第6話 疑心
<11:30 森谷探偵事務所>
新宿の裏路地、薄暗いビルの一室。森谷探偵事務所の看板は、今日もかすかに汚れたまま揺れている。
月曜の昼前、佐藤一はキャリーケースを引いて事務所に足を踏み入れる。室内は静かで、書類の匂いとコーヒーの香りが混じる。
東金がデスクで書類を整理しており、一を見ると軽く手を上げる。
「おはよう、ずいぶん荷物多いね。旅行でも行くの?」
東金の声は穏やかだが、目の下の疲れが目立つ。
一はキャリーケースを壁に寄せ、苦笑する。
「旅行じゃねえよ。ちょっと……事情があってな」
一は言葉を濁し、ジャケットを脱いで椅子に腰を下ろす。
東金がコーヒーを淹れながら、ふと口を開く。
「そういや、森谷代表、インフルエンザで今週いっぱい休むって。病院行ったらしいけど、結構しんどそうだったよ」
一の目が鋭くなる。
「森谷さんが? 大丈夫か?」
表面上は心配する口調だが、内心では別の思いが渦巻く。
森谷の言葉――「気をつけろよ、2.5次元の件、深く探ると面倒なことになるぞ」――が頭を離れない。
5年間、探偵として働いてきたが、彼が2.5次元業界について口にしたのはあの時が初めてだった。
面接で一が元俳優だと話した際も、森谷は特に反応しなかった。それなのに、なぜ急に警告を? あの言葉の裏に何かあるのではないか――疑心が膨らむ。
一はデスクのメモ用紙を引き寄せ、ペンを手に取り、雑談を装いながら文字を走らせる。
(森谷代表、最近変な動きなかった?)
東金にメモを見せると、彼はコーヒーカップを握り、視線を落とす。
穏やかな笑顔のまま、別のメモに書き込む。
(なんで? 変な動きって?)
一はコーヒーを一口飲み、さらりと答える。
「いや、最近、森谷さんが妙に疲れてる気がしてさ。なんかあったのかなって」
内心、東金の反応を観察する。
東金は一瞬目を逸らし、別の紙に書き込む。
(よく分からないけど、2週間前あたりに、お昼休みにベランダで外国人と電話してた。何話してたかは聞こえなかった)
一の胸に冷たいざわめきが走る。
森谷が外国人と? なぜそんな行動を?
一はメモに書く。
(それ、怪しくね?)
東金はメモを読み、眉をひそめる。
(分からない。けど、確かに普段と違う雰囲気だった。…… 一、なんか危ないことに首突っ込んでる?)
一は苦笑し、
(危ねえかどうかは、これから確かめるさ)
二人の会話は表面上軽い雑談を装いつつ、メモのやり取りで緊迫感が漂う。
盗聴のリスクを考え、一は森谷が赤男と関わっているなら証拠隠滅の可能性を警戒していた。
<12:30 お昼休み>
事務所のテレビがつけっぱなしで、国会の予算委員会の映像が流れている。
副総理、手良秀吉が野党の質問に答えている。
「そのご質問だが、予算の優先順位は国民生活の安定にある。それを無視した揚げ足取りは時間の無駄だ」
手良のぶっきらぼうな反論に、野党議員が顔を赤らめる。
テレビのコメンテーターが「手良副総理、相変わらず切れ味鋭いですね」と笑う。
東金は弁当を広げながら、メモを一に見せる。
(明日でもいいんじゃない? 急ぐ理由ある?)
一は箸を止め、メモに書き返す。
(余計なお世話だ。)
東金は困ったように笑い、弁当の唐揚げを口に運ぶ。
<17:30 仕事終わり>
夕方、事務所の明かりがオレンジに染まる。
一は過去の調査ファイルを漁ったが、白川拓実の手がかりは見つからない。
一がファイルを閉じた瞬間、スマホが振動する。発信者は五虎だ。
「よお、一!」
五虎の声は相変わらず軽快だが、どこか急いている。
「藍と白川の関係者に何人か連絡取ったんだ、そしたら2人が話を聞いてくれるってさ! 会えるように調整してほしいって。どうだ?」
一はメモを取りながら答える。
「場所と時間送って下さい」
五虎は笑い声を上げる。
「さっすが一! 詳細はメッセージで送るな!」
電話が切れ、一はスマホを握りしめる。
白川の目撃情報、仮面の破片、発信機、そして森谷の不審な行動――全てが赤男の影と繋がっている気がする。
<21:00 漫画喫茶>
一は新宿の漫画喫茶の完全個室に身を落ち着ける。
キャリーケースは隅に置き、狭い部屋にはモニターの光と漫画の背表紙だけが並ぶ。
昨夜、イドが去った後、一は急いで荷物をまとめ、発信機の入った仮面の破片をアパートに残してきた。
発信機を持てば、赤男かその背後の誰かに追われるリスクがある。拉致や殺人の危険を避けるため、しばらくは拠点を移すつもりだ。
一はコーヒーを飲みながら、ノートに今日の情報を整理する。
・国永の滑川――元警察のOB顧問、2.5次元業界に何の目的で?
・白川の目撃――左エラの傷、白髪、冷たい目。
・五虎の協力――本当にただの運び屋か?
・イドの取引――情報屋の目的は?
・森谷の電話――2.5次元と関係ある?
一はノートを閉じ、明日の面会を考える。