第16話 理由なき嫌悪
<20:00 喫茶店かりゅうど>
大波が出て行き、店内は急に静かになった。
ジャズの音量が少し下がり、折遊夜は「邪魔にならないように」と小さく笑ってバックヤードに引っ込んだ。
残ったのは、佐藤一と日奈戸結、二人だけ。
結は赤髪を耳にかけながら、柔らかく微笑む。
「ねえ、一君。今日は何してたの?」
一はカップを回しながら、適当に誤魔化した。
「映画見てた。……鎖鋸男が暴れまわるやつ」
「えー、またホラー? 怖がりなくせに」
結がくすくす笑う。一は肩をすくめて苦笑いした。
しばらく他愛もない話が続いた後、結がふと真顔になった。
「ねえ、本当のところ、何で俳優辞めて探偵になったの?」
一の指が、カップの縁で止まる。
静かに息を吐いて、ゆっくりと語り始めた。
「小学生のとき、演劇会で主役やってさ。先生に褒められたのが嬉しくて……それがきっかけだった」
「家も普通で、学校でもムードメーカーだったし、いじめとかもない。中学生のときに親が勝手にオーディション応募してて、いつの間にか見習いとして入所してた。ジャニーズ顔って言われてたよ」
結は黙って聞いている。
「華ノ戦のオーディションで、主役を狙ってた。俺が一番やりたかったキャラだった。でも、決まったのは藍だった」
一の声が、少し掠れる。
「嬉しかったよ、本当に。藍は実力もあって、みんな納得してた。でも、心のどこかで……嫉妬してた。なんで俺じゃないんだって、ずっと考えてた」
結の瞳が揺れない。一は目を伏せたまま続ける。
「公演当日、休憩中に藍が消えた。焦った。必死で探した。でも、同時に……胸の奥で、ほっとした自分がいた。主役の座が空くって、一瞬でも思った。そんな自分が、許せなかった」
一は両手で顔を覆った。
「何の嫌がらせもないのに、ただ嫉妬してた。理由なんかない。ただの嫌悪だった。だから、俺はそれを〝理由なき嫌悪〟って名付けた。」
「藍への贖罪のために、俳優を辞めた。探偵になって、失踪者を捜すことでしか、自分を許せなかった」
店内が静まり返る。
ジャズのピアノが、遠くで優しく鳴っている。
結は静かにスマホを取り出し、画面を見せた。
「話、変えていい? 明日、妹が遊びに来るんだ。夢って言うんだけど……」
写真には、高校生くらいの女の子がコスプレ姿で笑っていた。明るい笑顔。
一は写真を見て、ふと思い出したように呟く。
「……五虎社長が昔、ぽろっと言ってたことがあったな」
「従兄弟がいるって。苗字が……赫木、だったかな」
「漢字が特殊でさ、『赤が二つで赫……』」
一の言葉が、そこで途切れた。
赫木理子。ストーカー男の調査を依頼してきた、あの親御さんの娘。
結は首を傾げる。
「赫木?聞いたことない苗字だね」
一はゆっくりと顔を上げた。
「……いや、なんでもない」
だが、心の奥で全てが繋がった。
赫木理子を餌にすれば、ストーカー男は動く。
そして、蒼木五虎も必ず――
一は急に立ち上がり、スマホを取り出した。
五虎に電話をかける。
呼び出し音が続く。
繋がらない。
「……くそ!」
結が驚いた顔で立ち上がる。
「どうしたの!?」
一はヘルメットを掴み、店の外へ走り出た。
「悪い、急用ができた!」
夜の池袋を抜け、バイクに跨る。
エンジンが唸りを上げ、首都高へ。
町田へ向かって、アクセルを全開にした。
風が顔を切り裂く。
理由なき嫌悪――
直接的な嫌がらせや関わりがないにもかかわらず、特定の人物(特に容姿や才能が優れている人など)に対して生じる説明しがたい嫌悪感や不快感の矛盾。
俺は今も、その呪いから逃げられていない




