第18話 言葉に出来なかった
1970年、冬の終わりのことだった。
生まれて間もない赤ん坊は、乳児院の玄関先に置かれていた。毛布に包まれ、小さな紙切れ一枚。
紙には、何も書かれていなかった。名前はなかった。両親の顔も、声も、温もりも、何も残されていなかった。
そのまま孤児院へ移され、施設の子どもたちの中に加わった。
職員たちは優しかった。食事は十分で、服は清潔で、勉強もさせてもらえた。
いじめもなかった。周りの子どもたちは笑い、泣き、怒り、喜んだ。
職員はいつも温かく声をかけた。誕生日には小さなケーキを用意し、病気のときは夜通し付き添ってくれた。
他の子が熱を出せば、職員は額に手を当てて心配そうに眉を寄せた。あの表情を、彼は覚えた。だが、彼の心は飢えていた。
なぜ、彼らはあんなに感情を表に出すのか。
悲しいときは涙を流し、嬉しいときは大声で笑う。自分の中には、そういうものが湧いてこない。ただ、冷たい空洞があるだけだった。
誰かが優しく抱きしめてくれても、胸に温かさは広がらない。ただ、相手の表情を観察するだけ。
抱きしめる強さ、息遣い、体温の伝わり方――すべてを記憶に刻んだ。
だから、観察した。友人が転んで泣けば、その顔を覚えた。誰かがプレゼントをもらって喜べば、その笑い方を真似た。
「悲しいときは目を伏せて肩を震わせる」
「嬉しいときは口角を上げて目を細める」
「怒ったときは眉を寄せて声を大きくする」
そうやって学んだ。模倣すれば、周りは安心する。
「いい子だね」と頭を撫でてくれる。
内面の空虚は、完璧な仮面で隠せた。
職員は彼を「穏やかで優しい子」と呼び、友人たちは自然に寄ってきた。誰も、仮面の下の空洞に気づかずに。
鏡の前で、何度も練習した。笑顔の角度、涙の量、声の震わせ方。完璧になるまで。
<悪の芽生え>
中学生の頃、校外学習で転機が訪れた。
劇場でミュージカルを観ていた。華やかな衣装、輝くスポットライト、観客を魅了する若き俳優たち。
完璧な笑顔、完璧な涙、完璧な叫び。舞台の上で、彼らは神のように輝いていた。
が、突然、漏電による火災が起きた。煙が広がり、悲鳴が響く。
逃げ遅れた若い男、舞台袖で待機していた俳優の一人が、炎に包まれた。
火傷で顔が爛れ、皮膚が剥がれ落ちる瞬間。
完璧だった笑顔が、溶けて歪み、赤い筋肉が露わになる。剥がれた皮膚が床に落ち、焦げ臭い煙とともに縮んでいく。
その瞬間だけ、胸の空洞に熱いものが満ちた。
喜びだった。言葉にできない、圧倒的な喜び。
完璧だったものが、崩れていく。
輝いていたものが、醜く変わる。
その変化こそが、美しい。
壊れる瞬間に、初めて本物を感じた。
それから、彼は知った。美しさは、壊れる瞬間にこそ価値を持つ。完璧な仮面の下に隠されたものは、剥がれたときにこそ本物になる。
感情を表に出す人間たちは、仮面を被っているだけだ。本当の姿は、剥がしてみなければわからない。
<赤男>
社会人になり、警察官になった。
孤児院で学んだ適応能力は、ここでも完璧に機能した。同僚は彼を信頼し、上司は評価した。
正義感があり、穏やかで、誰にでも優しい。事件現場では冷静で、被害者には温かく寄り添った。
誰も、彼の内面を知らずに。
30歳の頃、初めて手を下した。若手俳優――2.5次元ミュージカルの舞台で輝いていた男。
完璧な笑顔、完璧な才能、完璧な未来。
壊したくてたまらなかった。
研ぎ澄ましたナイフで、皮膚を剥いだ。
丁寧に、ゆっくりと、一枚の布のように。
剥がれた皮膚は、美しかった。赤い筋肉が露わになり、完璧さが崩れる瞬間、あの喜びが、再び胸を満たした。
防腐処理を施し、額縁に飾った。
これが、自分の芸術だ。
壊れた美しさを、永遠に残す方法。
だが、逮捕されるのも時間の問題だった。証拠が少しずつ集まり、網が狭まっていた。
完璧な仮面にも、限界が近づいていた。
そんなとき、ある男に出会った。
冷たい目をした、野心的な男。後に、世界を牛耳る巨悪――デザートニールの創設者となる人物。
男は言った。
「君の才能は、素晴らしい。俺と一緒に、最高の芸術作品を作らないか?」
彼は微笑んだ。完璧な、穏やかな笑顔で。
これで、自分の画はもっと大きくなる。
完璧な仮面の下に、永遠の赤男を隠して。
誰も、言葉にできない喜びを、永遠に追い続ける。




