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同日 正午
樺太州 奥端市
樺太州北東端の近くに位置する奥端市。
沖合に浮かぶ樺太油田・樺太ガス田の前線基地として発展している都市で人口約7万人の内6割ほどが石油や天然ガス関係の職業に就いているかその家族たちだ。
厳しい自然環境もあり樺太州北部は日本屈指の人口希薄地帯だが。それでも奥端支庁や隣接する白樺支庁には約25万人の住民が生活している。いずれも集落は集中しているといっても25万人を約2日で安全な場所へ避難させるというのはかなり難しいことだ。
ただ、この地域は普段からソ連からの軍事侵攻を警戒していたこともあって日頃から行政単位で大規模な避難訓練を実施しており、避難命令のことを聞いた職員たちは「ついにこのときが来たか」と一部の若い職員以外は冷静に受け止めすぐにマニュアルを手に取っていた。
「25万人を2日で避難させるなんて無茶ですよ!」
「無茶でもやるしかないんだよ。それが緊急避難命令だ」
配属されて間もない若い職員は悲観している一方でその上司はてきぱきと重要書類を安全な地下の倉庫に運び入れる準備を進める。もし、空爆などが起きても重要書類や機器に影響が出ないように市役所の地下には強固なシェルターがあった。市内にはそれ以外にも攻撃を備えるためのシェルター数多く設置されておりソ連からの巡航ミサイルや弾道ミサイルによる不意な攻撃に備えていた。それに比べれば今回は町の中に出られる時間があるのでまだ余裕があるとベテランの職員ほど落ち着いていた。
緊急避難命令は行政ではなく政府が発令する強制力の高い避難指示だ。
発せられるのは武力侵攻などが予想される時であり、軍や保安隊に警察・消防などは対象地域のすべての住民の避難誘導を迅速に行い。鉄道会社や船舶会社に航空会社なども政府に協力する形で人員輸送を行う。
市民たちも避難命令を告げるテレビを見たり防災無線を聞いてすぐに避難の準備を進めていた。奥端は鉄道や高速道路に飛行場や港といった一通りの交通インフラが整っている。鉄道は州都の豊原や港湾都市の大泊まで伸びているし、高速道路も同様に豊原まで伸びている。
飛行場は3000mほどのながい滑走路が整備されておりすでに空軍の輸送機が豊原から飛来していた。また、港には大型のフェリーが接岸できる岸壁もあり住民避難のために千島列島の幌筵島と奥端を結んでいるフェリーが通常業務を切り上げて住民避難のために奥端港に接岸していた。
幸いだったのは沖合の油田やガス田の操業が転移によってしばらく停止していたおかげで本来ならば沖合の油田やガス田で働いている作業員の大半が陸地にいたことだろう。ただ、管理のために数人の作業員が沖合の採掘施設に滞在しているがその彼らも陸軍のヘリコプターが救助のために飛んでいた。
このように、避難命令が出されてからの動きは非常に迅速なものだった。
それだけ、この地域は「ソ連による軍事侵攻」を警戒しそのための準備をしていたのだろう。同じことは、北中国の軍事的行動が増えた台湾や南西諸島でも行われていることだった。
「まさか、本当に避難する羽目になるとはな」
「戻ってくれればいいんだがな」
などと、いいながら駅にやってきた臨時列車に乗り込む元からこの地域で暮らしていた住民たち。
樺太には多くのロシア系住民が生活している。
元々日本領であった南樺太ではロシア革命から逃れてきた亡命ロシア人たちが集団で移住し、北樺太では日ソ戦争によって北樺太が日本に併合された時ソ連本土への移住を選ばずに日本国籍を選択した住民が全体の6割に達し、彼らに日本国籍が与えられたことから必然的にこの地域の住民のほとんどはロシア系だ。最近では日本人の移住者も増えて混血も進んでいるし、この奥端に限っては首都圏など全国各地から労働者がやってくるので例外的にロシア系住民の割合は低い。
「しかし、樺太を占領して何をするつもりなんだ?」
「さあ。植民地にでもするんじゃないか?」
「こんな場所を植民地にするもの好きなんてソビエトくらいだろう」
「連中はここを流刑地にしていたからなぁ」
北樺太はソ連時代、シベリアに次ぐ流刑地にされていたので住民の殆どは最初からソ連共産党に不穏分子とされていた者たちばかりだ。だからこそ、彼らはロシアに戻るのを選択せず自ら日本国民になることを選んだのだろう。
まあ、そんな彼らに対して一部には「こいつらはソ連のスパイだ」という心無い声を浴びせる国家主義者たちもいたようだが、日本政府はこの地域の開発を進めるなど殆ど開発されていなかったソ連時代と違ってインフラ投資を多くしてくれた。
そのおかげか、古くからの住民ほど日本への帰属意識が強かった。
奥端周辺の住民約25万人は、一部の行政職員を除いて2日以内でこの地域から退去した。避難した住民たちは地域ごとに指定された宿泊施設で暫くの避難生活を送ることになる。
そして、住民の避難が完了した深夜。樺太に対する攻撃が始まった。




