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正暦2025年 3月18日
日本皇国 長崎県 長崎市
四葉重工業 長崎造船所
四葉重工業は、日本を代表する重工業メーカーにして軍需企業だ。
その中核となっている長崎造船所は民間造船所としては最大級の造船所であり軍艦はもちろんのこと民間の貨物船やタンカーなどを数多く手掛ける日本を代表する造船所としても知られる。
現在は佐世保で記念艦として保存されている戦艦「武蔵」も作った造船所であるため、現在でも海軍の大型艦艇の建造を請け負うことが多くドックの幾つかは「海軍用」として仕事が忙しい状況でも常に空けているほどだ。
日本の造船企業全体で世界シェアの半分を占めるなど。日本は造船大国として長らく君臨してきた。近年になって日本から技術供与を受けていた朝鮮や中華連邦が新興の造船国として日本以上に安価な値段で大型の貨物船を建造できることから徐々にシェアを伸ばしており、更にそれ以上に安価な北中国の国営造船企業が出てくるなど近年は日本メーカーにとっても厳しい状況になっているが現実世界ほどの「不況状態」にはなっていない。
そして、今回の異世界転移によって空路が制限された影響で各国共に大型の貨物船やタンカーを確保しようと躍起になっており、それによって日本の造船メーカーでも注文が殺到していた。
現在、海軍用ドックでは複数隻の海軍艦艇が建造されていた。
その中で最も巨大なのは空母型の船体を持つ強襲揚陸艦であろう。
現在、海軍が配備を進めている「能登型強襲揚陸艦」は全長260mで全幅40mそして満載排水量は5万トンに達する。そのため、佐世保や呉といった海軍工廠がメインで建造を行っているのだが一部は長崎や、帝国重工業の横浜造船所でも建造が行われていた。
現在、建造されている能登型の4番艦は今年の進水し、再来年に就役する予定だったが転移によってその建造スケジュールは若干遅れる見通しになっている。
「――他国向けですか?うちはちょっと厳しいですねぇ。大神と下関にまわせないんですか?」
工場長は本社からの無茶な要求に困り顔だ。
長崎はすでにその後の予定も含めて埋まっている状況だ。
四葉重工には下関と秋津島南部の大神にそれぞれ大規模な造船所を持つ。
今回要請されたのは他国海軍向けの護衛艦の建造だ。
東南アジアなどでは日本製のフリゲート艦を導入している国が多いのだが、今回はその東南アジアのフィリピンと最近になって軍備増強にかじを切ったニュージーランド向けのフリゲート艦の建造であった。
『…下関は埋まっている。大神は基本大型艦優先だろう?そっちでどうにかできんか?』
「そう言われてもこの先しばらくは全部埋まってますし、こっちも海外向けですから、動かせませんよ」
『…そうか。とりあえず大神にも聞いてみる』
そう言って幹部は電話を切った。
「この様子だと帝重も月島も扶桑も一杯なんだろうな」
いずれも、日本を代表する造船メーカーだ。
帝重こと帝国重工は横浜に大規模な造船所を持っており、またエンジンの分野では世界でも評価されている四葉に次ぐ重工・軍需メーカーだ。
それ以外の月島重工・扶桑重工に敷島重工を含めて5大重工ともよばれ日本の軍需品の大半はこれら5重工で製造されていた。
今回、四葉以外でも民間の造船所は民間や軍関係の注文が殺到しておりどこの造船所も予定がすべて埋まっているような状態だ。これは、ライバルともいえる朝鮮や中華連邦の造船所でも同じらしい。
元々、造船業界は近年大型の貨物船などの発注が多く出されていたが今回の転移で一時的に止まった貿易が順次再開していったことからより航続距離のながい貨物船などを保有しようと船舶メーカーは考えているようだ。
正暦2025年 3月19日
日本皇国 中国州 広島県 呉市
記念艦「大和」
広島県呉市。
横須賀・佐世保と並ぶ日本海軍の主要基地の一つだ。
基地内にある呉海軍工廠は、日本を象徴する巨大戦艦「大和」を建造した造船所としても知られている。そして、現在その戦艦「大和」は呉の地にて記念艦として一般公開されていた。
その隣には、大和と共に第2次世界大戦を戦い抜いた戦艦「陸奥」も展示されている。呉にはそれ以外にも空母や巡洋艦などこれまで日本海軍で活躍してきた軍艦の多くが保管されている。その費用は入場料として徴収され更に行政による財政支援などによって支えられていた。
「これが、我が国が誇る巨大戦艦『大和』です。数度の近代化改修が施されたため建造時の姿とは言えませんが、新型『大和』が就役するまではいつでも実戦で運用できるようにメンテナンスが続けられていました。その隣に停泊しているのが長門型戦艦二番艦の『陸奥』で第二次世界大戦前までは世界トップレベルの戦艦として『ビッグ7』という呼称で呼ばれていたこともありました。この『陸奥』も近代化改修などによって1960年代まで現役で運用されていまして、中華戦争などにも派遣されていました」
記念艦「大和」に視察へやってきたのはレクトア共和国とアトラス連邦の軍人たちだ。歴史などもまるで違う地球の歴史や軍事力などを視察するために彼らは数日前から日本に来ていた。日本で視察を終えた後はそのままイギリスやアメリカへ向い現地の戦争記念館などを訪問する予定になっている。
「80年前の戦艦がつい10年前まで現役で動いていたなんて、信じられんな」
「まったくだ。部品の確保などは相当苦労しただろうな」
アークでも戦艦は運用されていた過去はあるが、現在でも運用している国はほぼない。唯一の例外といえるのは「ガリア帝国」くらいだろう。アトラスにしてもレクトアにしてもすでに戦艦は退役しており、一部が当時のまま保管されているが大多数はスクラップとして処分されていた。
日本は、戦歴のある艦は優先的に記念艦として保管する傾向にあり各地にある軍港には数隻は過去に活躍した軍艦が保管されている。こういったことも彼らにしては驚きだった。
「ちなみに、アメリカは1940年代中盤に就役させた戦艦を予備役ですけれど、今も維持していますよ。まあ、多分我が国がいつまでも戦艦を運用し続けているせいで向こうも退役させることが出来なかっただけでしょうけれど」
案内役を務めている日本海軍広報官である向山中佐はそう言いながら肩をすくめた。
アメリカでは大和型に対抗して4隻建造した「モンタナ級」をモスボールという形で現在も運用できる状態にしている。
記念艦として保管されている「アイオワ級」も2隻がいつでも実戦復帰できる体制を整えているので有事の際――アメリカ海軍は大型戦艦を6隻運用できるだけの体制をまだ維持していた。
どちらの戦艦が建造された時。日米関係はまだ今のように良くはなかった。1934年から1年間続いた太平洋戦争の影響が色濃かったのだ。1942年に日本海軍が大和型戦艦を極秘裏に建造していたことをしたアメリカ海軍は、慌てて大和型に対抗するための戦艦を計画した。
それが「モンタナ級」だ。
また、日本の新型戦艦に対抗する形で建造されていたアイオワ級も大和型の存在を知って設計の一部を変更したりしている。結局、両国は第二次世界大戦で共に「連合国」として参戦することになり、アイオワ級と大和型はヨーロッパの海で共闘した。
第二次世界大戦後も、大和型の存在や両国が対立しているソ連が海軍増強を進めていたため引き続きモンタナ級とアイオワ級は現役であり続けた。ただ、さすがに戦艦を複数隻運用し続けるのはアメリカも負担が大きかったようでやがてモンタナ級とアイオワ級は予備役に編入され、有事の際に運用されるという状況に落ち着いた。ソ連によるアフガニスタン侵攻や、第三次中華危機といったアジアでの緊張状態のときは大和と共にアイオワ級がインド洋や東シナ海に派遣され、1991年の湾岸戦争ではアイオワ級とモンタナ級の5隻もの戦艦が実戦復帰し、イラクに対して艦砲射撃やトマホークによる対地攻撃などを行った。
湾岸戦争後は再度予備役となり、アイオワ級はやがて記念艦となり、モンタナ級もモスボール状態での記念艦となるための準備が進められていたのだが今回の転移でその計画も変わりそうである。
実際、中央アメリカへの軍事侵攻によってモンタナ級戦艦を実戦復帰させて中米地域は派遣する案が海軍作戦本部の中で取り上げられているという。
大和は数度に渡って大規模な近代化が行われている。
1980年代後半に行われた近代化改修は特に大規模でレーダーの換装や、当時出始めだったVLSの搭載など。国防省内部からは「新規で作ったほうが安いのでは?」と言われるほどの予算が投じられた後、湾岸戦争で実際に運用されその後、1994年に勃発した第三次中華動乱でも中華連邦支援のために東シナ海へと派遣されている。
「だが、80年前によくこれほどまでの巨艦を作り上げたものだな」
大和の巨大な艦橋を見上げるアトラスのワイト海軍准将。
彼はこの視察団のアトラス側の代表を務めていた。
「当時としては最新の技法を数多く投入しましたからね。おかげで建造から2年ほどで進水や就役までしています。まあ、当時は戦時でしたから。今はそれほど早くは出来ませんけれど。ただ、こんなデカブツ作るよりも他に予算をまわしたほうがいい、と陸軍からは激怒されたみたいですがね」
当時の海軍予算の大部分を大和に投入したので海軍内からも疑問の声が多かったという。すでに、太平洋戦争では戦艦よりも空母や航空機に注目が集まっていた時代なので「そんなものより空母を増やせ」と当時の連合艦隊司令長官が軍令部に怒鳴り込んだ――という嘘か本当かわからない噂もあったほどである。
「まあ、たしかにこれほどの巨艦を作るのは相当に苦労したでしょう。しかも、その艦を4隻も作るなんて――我が国では無理ですね」
「我が国でもかなり無理をして作りましたからな。まあ、それだけ当時『アメリカ』の存在が日本にとって危機感を大いに煽る存在だったのでしょうね。戦艦を作りながら空母の整備まで進めていましたが、当時のアメリカ太平洋艦隊はそれ以上の規模にまで回復していましたからね」
「たしか、日本とアメリカは過去に戦争をしていたのでしたね。戦争が終わっても尚、対立は解消されなかったのですか」
「ええ。戦争が終わったと言っても正式な講和条約はが結ばれたのは少し後になってから――お互いが第二次世界大戦で連合国に参戦する時に講和条約が結ばれたのでそれまでは停戦はしたけれどお互いにそれぞれ『仮想敵』の筆頭にしていましたから」
当時のアメリカは、アジア市場へ介入しようとしていた。
しかし、日本の存在が邪魔だった。
さらに、日本が海軍力などの軍備を増強しているのもアメリカにとっては気に食わなかった。特に1929年に大統領となったローベルト大統領は大の日本人嫌いだった。彼がどういう経緯で日本人を嫌っていたのかは不明だが、日本人を含めた黄色人種が権力を持つことを気に食わなかったのではないか――と、今では言われている。
ローベルト政権は社会主義的な政策を行い当時停滞していたアメリカ経済を浮上させようとしていたが、中々上手くいかずローベルトはその矛先を次第に日本へと向けるようになっていった。曰く「日本が我々のアジア進出を邪魔するからだ」と――実際には別に日本はなんの邪魔もしていないが、当時のアメリカ世論はそれを信じ、反日感情が増大した。逆に日本世論の反米感情も増大している。
それを、影で喜んでいたのはソ連であった。
1933年の選挙で再選したローベルトは更に日本への圧力を強めていく。
移民の制限や一部物品の輸出制限などだ。
恐らく、日本から戦争を仕掛けさせ大義名分を得ようとしたのだろうが日本側から仕掛けるということはなかった。
そして、1934年にローベルト大統領は日本への最後通牒を突きつけた。この最後通牒――日本側に領土の一部をアメリカに割譲しろなどという中々に乱暴なものだったらしく当然日本は無視し、そしてアメリカは日本に軍事攻撃することを決意した。
つまり「言う事聞かないなら力づくで黙らせてやる」を実現したわけだ。
今ならそんな乱暴な手段とらないものだが、当時の世界情勢では割りと大国が勝手な言いがかりで戦争を仕掛けるケースはよくあった――というよりもソ連が東欧諸国に対してそういった言いがかりをしてよく軍事侵攻をしていたのでローベルトがとった手段はまんまソ連流だったといえる。
だが、結果は日本海軍の前にアメリカ海軍の太平洋艦隊は敗北。
フィリピンも日本によって占領され、太平洋の拠点であるハワイが攻撃を受ける事態になった。激昂したローベルトは1935年に脳溢血によって突然死。後を継いだ副大統領のベルフィードは対日強硬派ではなかったのとヨーロッパ情勢が不穏になりつつあり自由主義国家である日米がこれ以上争うのをよしとしなかったイギリスの仲介によって両国は停戦する。
だが、両国それぞれに不信感を持っていたことから講和条約が結ばれることはなかった。両国が正式に講和条約を結んだのは1942年のこと。両国ともにヨーロッパの戦争に参加を決意した時であった。
「なんと…そんなことがあったのですね」
今では同盟国として手を結んでいる日米の意外な歴史に目を丸くするワイト准将。
(まあ、その後も貿易摩擦やらで日米関係は悪化するけれど。そこは説明しなくていいかな。アメリカさんにも悪いし)
積極的に軍事介入を行ったせいで、アフリカやら中東が不安定になったとか案外色々とやらかしているアメリカ関係の話はこれ以上しないほうがいいだろう、と向山中佐は内心思いながら一行を別のところへ案内しようとあるき始めた。




