん嗅いだりと、やりたい放題だった。


「……ふふ。なんかさ、初めて会った気がしないんだよね〜。不思議だね?」


(それ、俺が言いたいセリフだよ……)


心の中でツッコミを入れながら、されるがまま。

しかもるかの顔が近い。めちゃくちゃいい匂いがする。シャンプーの香り。ミルクの匂い。ちょっとだけ、泣きたくなるような、あったかい匂いだった。



風呂あがり、ふわふわのバスタオルで体を包まれ、そのままドライヤーへ。

るかの膝の上に乗せられて、耳を乾かされる。


(女の膝って……柔らか……)


いや、考えるな。考えたら終わりだ。

これは猫なんだ。マッサージとか、愛撫とか、ぜんぶペットに対するそれなんだ。


「よし、完成っ☆ めっちゃふわふわ〜〜! ぬいぐるみみたいじゃん♡」


るかが顔を近づけて、俺の頬にスリスリと頬擦りしてくる。

そのたびに、体がカッと熱くなる。


「なあに、恥ずかしいの? かわい〜」


(ちがう、俺は猫じゃねえええええ!!)


心の中では叫んでいるのに、口から出るのは「にゃ……」という間の抜けた鳴き声。

このどうしようもないギャップが、俺の理性をどんどん削っていく。



「さてと、ごはん食べたら、寝よっか?」


いつの間にか夜になっていた。

ホットミルクと、ちゅ〜るらしきものを小皿に用意してくれるるか。


……ちゅ〜るはうまかった。悔しいけど認める。


「ふふ。ゆうくん、食べるの上手〜。えらいえらい♡」


その声にびくっとなった。


(……今、なんて?)


「ゆうくん」――そう聞こえた。俺の名前。


たまたまか? 偶然なのか?


「ウチ、猫飼うの初めてなんだ〜。でもさ、なんか変な感じ。はじめてなのに、全然こわくないし」


るかがそう言いながら、俺の頭をぽんぽんと撫でた。


その仕草が、なんか……妙に、懐かしかった。


――いや、気のせいか?


(いや、名前の件は……まさかな……)


思考の中、再びスリスリと頬を寄せてくるるか。

その唇が、ちょっとだけ俺の耳に当たって、変な電気が走った。


「これから、いっぱい仲良くしよーね?」


その声は甘くて、優しくて、どこまでも無邪気だった。

俺はただ「にゃあ」と鳴くことしかできず――


その夜、るかの腕の中、俺は初めて「ペット」として眠った。



ベッドの隣には、ぬいぐるみと並んで、小さな猫のストラップが置かれていた。

雨の日に落として、泣きながら探してたあの時のように――


でも、今の俺はそれに気づけなかった。


ただ、少しだけ。


何かがおかしい。そう思ったのは、確かだった。



翌朝、目覚めた時には、もう彼女の腕の中だった。


るかの寝息が、近い。

すぐ隣でスヤスヤ眠っている彼女の胸元に、俺の頭がすっぽり埋まっていた。


(……近すぎるって)


しかもその胸、柔らかすぎる。猫の体でも分かるくらいに。

温かくて、ほんのり甘い匂いがして、触れるたびにこっちの思考がバグる。


もがいて抜け出そうとしても、猫の腕力じゃ微動だにできない。

俺はただ、朝っぱらから人間としての理性の試練に晒されることになった。


「ん……おはよ、ゆうくん……」


(……え?)


彼女が、寝ぼけた声で呟いた。


「ゆうくん……好き……」


俺の中で何かがカチッと鳴った。


(な、なんで、俺の名前を……!?)


偶然だ、と思いたかった。

でも“ゆう”という名前は、そんなにありふれてない。

ましてや、拾ったばかりの猫に「ゆうくん」と呼びかけるなんて、あまりにも――


(まさか……バレてる?)


一瞬、冷たい汗が流れた。

が、次の瞬間、彼女はムクリと起き上がり、あくびをしながら言った。


「……あっ、名前まだ決めてなかったわ。うーん、どしよっかなー」


(……は?)


「なんかさー、黒くてシュッとしてるから、“クロ”とか“くろべぇ”とか考えたんだけどー……」


(……うん、それでいいんじゃないか? マジで)


「でも……ウチ、ずっと好きだった名前があるんだよねー」


そう言って、るかは俺の頭を撫でた。

その目は、どこか遠くを見ていた。


「“ゆうくん”っていうんだ。なんかね、やさしくて、ちょっとすぐいじけるけど……でも、ウチの宝物、って感じ」


(…………)


喉がつまる。


言葉を返せないのが、もどかしい。

なんでそんなこと知ってるのか、問いただしたい。

でも俺は猫で、彼女は人間で――この壁は、触れるほどに分厚くなる。


「ってことで、君の名前は“ゆうくん”に決定っ☆」


ぱちん、と指を鳴らし、るかは無邪気に笑った。

その顔があまりにも自然すぎて、“何も知らない”ように見えた。


……いや。

あれは“知ってて、何も言ってない顔”だ。


でも、そんな疑念を抱いた次の瞬間、俺の頬に彼女の指がそっと触れた。


「ウチさ、猫と暮らすの、夢だったんだ〜。かわいい彼氏とね?」


彼女の言葉に、体がぴくっと震えた。


「……って言っても、彼氏は猫になったりしないか〜〜、あはは」


るかはそう言って笑う。でも、その笑顔の裏側に何があるのか――見えない。


(……本当に、何も知らないのか? それとも……)


答えは、どこにもなかった。

あるのは、胸の奥に引っかかる違和感と、妙な懐かしさだけ。



夜。窓辺に座って外を見た。


雨のにおいはもう消えて、夏の夜風がカーテンを揺らしている。


その下、机の上に転がっているのは、小さな猫のストラップ。

どこかで見たような気がする。誰かが大切にしていたもの。……そんな気がする。


でも、はっきりとは思い出せない。


(もしかして、俺たち……)


ふと、そんな言葉が浮かびかけて、やめた。

そんな都合よく、物語みたいな運命があるわけがない。


るかはただ、偶然俺を拾って、偶然名前が一致しただけ。


そう、偶然だ。全部、偶然なんだ。


(……だよな?)


なのに、なぜか背中にひやりとした風が通った。


まるで、見えない何かが、すぐそばにいるような。


そんな夜だった。



「ふふ〜ん、今日はスペシャルマッサージの時間で〜す♡」


ソファの上、俺はひっくり返されていた。


腹、耳、しっぽの付け根――指先がやたらと器用にツボを押さえてくる。

こちとら猫になってるとはいえ、中身は高校男子である。理性の残りライフが風前の灯火。


(あっ、そこは……変なとこ感じる……!)


「ゆうくんってば、ほんっと敏感だね〜♡ あっ、こことか……」


スッと指が喉元をなぞると、勝手に「ぐるにゃっ」て情けない音が漏れる。


くそ……この体、反応しすぎだろ……。


「ん〜……にしても、アンタほんと不思議な子だよねぇ」


るかがマッサージをやめ、ぽふっと俺の体に覆いかぶさる。


その距離、ゼロ。


彼女の柔らかい髪がふわりと顔にかかって、体温がじかに伝わってくる。


「初対面なのに、なんか懐かしいっていうか。……てか、ウチのこと、最初から知ってた感じがするんだよね」


(ドキッ)


「ん〜、気のせいかな? でも……ふしぎ。たぶんさ、ウチ、アンタのこと……前から知ってたんだと思う」


囁くようなその声が、耳の奥に染み込む。

その瞳が、まっすぐ俺を見ていて――猫の仮面じゃ隠しきれない、何かが、心の奥を揺らす。


「……そういえばね、ウチ、昔ひとりで泣いてたことあったの。河川敷でさ」


突然、るかがぽつりと語り出した。


「小学校の時だったかな。猫のストラップ、落としてさ。お気に入りだったのに、どこ探しても見つかんなくて……で、泣いてたの」


その横顔は、いつものギャルのノリとはかけ離れていて、やけに静かだった。


「そしたら、男の子が来てくれたの。『一緒に探してやるよ』って」


(……!)


俺の中で、なにかがカチリと噛み合った。

その光景、俺は知ってる。忘れてたけど――確かに“いた”んだ。あのとき、俺はその場に。


「すごい意地っぱりで、でも優しくてさ。名前、聞きそびれちゃったけど……その時から、忘れられなかったんだよね」


るかは静かに笑っていた。

あのストラップを、今も大事にしていた理由。それが、今ようやく繋がる。


(じゃあ、やっぱり……るかは、俺のことを――)


「……でね、その子の名前、後から聞いたの。高校で再会して、クラス名簿見て、やっとわかった」


(えっ?)


「“早坂ゆう”って言うんだって。すごいでしょ、運命みたいじゃん?」


るかは照れたように笑って、俺の額にキスを落とす。


「だから、ウチはアンタに“ゆうくん”って名づけたの。忘れないように。……いや、もう忘れられないけど、ね」


俺の心臓が、バクンと跳ねた。


それは、喜びとか感動とか、そういうものではなかった。


言いようのない緊張感。

足元からゆっくりと冷たい水がせり上がってくるような――そんな、妙な恐怖。



その夜、彼女は俺を腕に抱き、静かに寝息を立てた。


白い指先が、胸の上でゆるく動く。

その寝顔はとても穏やかで、純粋で、まるで――


(……あれ?)


不意に、彼女の笑顔が、どこか“完璧すぎる”ように見えた。


違和感。

いや、違う。これは――既視感?


なぜだろう。俺はずっと、何か大切なことを、見落としている気がした。


でもその答えは、猫の姿のままでは、どうしても届かなかった。


――そして、俺はまだ気づいていない。


この全ての“出会い”は、偶然なんかじゃなかったことに。



「ゆうくんが……いなくなったの」


その声を聞いた瞬間、俺の時間が止まった気がした。


るかの部屋。

テレビはつけっぱなしだったが、音は消されていた。

薄暗い部屋の中、無音の画面に字幕だけが流れている。


【高校生男子行方不明】

【最終目撃地点:河川敷】

【黒髪/メガネ/制服姿】


見慣れた、俺の顔写真。

制服姿のそれが、世間から“失踪者”として扱われているのが、なんだか遠い世界の話のようだった。


「……先生も、警察も……みんな、心配してて」


るかは俺を膝に乗せたまま、ぽつぽつと話していた。

その手はいつもより少しだけ、強く俺を撫でていた。


「だけどさ、ウチは……わかるよ」


俺の体がピクリと反応する。


「だって、ここにいるもん。……ウチの“ゆうくん”が」


抱きしめられる。柔らかく、でもしがみつくような強さだった。


俺は――何も言えなかった。

喉から出たのは、やっぱりただの「にゃあ」という鳴き声だけで。



その夜。


ベッドの中、るかは眠った。

目元に残る涙の跡が、かすかに月明かりに濡れている。


俺はそっとその胸元から抜け出して、窓辺へ移動した。

夜風がカーテンを揺らし、少しだけ涼しい空気が部屋に入り込む。


(……俺、どうしてこうなったんだっけ)


人間に戻る方法も、理由も、何もわからない。

でも不思議と、焦りはなかった。むしろ、どこか納得している自分がいた。


ギャルが嫌いだった。

うるさくて、軽くて、何を考えてるかわからないから。


でも今、すぐ後ろで眠っている彼女は――とても、あたたかい。


(俺は……ただ、見た目だけで判断してただけなんじゃないか)


たったそれだけのことに、ようやく気づいた。

馬鹿みたいだ。そう思ったら、少しだけ笑えてきた。


彼女は俺を見つけて、助けて、名前をつけてくれた。

それが偶然だとしても、運命だとしても――


今の俺は、その名前を大事にしたいと思った。



翌朝。


「おっはよ〜、ゆうくん♡」


昨日の泣き顔が嘘みたいに明るくて、まるで何事もなかったかのように抱きしめてくる。


「今日もウチ、頑張って学校行ってくるね! ゆうくんはおうち守ってて?」


俺は「にゃあ」と短く鳴いた。

るかは嬉しそうに笑って、俺の額にキスを落とす。


「……いい子。ウチのかわいい、ゆうくん♡」


彼女の言葉が、胸に染みた。


もしかしたら、このままずっと人間に戻れないかもしれない。

でも、それでも――いいと思えた。


彼女のそばにいるだけで、胸の奥があたたかくなる。

それだけで、十分だった。


(俺は、ここにいる。彼女のとなりに)


小さく喉を鳴らしながら、俺は再度彼女のもとへ向かった。


そして、静かにその体に寄り添う。


こうして、俺と彼女の生活が、またひとつ続いていく。



それから数日後。


朝、るかはいつものように目を覚まし、

俺に「おはよ〜、ゆうくん♡」と声をかける。


カーテンを開けた窓からは夏の日差しが差し込んで、

部屋の中をあたたかな光で包んでいた。


「今日は〜、ちゅ〜るの新しいやつがあるんだよ〜」


るかが袋をカサカサと鳴らすと、自然と俺のしっぽが反応する。

やめてくれ。情けないことに、もうこの体が完全に猫仕様だ。


けれど、それが嫌ではなかった。

彼女の笑顔と、柔らかな手のひらが、いつだって隣にある――


その事実だけで、俺の世界は、充分すぎるほど満たされていた。



「ねえ、ゆうくん。ウチね、最近すごく幸せなんだよ」


るかがそんなことを言いながら、ソファに腰を下ろす。

俺はその膝の上に乗って、ゴロゴロと喉を鳴らす。


「学校ってさ、めんどいし疲れることも多いけど……でも、おうち帰ってくると、ゆうくんがいるってだけで、救われるっていうか〜」


彼女は俺の耳の後ろをくすぐるように撫でて、くすりと笑った。


「……ちょっと、ズルいよね。ウチばっかり癒されてる気がする」


そんなことない、と言いたかった。

けれど、俺は「にゃ」としか言えなくて、だから代わりに彼女の指に顔をすり寄せた。


「……ふふ、ありがと」


小さな声で、そう囁いてくれる。


この部屋には、もう他に何もいらない。

たぶん、俺も彼女も、それを分かっていた。



夜。布団の中。


彼女の腕に包まれながら、俺は目を閉じる。

彼女の心臓の音が、規則正しく響いてくる。


俺は思う。


(ギャルって、うるさくて軽い存在だと思ってた)

(でも――)


見た目で決めつけていた俺が馬鹿だった。

誰よりもまっすぐで、誰よりも優しくて、誰よりも……強くて。


(こんなふうに誰かの隣で、何も考えず眠れるのって……)


初めてかもしれない。


彼女が俺を見つけてくれて、本当に良かった――

心の底から、そう思っていた。



やがて部屋は静かになり、

カーテンの隙間から差し込む月光だけが、彼女の寝顔を照らしていた。


俺はそのぬくもりに寄り添ったまま、

そっと目を閉じた。



そして――物語は、静かに終わる。


……かに、思われた。





時は、あの日より少し前に遡る。



空は重たく曇り、遠くのほうで雷鳴が鳴っていた。

まだ雨は降っていないのに、湿った風が、少女の長い髪をゆらりと揺らしていた。


河川敷の斜面に、星川るかはひとり、膝を抱えて座っていた。


いつものギャルっぽい口調も、明るい笑顔も、そこにはなかった。

ただ、伏せた瞳と、薄く震える指先だけが、その感情を物語っていた。


「……なんなの、あれ」


誰に言うでもなく、吐き出すように呟く。


「ウチが、からかってたのにさ。なんで……なんで、他の子までオタクいじりとか言って真似し始めてんの」


つい先日。

彼女の仲間たちが、クラスの男子――早坂ゆうに対して、面白半分でちょっかいを出し始めた。


「星川の好みって、意外と地味メン系〜?」

「じゃあウチも“ゆうくん”って呼んじゃおっかな〜♡」


笑いながら言われたその言葉に、るかは表情を保つのがやっとだった。


「やめてよ……ウチだけの、ゆうくんなのに……」


声が震える。爪が、草を掴むようにして土を引っかいた。


「誰にも渡したくない……あの子は、ウチのもんなんだよ……」


その時だった。


風が変わった。


誰もいないはずの河川敷。

そこに、ふわりと舞うように現れた白い影があった。


風にそよぐ純白のワンピース。年齢不詳の少女のような容姿。

けれどその目は、何かを全て見透かすように澄んでいた。


「……恋って、難しいわよね」


突然の言葉に、るかは目を見開いた。


「誰……?」


「私は“愛の女神”よ。名前なんて、どうでもいいでしょう?」


そう言って、女は芝の上に座り込んだるかの隣に膝をついた。


「……あなた、好きな人に素直になれないのね。からかうことでしか近づけなくて、気づけば他の子まで巻き込んでしまった」


るかは何も言えず、唇を噛むようにうつむいた。


「でも安心して。私、あなたみたいな子を見ると放っておけないの。――ねえ、願い事、叶えてあげましょうか?」


女神の目は優しかった。まるで、純粋に“恋の手助けをしたい”と願うような。


「ふたりがちゃんと向き合えるように、素直になれるチャンスをあげるわ」


その言葉に、るかは一度だけ、ふっと笑った。

どこか壊れかけた、かすれた笑みだった。


「じゃあ……彼を、猫にして」


女神のまばたきが止まった。


「……え?」


「猫にして。この河川敷に捨てて。そしたらウチが拾う。そばにいられる。誰にも渡らない。飼い主とペットなら、ずっと一緒だもん」


その言葉に、女神は一瞬だけ――本当に、一瞬だけ、絶句した。


「……あなた、正気?」


るかは静かに微笑んだ。

その笑顔は、優しく、でも――どこか歪んでいた。


「好きすぎるだけだよ」


風が止む。


女神はしばらく何も言わず、じっとるかを見つめていた。

そして、肩をすくめるようにして、小さくため息をついた。


「……いいわ。面白そうだし」


「……ほんと?」


「でも、代償はあるわよ。彼は、もう人間には戻れない。……それでもいいのね?」


るかは答えなかった。ただ、頷いた。


「じゃあ――次の雨の日。またこの場所に来なさい」


女神は、空を見上げる。


「そのとき、猫になった彼が、この河川敷に捨てられているわ」


「……わかった」


「忠告しておくけど、これは“愛”じゃない。“執着”って言うのよ」


「ふーん。じゃあ、執着でいい」


女神はまた少しだけ笑った。そして、言葉を残し、霧のように姿を消した。


「……ほんとに困った子ね。――でも、そういう恋も、案外長く続くのかもしれないわね」



数日後――雨。


空の色は灰色で、あの日と同じ。

るかは傘を差して河川敷に現れた。


草むらの中、黒く濡れた毛並みを震わせている、小さな猫。


「……迎えに来たよ」


そっと抱き上げ、胸に抱きしめる。


「これで、ずっと一緒。ね、ゆうくん♡」


少女の声は甘く優しく、

その腕の中で眠る黒猫は、小さく喉を鳴らした。


物語は――この瞬間から、始まった。



その日を境に、

一匹の黒猫と、一人の少女が暮らす家があった。


ふたりだけの、秘密の生活。


それはとても静かで、とても優しくて――

誰にも壊せない、永遠の愛のかたちだった。


【完】

最後まで読んでくださった皆さま、ありがとうございました!


後半ちょっと……いや、けっこう急ぎ足だったかもしれません(泣)

本当は「まさかのメンヘラギャルかよ!」って読者が思わずザワつく展開を目指してたんですが、

やっぱり伏線って難しいですね……まだまだ実力不足です!


この話を書こうと思ったきっかけは、猫とギャルとメンヘラ――

いやまあ、作者の記憶のどこかに「メンヘラちゃんとの淡い思い出」があったのかも?しれません(遠い目)


ともあれ、楽しんでもらえてたら嬉しいです!


これからも精進していきます!感想とかくれたら泣いて喜びます!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ