追憶
――最初に話しかけてきたのは彼女だった。
「ねぇ」
特に仲の良い友人もない僕は、昼休みにはいつも軽く昼食を済ませた後、学校の図書室で読書をしていた。別にクラスの人たちが嫌いとかそういうわけじゃないけれど、休み時間の喧騒が何となく不快だった。ここにいればそれから逃れられる。そう思って図書室にいた。
「えぇと……」
話しかけてきたのはたしか同じクラスで図書委員の……駄目だ。名前が出てこない。僕の僅かな記憶が正しければこの人とはクラス替えがあったにも関わらず三年間同じクラスだった。そして何度か話してる。それでも名前が出てこない。男子ならまだしも、女子の名前なんてより一層わからない。右耳にピアスしてるし、仮にピアスさんとか……いや、それは確実に怒られるな。
「すみません……」
ここは名前がわからないことを素直に謝っておこう。
「え? なんで私は謝られてるのかな?」
「名前が……」
「名前? 私知ってるよ? 八咫 翼くん、でしょ。あってる?」
「はい……あってます」
彼女は僕の名前を知ってるんだな。三年間同じクラスなら普通はそうか。
「すみません……あなたの名前が、僕……」
彼女が目を見開く。
「私の? あ、苗字かな。読みにくいよねー」
あれ、なんか勘違いされて……
「湊に羽で、みーなーと……ばっ! 湊羽家の一人娘、詩音ちゃんですよーっと」
上手いこと勘違いしてくれたお陰でなんとかなった。湊羽 詩音さんか。覚えておこう。しかし、図書委員の彼女が僕なんかに何の用だろう。まさかとは思うが、返し忘れている本があるのだろうか。
「それで……あの、何の用ですか?」
「え? あー、そうそう。八咫くんねぇ……」
湊羽さんがスカートのポケットからカラーリボンのついた紙製の何かを取り出し、それを僕に手渡してきた。
「これは?」
「えーとですね、『今年一番図書室に来たで賞』と『今年一番本を借りたで賞』を兼ね、図書委員会を代表して図書委員会の委員長であるこの詩音ちゃんからクリスマスプレゼントです! 私特製の手作り栞! やったね。おめでとー!」
……情報量が多くてついていけない。しかしくれるというなら貰っておこう。
「あ、ありがとうございま……」
栞をよく見ると詩人 中原中也の似顔絵や詩の断片が書かれている。似顔絵がこれまた上手くてつい笑ってしまった。
「な、何よ!」
「いや、中也ってチョイス渋……てか似顔絵上手い……ふふ」
「だって八咫くん、よく中也読んでるから……中也好きなのかなって」
「うん。中也、好きだ。ありがとう」
感謝と共に顔を上げると湊羽さんがじっと僕の顔を見つめている。
「え……なに?」
「本読んでるとき以外に笑ってる八咫くん、初めて見たかも」
言われてみれば、読書中以外に学校で笑ったのは初めてかもしれない。
「八咫くん笑顔のほうがずっといいよ。じゃ、私は委員長としてのお仕事あるので!」
微笑みながら手を振り、湊羽さんは行ってしまった。僕は暫く彼女をぼうっと、無意識に眺めていた。
その日の放課後、僕はよく行く古本屋に行った。そういえば古本屋の店名もたいして気にしたことが無かった。店内に入る前に一歩退いて店名を確認してみる。夕日が反射して見づらかったがなんとか読み取れた。
「湊……羽……書房……」
ん? 湊羽?
「あれ? 八咫くん」
昼休みにも聞いた声が背後から聞こえた。振り返ると案の定そこには湊羽さんがいた。
「なにしてんの?」
「え……いや、本屋寄ろうとして……」
「マジか。ここ私の家よ。お母さんがやってる本屋さん」
マジか。
「まぁいいや。外寒いし入りなよ、中」
「あ、うん」
僕は湊羽さんに手を引かれて店内に入る。
「お母さん、お客さんだよー」
店の奥からはいはーい、と声がする。少しして湊羽さんのお母さんと思われる女性の姿が見えた。
「まずは詩音おかえり」
「はいはいただいまー」
二人は片手でハイタッチをする。よく見ると二人とも同じピアスをしている。おそろいなのかな?
「んで、お客さんは……あら、よく来る少年じゃないか」
「ど、どうも……」
僕は湊羽さんのお母さんに軽く会釈する。
「まぁゆっくりしていきな」
そう言うと湊羽さんのお母さんはまた店の奥に行ってしまった。
「何かあれば呼んでね」
湊羽さんも店の奥に行ってしまう。今は客が僕しかいないとはいえ、こんなに不用心でいいのだろうか。そんなことを思いつつも僕はいくつかの本を選ぶ。
「――あれ、これどこにあったっけ?」
しまった。手に取った本が元々どこの棚にあったのかわからなくなった。
「少年」
いきなり背後から湊羽さんのお母さんに呼びかけられる。驚いてつい本を落としかけてあたふたする。
「はは、そんなに驚くことないじゃないか」
「な、なんですか」
湊羽さんのお母さんはじっと僕を見つめていた。
「え……な、なんですか」
「んー、いや……やっぱりあの人の若い頃に似てるのよね……」
「え?」
あの人? 誰だろう?
「あ、いや、なんでもないさ。ただ君がちょいと古い知り合いに似ててね」
うーん、誰だろう? 僕の知り合いにこの人の知り合いっぽい人はいないと思うんだけれど……
「突然だが少年よ」
いきなり湊羽さんのお母さんがずいっと近寄ってくる。
「彼女はいるかい?」
「え、いや。いません」
自分でも聞いたことないほど乾いた声が出た。
「そうか。ならいい」
いえ、何もいいことはありませんが?
「そこでだ少年」
「はい?」
「うちの娘なんてどうだい?」
想定の範囲外すぎる言葉に僕は今度こそ本を落とした。それを見て湊羽さんのお母さんは笑う。
「ははは、少年の反応は面白いな」
「いきなり何を言っているんですか」
僕は急いで本を拾いながら言う。
「いや、少年って本が好きだろ? うちの詩音も本が好きだし、なんなら少年より本に詳しいかもしれないぞ? どうだい」
「どうって、言われても……」
たしかに僕は本が好きだし、今日の昼休みに湊羽さんと話をしたときは楽しかったし、湊羽さんは可愛いし……あれ?
「おー、どうした少年。ぼうっとして黙り込んで。……頬が赤いぞー」
湊羽さんのお母さんがニヤニヤして言う。
「え、あ、いや別にその……この本の元々の棚がわからなくて……それで」
言い訳になってないな。たしかにこの本の元々の棚はわからないけれど。
「それなら八咫くんから見て右の棚の中央列。米国のホラーミステリーだから『米/ホ・ミ』って札のあるところ」
その声に驚き僕は振り返る。湊羽さんといい、お母さんといい、この母娘は人に背後からいきなり話しかけるのが好きなのか?
「あ、うん。ありがとう」
僕は言われた場所に本を戻す。
「ラヴクラフトて……八咫くんほんとに読んでるものが渋いというか、なんというか」
「面白いだろ、ラヴクラフト」
「うん、面白いよ。『死体安置所にて』とかユーモアあって私好きだもん。ただ現代の若者では中々いないぞって」
『死体安置所にて』を知っているということは湊羽さんもラヴクラフト読んでるんじゃないか。
「『死体安置所にて』って知っている人、それこそあんまりいないよ」
「まぁそれなりに私も色々読んでるからね」
僕と湊羽さんが会話していると、湊羽さんのお母さんがニヤニヤして言ってくる。
「ほーら、お似合いじゃん? くっついちゃえよ」
「ちょ、何言ってるのお母さん!」
湊羽さんが頬を赤らめる。素直に可愛いです。
「ま、ふざけるのもこれくらいにして。そろそろ五時だけど少年は時間大丈夫?」
もうそんな時間か。
「あー、そうですね……帰らないと」
「じゃあお会計かな。えーと、三冊ね。三百円」
僕は財布を開く。三百円丁度が無かったので、五百円玉を出した。
「すみません、丁度が無いので五百円で」
「はいよ、二百円お釣り」
お釣りと三冊の本を受け取り、僕は店を出ようとした。
「あの、さ! 八咫くん」
店を出る寸前で湊羽さんに呼び止められた。
「またね!」
「うん、またね」
軽く手を振って返し、店を出る。もう十二月下旬か。寒いな……。