最終話 夢の終わり
事件の前日、真昼の江ノ島。
海風が頬を撫で、波の音が心地よく響く。
佐藤一は、砂浜に座った日奈戸結の隣で、
膝を抱えていた。
両頬の傷は、治療のおかげでほとんど
目立たなくなっていた。
薄い線が残る程度で、鏡を見るたびに
「あの夜」を思い出すことは減った。
結がコンビニで買ったアイスを舐めながら、
柔らかく微笑む。
「一君、最近どう?探偵の仕事、辞めてから」
一は小さく笑う。
「暇だよ。朝起きて、コーヒー淹れて、散歩して……それだけ」
結がくすくす笑う。
「それ、普通の生活じゃん。いいじゃん、普通って」
一は海を見つめ、ぽつり。
「普通って、こんなに静かなんだなって。昔は稽古で朝から晩まで動いてて、休む暇もなかったから」
結はアイスを一口かじり、目を細める。
「私もコスプレイベント減らしたよ。最近は妹の夢と一緒に、のんびり衣装作ったりしてる。昨日なんか、夢が『姉ちゃんの衣装、ダサい!』って言ってきてさ」
一が吹き出す。
「夢ちゃんらしいな。あの子、相変わらず口悪い?」
結が頷き、笑う。
「うん。でも、夜遅くまで一緒にミシン踏んでると、なんか癒されるんだよね。『ここ、縫い目曲がってるよ』って文句言いながら、手伝ってくれるの」
一は少し考えて、言う。
「いいな、そういうの。俺も……家族とそんな時間、欲しかったかも」
結はアイスを差し出し、一に一口あげる。
「じゃあ、これからは私と夢で、家族みたいにやろうよ。毎週末、うちでご飯作ったり、コスプレ撮影したり」
一はアイスを受け取り、頬を緩める。
「……悪くないな」
結が明るく続ける。
「次は一君の衣装作ろうか?探偵っぽいトレンチコートとか、どう?」
一は苦笑。
「やめろよ、恥ずかしい」
二人は自然と肩を寄せ合い、
波の音に耳を傾けた。
一は突然ふと思い出したように、ぽつりと言った。
「昔、小学生の頃……通常級からみなみ組に移動した子がいたんだ」
一は遠くの水平線を見つめながら続ける。
「その子はみなみ組の3つ上の先輩から、通常級の同級生から、後輩から……ずっとイジメられてた。俺はクラス違いだったけど、廊下で何度も目撃してた。階段で突き飛ばされてるのとか、給食を隠されてるのとか……」
声が少し震える。
「俺、声をかけたことなかった。怖かったんだ。巻き込まれたくなくて、見て見ぬふりしてた。あの時、ただ一言『大丈夫?』って言えば……何か変わったかもしれないのに」
結は静かに手を握りしめる。
「一君……」
一は苦笑する。
「あの小学校、最近廃校になったんだ。建物がなくなっても、あの子の顔はまだ頭に残ってる。俺は……今でも、あの子の目を見てる気がする」
結は一の肩に頭を預ける。
「今は、私がいるよ。一君のそばに」
一は小さく頷く。
「……ありがとう。結」
二人はしばらく黙って海を見ていた。
波の音が、過去の傷を少しずつ洗い流すように。
やがて、結が明るく言う。
「ねえ、次のデート、どこにする?」
一は少し考えて、笑う。
「そうだな……鎌倉の寺巡りとか、どう?静かで、落ち着くところ」
結が目を輝かせる。
「いいね!お寺の庭で、ゆっくりお茶したい」
一は頷き、結の手を握り返す。
「決まりだな」
夕陽が海に沈み、江ノ島の空を赤く染める。
二人の影が長く伸び、穏やかな時間が流れる。
はずだった……
6月2日
――翌日の真昼。
俺は通り魔に襲われた。
刃が腹部を深く抉り、血が噴き出す。
熱い痛みが全身を駆け巡り、足から力が抜ける。
地面に膝をつき、血溜まりが広がっていく。
犯人の顔を見て、俺は凍りついた。
ストーカー男の正体が、早乙女藍そっくりだった。
俺が藍を嫉妬したように。
誰かが俺を憎んだように。
理由などない。ただ、そこにあっただけだ。
あの完璧な笑顔、あの輝く瞳。
本物なのか、偽物なのか。
意識が朦朧とする中、俺は悟った。
人は感情がある限り、悪意は消えないと……。




