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新世界歴2年 2月24日
ガリア帝国 サンパール
「ルーリックめ……」
ガリア帝国の首都・サンパールの中心部にある屋敷の一室にて、首相であるホセ・ルーリックの名を恨めしそうに呟く一人の男。
彼は、ガリア帝国において公爵の爵位を持つ貴族の一人だ。
ルイス・グレイソン公爵。それが彼の名だ。帝国の議会である元老院に一大勢力を持つ「保守派」のトップに立つ重鎮であり、長らく皇帝を除く帝国政治のトップに立ち続けていたグレイソンは半年前、首相のルーリックが提出したアトラス連邦との不可侵条約締結案に反対していた。
なぜ自分たちがエルフの手を取らなければいけないのか――と、議会で主張したグレイソン。しかし、ルーリックは「陛下の承認を得た」といって条約締結を無理やり推し進め、皇帝もまたそれを後押ししたことで中立派議員や一部保守派議員が寝返る形で条約案は議会を通過してしまった。
それ以来、元老院でのグレイソンの影響力は徐々におちている。
ルーリックが下級貴族を中心に保守派の切り崩し工作をしているからだ。元々中級貴族から首相となったルーリックのことを嫌っていたグレイソンだが今回のことでルーリックに対しての憎悪はより深まった。
同じ貴族といっても上級貴族と下級貴族の差は大きく。殆どの下級貴族は何らかの上級貴族の派閥に属している。その中で最大勢力だったのがグレイソン率いる保守派だったわけだが、ルーリックの切り崩しによってその多くは中立派に鞍替えした。ルーリックは所謂「改革派」の筆頭格なのだが自分の派閥に誘う真似をしなかった。そのことがよりグレイソンを苛立たせた。
「ルーリック首相には困ったものです」
部屋にはもうひとり老年の男がいた。
男の名はエリク・トラーク。
ガリア帝国最大の総合企業体「トランセ」の会長だ。
貴族ではないもののこの国の財界において最大の権力者であることから貴族たちにも強い影響力を持っていることで知られている。グレイソンとの付き合いも30年ほどになり、今回のようにかなりの頻度で会談をするために公爵邸に来ていた。
彼もまた亜人への差別意識を持っており「保守派」にとっては最大の資金源であり支援者であった。トランセの事業には亜人奴隷の売買も含まれている。アークにおける国際法では明確に亜人を含めた奴隷の売買は禁止されているのだが、ガリアを含めた人間主義国家は国際条約に署名していないため、堂々と亜人奴隷の売買を行っていた。これもあって、先進国を中心にガリアに経済制裁を行っている国も多いのだが、中にはルーシア連邦などのように半ば国際的な取り決めなどを無視して、ガリアと積極的な交易を行っている国もあったので現在に至るまで大きな痛手にはなっていなかった。
もっとも、異世界転移という異常事態が起きてからは別だ。
ルーシアのように積極的に貿易してくれた相手との繋がりが切れたことはガリア経済には大きなダメージになっており、トランセも転移の影響を強く受けていた。
「軍の中にも今回のことを不満に思っている方々は多いそうです」
「当然だ。亜人に頭を下げるなど軍にとっても最も屈辱的なことだからな」
「しかし、陛下が条約に肯定的なこともあり大きな動きはできていないようです」
「軍の連中の陛下への忠誠心は相当なものだからな……」
「なので、そこを利用しましょう」
「なに?」
怪訝な顔になったグレイソンに向かってトラークはニヤリと口の端を吊り上げた。
「この国の貴族は本当に扱いやすい」
グレイソンの屋敷を出たトラークはそう言って笑みを深める。
トラークはグレイソンの耳許でこう囁いた「陛下は首相に洗脳されている。と、軍の関係者や皇帝派の貴族たちに伝えるのです。証拠は我々が用意しますので、問題ありません」と。
それを聞いたグレイソンはすぐにその提案にのった。
ルーリックに不満を持っている者たちは多いし、ルーリックを排除できるのなら、とすぐに各所に電話をかけようとしていたほどだ。
「あの様子では『証拠』を出しても特に疑いもしないだろう。アトラスとこの国はもうちょっと争ってもらわないと困るからな」
アークの闇で暗躍する者たち――トラークもまたその一員であった。
転移によって亜人国家の中でも最大規模のアトラスと近づいたのは彼にとっても予想外のことであったが、付き合いの深くガゼレアがアトラス領の島へ軍を派遣するという話を聞いた彼はガリアとアトラスの全面衝突を目論んだ。ただ、政府の抵抗が激しく結局空母を1隻派遣するだけで終わった。
その空母もアトラスと全面的な戦闘をせずにガリアに戻っている。
ガゼレア軍はアトラスとの戦いによって壊滅。そして、ガゼレア国内は数度の政変が起きるなど今も平穏とは程遠い状態になっているが、トラークはそこまでガゼレア国内のことを気にはしていなかった。
(野心家のトラードを焚き付けたまではよかったが、さすがにガゼレアの戦力ではアトラスに太刀打ちできないからな。ガリアがもう少し本格的に軍を出せば状況は違ったはずなのだが……)
穏健派のルーリック首相と皇帝の抵抗を排除することはトラークでもできなかった。だが、今回ルーリックを排除できれば状況は変わる。皇家も皇帝や皇太子などは穏健派だが、全員が全員穏健的な考えをしているわけではない。皇帝と折り合いの悪い皇族もいるので場合によっては皇帝をすげ替えればいいだけだ。
(ガリアが全力を出せばアトラスも苦戦するだろう。あとは、アトラスに協力するかもしれない異界の国々の存在だが、それもフィデスに目が向いているならば問題はないはずだ)
フィデスもトラークにとってはルーシアに並ぶ重要な取引相手だった。
今では戦争の影響もあり満足に船を出す余裕すらないが。
(それにしても『アメリカ』という国は中々に面白そうだな)
フィデスと戦争をしている異界の大国・アメリカ。
すでに同じ思想を持った者がアメリカ国内でメディアを使って様々な火種をばら撒いていることはトラークも知っていた。フィデスとの戦争どころではなくなるのが理想ではあったが、内部の混乱でアトラスへの関心をアメリカがなくすことが彼らにとって最も都合がいい。
メディアというのはどこの世界でも強い力を持っているものだ。
だからこそ、独裁国家ほどメディアを自分の手中に収めようとする。
絶対君主制のガリアもまた報道機関は国営放送のみしかなく、民間の放送局や通信社の設置は認められていない。改革派などはしばしばメディアの民間参入を認めるべきという話を出しているが、大半の貴族はそのことに否定的である。ゴシップなどで自分たちの立場がなくなるのが怖いのだ。
後ろめたいことに関してはどの貴族も抱えている。
そんな貴族たち相手に商売しているのがトラークなので、彼自身も色々と後ろめたいことは多い。そのため、表面的にはトラークも表面的には否定派として活動はしている。
ただ、本心としては参入したいと思っていた。
もちろんそれは「善」によるものではなく限りなく「悪」に近い思惑によるものだが。要は、自分の手で世論を悪い意味で動かしたいのだ。嘘の情報をさも真実のように流し世論を煽ることをトラークはしたかった。
(アトラスとの不可侵条約は民の間には一切知られていないからな。もし、このことが民の間に広がれば政府はもちろん皇帝も危ういだろう)
人間至上主義の思想に染まっているガリア国民がアトラスとの間に不可侵条約を結んだと知れば大騒ぎになるだろう。特に交渉を一方的に進めたルーリック首相への反発は強まるはずだ。
残念ながら国営放送に国営通信は民間資本の受け入れを制限している。一応幹部たちの中にはトラークと近い者もいるのだがその数は少ない。自前のメディアを持っていればそのことを気にせずに情報を流すことができる。
(ともかく、グレイソンたち次第だな)
クーデターが成功すればトラークとすれば動きやすくなる。
今は、その時まで待つことにした。
グレイソン公爵と軍の一部によるクーデターが発生したのは、それから1週間後のことだった。
新世界歴2年 2月26日
アトラス連邦共和国 ヴィデス
アトラス連邦情報庁
「ガリアでクーデターだと?」
アトラス連邦情報庁の長官は朝一番に最悪の報告を聞くこととなった。
人間主義国家であるガリア帝国とはつい半年前に不可侵条約を結んだばかりだ。ガリア国内に条約そのものに反発している勢力がいたのは知っていたが、一週間前の報告で不穏な動きをしているという報告は一切なかった。
まあ、ガリアにはあまり人員を置いていないので詳しい内情まではわからない。それでも、現政権に不満を持つ保守派と呼ばれる勢力がガリア国内ではかなりの大勢力を築いていることはわかっていた。
「それでクーデターを主導したのは?」
「保守派筆頭のグレイソン公爵と軍部の一部だそうです。ルーリック首相の安否は不明ですが、何人かの閣僚はすでに身柄を拘束されているようです。グレイソン公爵が臨時首相として政務にあたることをすでに国内向けに公表しています」
「あの国は絶対君主制だったはずだが……帝城でもなにかあったのか?」
「それに関しては現在情報がありませんが、皇帝も監視の目がついていると考えたほうがいいかもしれません」
「保守派が実権を握ったということは不可侵条約を一方的に破棄してくる可能性もあるかもしれないな……すぐに閣下にこのことを知らせよう」
長官はすぐに大統領官邸に電話をかけ、ガリアでクーデターが起きたこと。今後、ガリアが不可侵条約を一方的に破棄してアトラスに攻撃を仕掛けてくる可能性があること、詳しいことを説明したいので今から官邸へ向かうことを官邸の担当者に伝えた。
1週間後、ガリアはアトラスとの不可侵条約を一方的に破棄し、アトラスに対して宣戦布告した。